第八話


  〈二日目、十五時二十三分〉


 枯れ草の中の、足元が辛うじて見える細く緩やかに登る道。見るからにそういう場所での活動に向いていない靴で気を付けながら歩いていた足を一旦止めて、謠子は周囲を見渡す。風を受ける頬が冷たい。昨夜と違い乾いているように感じるのは、場所が違うせいか。

 広がる枯れた草むらが、傾き始めた西日を受けて輝く。この辺りは全て、元々多和本家の所有する田畑だったのだと磨皓は説明した。祖父が警察官になって以降は手入れや管理する者がおらず、こうさくほうになってしまったのだという。だいぶ登ってきたようで、多和本家と蔵の屋根が下方に見える。

 小高い丘を登り切ると、すっかり葉の落ちた広葉樹の傍らに古い小さな木造の小屋、その横に井戸があった。先を行く磨皓の足が止まる。


 ここか。謠子は察した。


「こっちは農具をしまってあるらしい。僕は入ったことはない。……川羽田さんは、この、井戸に」

 ぽつりぽつり、磨皓は言う。井戸に目をやると、重たそうなコンクリート製のふたで塞がれている。開けた土地の中にはあるが、私有地である。しかも過疎化の進む集落、こんなところを好んで遊び場にする児童も、今となってはほぼいない。

なるほど。隠すには持ってこいだ」

 そっと蓋に触れた後、静かに合掌する。


 二十年も前に、自分とそう変わらない歳の少女が、突然――恐らく自身でも全く気付かぬうちに切り刻まれ、打ちてられた井戸。


 目を開けて、改めて景色を眺める。広く続く空の下に、遠くの山々。季節柄、今吹く風は冷たいが、一年を通して気持ちのいい場所なのだろう。


「こんなにきれいな場所を、こんなに哀しい場所にしてしまったんだね、きみたち一家は」

 遙かな山際を見つめたまま、謠子は小さく言った。

 磨皓はこたえなかった。




  〈二日目、十六時三分〉


 シーゲンターラー謠子を救出すべく多和本磨皓の実家へと向かう途中、平田篤久はとある場所へと立ち寄っていた。

 郊外にぽつんと建つ喫茶店。古くからある店のようで、駐車場に着いた時点では、ぱっと見やっているのかいないのかわからなかったが、出入り口のガラス張りのドアから店内を確認、そっとドアを開けると、上部に取り付けてあるベルが控えめにコロコロと鳴る。

 いらっしゃい、とこれまた控えめな声を掛けてきた老年の店主に目もくれず、平田は店の中をうかがった。一番奥の席に客がいるのを確認すると、静かに店主に紅茶を注文。店の片隅にいる唯一の客がいるテーブルの前まで行き、会釈する。

「お待たせして申し訳ありません。浄円寺データバンクの平田です」

 座っていたのは、平田よりも少し若い、二十代半ばくらいの男。

 彼は平田の顔を見ると、口を引き結んで立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。




  〈二日目、十七時〉


 時報のサイレンが鳴る。まだ照明を点けていない薄暗い居間のソファーで、謠子は再び膝の上に肘を付き、両手の指先を合わせて、真っ直ぐ前を見つめていた。別段何に視線を送っているわけでもない。何か思考を巡らせているのは一目瞭然だ。


 磨皓には、それが怖かった。


 川羽田沙苗のことを正直に話したにも関わらず、彼女はまだ弾を込め、磨皓を撃とうとしている。


 恐らく先程の口ぶりからして、一昨年の未成年ギフテッド逃走事件のときのことも知っているのだろう。

 当時の謠子はまだキャプターではない、ただのギフテッドの子どもだった。磨皓の上司だった浄円寺夫妻もその時には既にこの世におらず、行動の詳細を監視され記録されていたわけでもない。思い付きで言っているだけだと思っていたが――もしかしたら磨皓が考えているよりもずっと、このシーゲンターラー謠子という少女は頭が回るのかもしれない。


 全部。いっそ、全て話した方がいいのか。


 そうすれば、彼女は赦してくれるだろうか。


 台所でコップに水を注ぎながら、居間にいる少女をちらりと見る。

 先程脅したにも関わらず、遺体そのものが見えないとはいえ遺棄した現場に赴いたにも関わらず、謠子は冷静沈着であった。適正があるにしろ、キャプターの任に就いてまだ一年足らずの可憐な人形のような子どもが。磨皓は改めて、彼女の豪胆さに舌を巻いた。

 同時に、今後どうすべきか、とも思っていた。川羽田沙苗の件を話してしまったからには、益々謠子を帰すわけにはいかない。そしてこのままでは、自分もエリュシオンへ戻れない。


 ――殺すべき、なのだろうか。


 否。

 もう殺したくはない。


 ステラと同じではない、けれども、彼女は。

 あの怖い祖父はいない。もう燃やされたりしない。



 ここではすぐに知られてしまう。どこかへ逃げなければ。



 磨皓は水を一気に飲み干すと、階上の自室に向かった。

 その間も、謠子は沈黙したままだった。




   〈二日目、十七時十分〉


「あの」

 車に乗り込もうとした平田に、青年は声を掛けた。

「俺も行って、いいですか」

 モッズコートの長い袖の下に見える手が、強く握り締められ微かに震えている。平田は苦笑した。

「やめといた方がいいですよ」

「でも」

「全部終わってスッキリしてからの方が帰りやすいと思います。また後日、こちらから連絡しますんで」

「あのっ……担当してくれた方は、大丈夫、なんですか……? 女の人……なんですよね?」

 担当者――確かに、直接会わずにメールの文面だけでやりとりしていたのでは、相手の年齢などわかるはずもないのだが、その担当の彼女は「女の人」というにはだいぶん幼い。思わず吹き出す。

「……まぁ、何とか上手くやってるでしょ」

「えっ」

 いぶかしむ青年に、平田はにこりと笑顔を向けた。

「だぁ~いじょ~ぶですよォ。うちの代表はめェ~っちゃくちゃ出来る女ですからァ~。ではまた!」

「……はいっ、宜しくお願いしますっ」

 運転席に座り、シートベルトを締めてエンジンをかけ、走り出す。サイドミラーでちらりと後方を確認すると、青年はこちらに向けて頭を下げていた。平田の顔から笑みが消える。

「……大丈夫だよ、喜久ちゃんとウィリーの娘なんだから」

 今のところ、助けを求めるような緊急性の高いメッセージは届いていない。命をおびやかすような危険な目には遭っていないはずだ。

 と、そう走らないうちに、スマートフォンが受信音を鳴らした。急いで路肩に車を寄せて、画面を見る。


 [移動しそう]

 [多分、真っ暗になってから]

 [移動する前に合図するからそれまで近くで待機してて]

 [返信はしなくていいよ]


 移動、と呟いて、思案する。

「……まぁ、ずっと実家にいたんじゃわかりやすすぎるもんな。見付けてくれって言ってるようなもんだわ」

 後部座席に放るように置いてあったスリーブを取り、小型のノートパソコンを出して電源を入れる。多和本磨皓の実家周辺の地図を表示させると――ふと、疑問が頭をよぎる。


 合図?


 「真っ暗になってから」の「合図」?


 多和本家は山の中の集落、所謂いわゆる〝ど田舎”にある。街灯もほとんどなく民家も森や田畑の間にぽつぽつと点在するような、夜になれば星空の方が明るく感じる程の闇と静寂に包まれてしまう、そんな場所でするわかりやすい「合図」といえば、大きな音か強い光か、はたまた――



 何だか悪い予感がした。



 しかしそれは、謠子の身の危うさとか、そういう方向性のものではない。

 思わずゆっくり、固く目を閉じる。


「…………謠ちゃん。頼むから、できるだけおとなしくしてて……そういう変に思い切りのいいとこ、喜久ちゃんに似なくていいから……」


 平田篤久は、シーゲンターラー謠子の無事を確信した。

 あの子なら、大丈夫だ。絶対に。




   〈二日目、十九時五十五分〉


 作戦チームは、多和本磨皓を刺激しないように集落から少し離れた場所にある空き地に少しずつ、時間を掛けて集まっていた。相手が特別戦闘部隊所属のギフト持ちキャプターということで、やはり特別戦闘部隊のメンバーも投入されており、何やら物々しい空気が漂っている。

 キャプターといえばエリュシオンに属しないギフテッドを取り締まる警察のようなもの、つまりは公務員なのだが、車から下りた平田に近付いてきたのは、グレーのチェスターコートにカットソー、すらりと長い足が際立つスキニーパンツというシンプルな装いながら、どこか洗練された雰囲気を漂わせる背の高い中高年の男。首元に緩く巻かれたストールは、小さいがきらきらと輝く石のついたピンで留められている。とてもそういうたぐいの役人には見えない。

 その雑誌のモデルのような男こそ、今回の件で連絡を取っていた古い知り合いのキャプター、戸谷誠。非常に軽装だが、特別戦闘部隊に長年所属している。

「どーした篤ちゃん、遅かったじゃん」

 手渡された腕章を受け取り、平田は弱く笑う。誠は幼い頃から付き合いのある友人の父ということもあって気安い。

「ちょっと、依頼人に会ってて……その後渋滞に巻き込まれて……」

「あー、帰宅ラッシュの時間帯だったもんなぁ、よかったわ間に合って。……つーか依頼人て何だよこんなときに」

「今回の件に関係のある人物です」

 平田はジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、挟んであった写真を誠に見せる。

「川羽田たか。被害者の一人・川羽田沙苗の弟。元々謠子は何ヶ月も前にこいつからメールで依頼を受けてたんです。『子どもの頃に行方不明になった姉を探してほしい』って。だから多和本磨皓についての情報を溜め込んでいた」

「……はぁん、成程ねぇ」

「そんで小父さん。作戦なんですけど……指揮は誰が?」

 誠は歳の割に若々しい整った顔を歪めた。

「俺だよ! 一番わかってるだろうし言い出しっぺだからやれって上から言われたの! めんどくせーなぁもう!」

 とはいえ、彼も平田の年齢以上に勤めているベテランのキャプターの一人だ。しかも情報収集や諜報を主な仕事としていた浄円寺清海とは違い、捕獲に関しては現場慣れしている。

「だったら話が早い。うちのお嬢様からの伝言です」

 平田は、先程謠子が送ってきたメッセージの内容を提示した。

「いつも使ってるスマホは今使えないみたいで予備から送ってきてます」

「あぁ、だから繋がらなかったのか……多和本くんもずっと留守電になってんだよなぁ」

「多和本さんに電話かけたんです?」

「昨日の夕方には戻るってことになってたからね。謠子ちゃんと一緒だったから何か捕獲案件発生したかなーと思ってたんだけど……蓋開けてみりゃこれだもん、メール見たときびっくりしちゃったよ全く。……合図、か。わかった、ちょっとみんなに伝えてくるわ。ちゃんと腕章着けときなよ、間違って捕まっちゃうぞ」

「はぁい」

 渡された腕章は、派手な黄色の反射テープで縁取られた白いビニール地に太字で「協力者」と書いてある。つまりキャプターではない、外部の関係者として判別する為のものなのだろう。

 とりあえず、一旦、左腕に着けてみるが、

「うげぇ」

 黒いスーツには目立つ。

「何でよりによって日本語でしかもボールドゴシックなんだよ……」

 どうせキャプターの何人かには浄円寺夫妻を通じて顔と名前は知られているし、今回のことは特に謠子が関係している。こんなものを着けていなくても問題はないはずだ。

「俺は闇に生きる男よ……」

 平田は腕章を外すと、小さく折り畳んでポケットにそっと入れた。




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