本と授業と約束、そして
「イフリート! また来たわ!」
次の日、また僕が昨日と同じところで時間を持て余していると、トリアドールがやってきた。手には何か茶色っぽい四角いものを持っている。
「どうして1人でここまで歩いて来られたの」
昨日は適当に歩き回っていたはずだし、こんな平民の暮らすところの道なんて知らないだろうに。
すると、なんでもないというようにトリアドールは答えた。
「1、2度通った道くらい覚えられるわよ。見くびらないで」
ふふん、と得意そうに腰に手を当てて胸を張る少女に、僕は裕福な人は平民なんかよりもよっぽど頭の作りがいいんだろうな、とどこか自分と比べて悲しくなった。
……あれ? 『悲しい』?
「じゃあお隣失礼するわね」
「あ、うん」
黄色のハンカチを広げて、僕の隣に敷いた。
と。
「ねえ! これなんだと思う?」
「うわっ」
ハンカチの上に座るや否や、トリアドールは四角いものを両手でずいっと僕の目前に持ってきた。
「何も見えない」
「あっごめんなさい!」
……僕は謝られるような人じゃないのにな。
改めてそれを見ると、長方形でそれなりの厚みと大きさがある。大きい2つの面は皮でできており、側面のひとつも皮だ。留め具っぽいものがあるから開くものなのだろうか。装飾がしてあり、高価なものだとひと目で分かる。他の3つの側面から見えるのは、とても薄くて白っぽいもの。それが幾重にも重なっている。
……なんだこれ。
というか、こんなもの平民が普通に持っているようなものではないような。そもそも知っている人も少ないのでは。
「分からない」
「そう言うと思ったわ!」
この正体を教えられることが嬉しいと言わんばかりにトリアドールはニコニコしだした。
「これはね、本っていうの」
「ほん?」
「そう! これにはね、いろんなことが書いてあるのよ。とっても面白いの」
そう言いながら本の留め具をぱちんと外してバラリと開いた。
「わぁ……」
「すごいでしょ?」
見たことのない小さな文字がところ狭しと、しかし規則正しく、手書きの綺麗な形で並んでいた。よく分からない絵もたくさんある。
なんとなく引き込まれた。
「この本にはね、いろんな悪魔が書かれてあるの」
えっ、と僕は驚いた。
「トリアドールは悪魔を呼び出したりするの?」
「できないわ……お父様は本当に時折、最終手段と言って使うことがあるけれど。存在は覚えるだけ覚えておきなさいって」
「ふうん」
悪魔なんて、ありもしないものを信じるばかな大人が勝手に言っているものかと思ってたけど、そんなことないんだ。
少ししゅんとしたトリアドールに気づかないふりをして、僕はさらに聞いた。
「じゃあ、ここに書いてあること読めるの?」
「もちろんよ。平民は字が読めないことが普通だけれど、本を持てるような家では読めるのが当たり前なんだから」
「へぇ……」
確かに平民は基本的に字が読めない。文字を必要としないし、貧乏だから文字の教育を受けられない。僕も本なんか読めないだけでつまらない。
はずだった。
「イフリート、なんだか目がとってもキラキラしてるわよ?」
「え?」
「字は読めないのなら……もしかして絵に惹かれてる?」
「……そうかも」
字こそ読めないが、不可思議な絵がたくさんあって、うまく言い表せないけどおもしろい。胸のあたりがなんだかふわふわしてどきどきしてる。
なんだろう、この感じ。
こんなこと、今までなかった。
「これは何?」
僕は試しにトリアドールが適当に開いたところに描いてあった絵のひとつを指した。その悪魔は天使のような羽にふくろうのような鳥の頭、右手には剣を持っていて狼にまたがっている。
「それはアンドラスっていうの。破壊が大好きで、召喚者やその仲間を皆殺しにしようとしたり、人間関係を壊そうとしたりするのよ。逆に、敵を全滅させる方法を教えてくれたりすることもあるわ」
トリアドールはそこに書いてあるだろうことをそのまま言うのではなく、だいぶ砕いて分かりやすく言ってくれた。
「じゃあ、こっちのおっきな蛇にまたがってるのは?」
次に指指した悪魔は、右手に火のついた松明を持ち、首の付け根には猫と蛇の頭が生えていて、耳が上に大きく尖がっていた。
「それはアイム。松明でお城や都市に火を放っちゃうんだけど、いろんな方法で隠された物事の真実を教えてくれたりするのよ」
「悪さ以外のことする悪魔もいるんだ」
妙に感心して言うと、当たり前じゃない、と言われた。
「悪魔だっていっぱいいるんだから。逆に、本当に悪さしかしない悪魔はあまり聞かないわ。いろんな性格をした人間がいるのと同じなのよ」
「言われてみればそうかも」
そうか。人っていっぱいいるんだ。みんな僕を避けて嫌うけど、トリアドールみたいに僕と話をしてくれるような人もいるような、そんな感じ。
「ねえ、もっと知りたい。教えて! ……あ……ダメ……かな?」
つい勢い余って教えてと言ってしまったが、僕が深く知ってはいけないことかもしれない。そもそもトリアドールに迷惑だ。
そんな僕の心配は必要なかった。
「いいわよ! じゃあ、この本の最初から順番に教えてあげるわ」
笑ってトリアドールはページをめくった。
◆◆◆
「じゃあこのハエみたいなのは?」
「それはベルゼブブっていう名前で……あら? もう日暮れじゃない。夕日が見えるわ」
「ほんとだ、気づかなかった」
「じゃあ、このつづきはまた明日ね」
ぱたんと閉じられた本をギリギリまで眺めていようとした僕は、あっ、と声を上げてしまったと同時に、今トリアドールが何気なく言った言葉を時間差で認識して驚いた。
「また……あした?」
「明日も来るわ」
何とはなしに言う言葉にまた驚く。
「明日も来てくれるの?」
「ええ。イフリートに会いたいもの。だめかしら?」
「そんなことない!」
頬に手を当てて首を傾げて問うたトリアドールに間髪いれず僕は否定して、自分の口から思った以上に大きな声が発せられたことにびっくりした。
いつも小さな声でしか喋らない僕が急に大きな声を出したことにトリアドールも驚いたようで、目をぱちくりとひらいている。
「あ……」
「そうね、じゃあ指切りしましょ!」
「え?」
ごめん、と言おうとした僕よりもはやく、トリアドールは自分の右手の小指を立てて僕に差し出した。
「指切り?」
「約束のおまじないよ。こうやってね、小指を立ててみて」
言われるがままに僕も右手の小指を立てるとトリアドールは自分の小指を僕の小指に絡めた。
「指を伸ばしたままじゃだめよ?」
どうすればいいのか分からずぼんやりしていた。慌てて指を曲げて絡める。
「ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます!」
楽しそうに歌いながら手を上下に揺らす。
「ゆーびきった!」
するりと小指が離れていき、僕は自分の小指をしげしげと眺め、トリアドールの小指に視線を投げた。
「指切れてないよ?」
「私の指まで勝手に切らないでちょうだい」
そして僕らは笑い合った。
『見つけた——』
遠くの影で彼らを見つめる、ニタリと笑う陰の存在を知らずに。
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