第三話


   〈一日目、十二時九分〉


 いくら浄円寺データバンクが屈指の情報屋といえども、エリュシオン内のことに関しては探れないことが少なくない。平田篤久は早々に手詰まりしかけていた。

「んー……あんまり突っ込むと俺が捕まっちゃうなァ、ど~ぅしよっかな~……あン?」

 謠子のスマートフォンの電源が切られたことに気付いた平田は、液晶画面を睨んで舌打ちした。

「何やってんだよ謠子様よォ、何の為にGPS付けてると」

 そこまで言って気付く。同時に苦笑い。

「あぁ……そういうことねー、はいはい」

 自分のパソコンはそのままに部屋を出る。向かう先は、謠子の私室兼仕事部屋。

 謠子が使っているパソコンは複数台あるが、平田が使用しているものと同様に業務上の関係で電源が入れっぱなしになっているものが多い。特にメインで使っている大きな画面のデスクトップ型は、できるだけ電源が落ちないようにしてある。

 謠子がいつも座っているオフィスチェアの高さを自分に合うように調整し直して座ると、平田は少しだけシャツの袖を捲った。

「もしかしたら何かヒントあるかも~って俺がお前のパソコン使ったって、非常時だしだァれも文句言わねえもんな~。でも俺お前の組んだシステム全っ然わかんねえんだよな~、だからうっかりお前しか見れねえはずの施設内のデータ出しちゃったり見ちゃったりしてもしょーがねえよなァ~?」

 キーボードを叩き始めて、ふと手を止める。

「あ。お茶とようかん持ってこよ」




 助手席の謠子は変わらず冷静沈着であった。

 どうしてスマートフォンの電源を切ったのかと磨皓が問うと、

「多和本くん。僕の最大の武器が何か知ってるよね?」

 やはりうっすら笑って答える。彼女の最大の武器――それが生まれ育った家だというのは、磨皓にもわかる。

「僕の位置情報が漏れていたんじゃ、ゲームにならないじゃないか。既に僕は『多和本くんに屋敷まで送ってもらう』という大きなヒントを平田くんに与えてしまっている。……まぁ、今頃は僕がなかなか帰ってこないからって、いろいろ調べ始めてはいるだろうけど」

 ちらり、と磨皓を横目で見て。

「大丈夫? うちの犬はとても鼻が利くよ」

 平田のことか。彼女にとっての平田という男は、さしずめ自分を守りよく懐いている大きな犬、といったところなのだろう。

 浄円寺家の遠縁と言っていたから一応血の繋がりはあるようだ。しかし浄円寺清海と叶恵のことは「旦那様」「奥様」と呼んでいた。浄円寺家の主の座が謠子に移ってからも――どうにもその態度から強い忠誠心を持っているようには見えないのだが――先代同様に謠子を主人と定めてその下で働いているらしい。とはいえ浄円寺夫妻や謠子のようにギフトを持っているわけではない。


 優秀ではあるようだが、たかが子どもの飼っている犬。

 取るに足りない。


「持ちかけたのは貴女だ」

「乗ったのはきみだ」

「随分と自信がおありのようで」

「僕は勝ち目が全くない勝負はしない主義なんだ」


 勝ち目が全くない勝負はしない――負ける確率も少なくはないとみていいのだろう。


 それならば。


「大人をあまりからかうものじゃあない」

 磨皓は行き先を決めた。位置情報を特定できないのなら、監視カメラなども全くない、人目のつかない場所へ行けばいい。制限時間も明日いっぱいまでだ。長いわけではない。


 そんな磨皓のもくを知ってか知らでか、謠子はまた、くくっ、と笑うのだった。




   〈一日目、十四時二十分〉


「………………何だこれ」

 平田は画面に釘付けになった。

 飲もうとしていた茶の入ったステンレスマグを、そのままゆっくり、元の場所に戻す。

 謠子が多和本磨皓についての何かを自分に調べさせようとしていたのは確かだが――


「いや、マジ、なに……」




 市街地からずいぶんと離れた。木々に挟まれたさほど広くはない上り坂を、ゆっくりと蛇行していく。夜になれば、満月でも出ていない限りは周囲の様子もろくにわからなくなる程に真っ暗になってしまうだろう。

 そのうち、視界が少しずつ開けてきてぽつぽつと田畑が見え始めた。農具を収納しているらしい小さな小屋や、乗らなくなって久しいのかそのまま放置されている錆びた乗用車、まばらに建つ家の庭先にはまだ取り入れられていない洗濯物がはためいている。

 道中、磨皓は手洗いに行かなくてもいいか、休憩しなくてもいいか、都度謠子に問うたのだが、

「その間に僕がいなくならない保証はないけどいいの?」

 素っ気なく答えるだけだった。正直なところ、磨皓は長時間の運転で少し疲れていた。が、彼女の言い分は尤もであるし、彼女がそう言うのなら、と何となく自分だけ休むというわけにもいかないような気になってしまい、結局エリュシオンを出てから食料調達にコンビニエンスストアに一回、ほんの十分足らず立ち寄っただけで、ほぼずっと運転席に座りっぱなしだった。

「……もうすぐだから、着いたらとりあえず食事にしよう。遅くなってしまったけど」

「お構いなく。お腹空いてない」

「食べなきゃダメだ、育ち盛りなんだから」

「一日ぐらい食べなくても死にはしないよ。これでも普段充分な栄養を与えられている」

 そういえば謠子の世話は平田がしていたのだった、というのを思い出し、急に腹立たしくなった。平田篤久は、謠子がエリュシオンにいた数年間を除いてずっとそばにいる大人だ。

「……そういえば、平田さんは、貴女がキャプターになることについて反対はしなかったのか」

「反対、は、されなかったな。でも叱られはしたよ。事後報告だったからね」

「事後報告?」

「事前に相談なんかしてたら反対されるに決まってる」

 親しい平田にすら相談もしなかったのか。しかしそうなるだろうことを予測してキャプターに就任した後で告げるだなんて――

「……そういうのは、ずるくないか」

「罪に問われるわけじゃない」

 磨皓は詰まった。この少女は口が立つ。何を言っても次から次へと言葉が返ってくるだろう。納得はできないが疲労感が増すことをするのもよくないと思い、磨皓はそれ以上言うのはやめることにした。


 このとき、少しずつとはいえ民家が増えていくにつれて、頬杖をついて窓の外を見ていた謠子の深緑色の目が観察するようにきょろきょろと忙しなく動いていたことを、磨皓は知らない。




   〈一日目、十四時四十三分〉


 謠子は、昼食にと磨皓が買ったざる蕎麦のパックに全く手を付けず、リビングの中を観察するようにゆっくりと見て回っていた。

 磨皓が謠子を連れてきたのは、磨皓がエリュシオンに入る前に住んでいた家だった。頻繁にではないが、連休が取れた際には帰省するようにしていたから、荒れてはいない。

「多和本くんは、確かお爺さんとご両親がいたね。この家には住んでいないの?」

「……僕がエリュシオンに入ってから、海外にね。この家は残してもらった」

「ふぅん」

 また、自分で訊いておきながら興味がなさそうな返し。だが謠子は磨皓に限らず他の同僚に対してもこんな感じだ。たまたま棚の上に飾ってあるフォトフレームが目に入ったからそんなことを訊いてきたのか。

「清海さんと叶恵さん……謠子さんにとってのおじいさんおばあさんは、どんな人だった?」

 蕎麦を啜りながら、磨皓は謠子に問い返す。エリュシオンの外にある浄円寺邸には磨皓も何度かは通ったが、浄円寺夫妻は謠子とは違い、自ら出歩いて情報を集めそのままエリュシオンのキャプター本部に赴くことが多かった為、夫妻と謠子が接しているのを見たことはあまりない。記憶の限りでは、ごく普通の〝孫を可愛がっている祖父母〟と〝祖父母を慕う孫〟のように見えてはいたが。

「きみが知っている通りだと思うよ。お爺様は優しかったし、お婆様は厳しかった」

「確かに、叶恵さんは気の強い人だった」

 夫の浄円寺清海と共に磨皓の上司でもあった謠子の祖母・叶恵については、少し苦手だったことを思い出す。叶恵だけではない。清海も人当たりのよい穏やかな男で、普段は気丈で武に優れる叶恵に守られ――寧ろ尻に敷かれているように見えたが、ときどきそんな柔和な姿が嘘に思えるくらいに冷酷かつ、不敵に感じることがあった。

 とはいえ、二人とも職務は真面目にこなしていたから、その点においては尊敬できる先輩であったし、自分のことも部下として信頼してくれていた、と磨皓は思う。


 そんな彼らと同じようなことをしているのに、彼女はどこか、何かが違う。


「そういえば、まだ聞いていなかった。貴女はどうして」

 キャプターに、と訊く前に、

「それを聞いてどうするの?」

 謠子が遮る。振り返らない。おそらく彼女はまだ、磨皓の家族が写ったフォトフレームを見ている。


 その小さな背中が、一瞬。


「何のつもり?」

 謠子の声で、はっとする。

 己の呼吸が、鼓動が、近くに聞こえる。


 気が付いたら、謠子の背後に立ち、両肩を掴んでいた。


 手を離せないで立ち尽くしていると、そのままの姿勢で謠子は続けた。

「今、僕を誰と重ねた?」

「……なに、を、」

「カワダサナエ」


 名を耳にした瞬間、反射的に手を離す。が、まだ頭の中に鼓動が直接響くような感覚は引かない。


 ――何を知っている?


 ゆっくり、振り返った謠子は、目を細めるように睨んだ。

「きみのその口が正義を語るだなんてこっけいな話だね、多和本磨皓くん」


 その目は、色彩こそ違うものの、かつての上司によく似ていた。




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