引き金
トリアドールは毎日本を持って僕の元に来るようになった。
初めはまた来たのか、とため息でも出そうな気持ちで迎えていたのだが、3日としないうちにまだ来ないかな、と思うようになった。
本の内容も違うことが多かった。神の名前の本や草花の本、神話に昔話に英雄記。また悪魔の本を持ってきても、前とは違う本だったり。いろんな本を見せてくれた。
本と一緒に小さなカゴを持ってくるときもあった。被せてあるハンカチをめくると、甘い香りの綺麗なお菓子がそこにあった。そもそも平民はお菓子なんて高価なものは食べられないから初めて持ってきてくれたときは僕は内心プチパニックになって固まってしまい、トリアドールに持ってきたかいがあった、と嬉しそうに笑われた。
この前持ってきてくれたのはクッキーで、かじったときのさくっという音が面白くてたくさん食べた。気がついたらカゴの中は空っぽになっていて、しかもその大半を自分が食べていたことに気づいて土下座をする勢いで謝ったが、気に入ってくれてよかったわ、またお菓子持ってくるわね、と笑って言われた。
ちなみに甘いものが体に合わないのか、お菓子を食べ慣れていないからなのか、はたまた食べすぎるからなのか、それを食べた日の夜は大抵横腹がうずくのだが、見慣れない食べ物を前にすると、どうしてもいつもそれなりの量を食べてしまう。言っておくが後悔はしていない。
そんなふうにお昼にいつもの場所で会い、本を広げて笑いあ合って、たまにお菓子をつまんで別れ際には指切りして、またねと言って手を振る。毎日が楽しくてわくわくして、その日の胸にできたわくわくを、そっと抱えて狭い犬小屋で眠る。朝がきて目が覚めたら、今日は何の本を持ってきてくれるんだろうと、またわくわくした。
そうして久しぶりの誰かと過ごす夏の盛りも過ぎ、暑さが和らいできたある日、僕はトリアドールが来る時間の少し前、森に入っていた。
秋になると果実が実る。いつもお菓子を食べさせてくれてばかりだから、いくつか採ってあげようと思ったのだ。
今ならぶどうか梨あたりが採れるかな。栗も採れると思うけど、生では食べないのが普通みたいだからなぁ……
慣れた獣道を通りながら大きく実った果実を探す。めぼしいものがあれば採る。
両手にいっぱいになるぐらいまで取れたとき、ちょうど川の流れているところに出た。果実はいつもそのまま口にしているのだが、今日は少し洗っておいた方がいいだろう。
果実をそばに置いて座り、手を洗って顔を拭う。手で少しすくって飲み、ふうと息をついた。気づいていなかったが、喉が乾いていたらしい。また少しすくって飲んだ。
置いておいた果実を水に晒すように洗う。ぶどうは粒が流れていかないように気をつけながら。ぶどうの他には桃とザクロが採れた。梨は見つからなかったが、これだけあるし、まあいいか。
喜んでくれるといいな。
洗った果実をトリアドールにもらった黄緑色のハンカチに包んで抱え、走りだした。自分の体温で果実が温まってしまう前に食べさせてあげたかった。
深く森に入ってはいなかったから、すぐにいつもの場所についた。トリアドールはもういて、いつものようにハンカチを敷いて座っていた。ただ、暗い顔で俯いていた。
「トリアドール!」
がさっと枯れ葉を踏みつつ少女の名を呼ぶと、ぱっと顔を上げた。
「イフリート! もう、びっくりしたわ。来てみたらいつもいるのにいないんだから。何かあったのかと思ったわ」
心底安堵するように胸に手をあてて息を吐くトリアドールに、僕は隣に座るや否や手に持っていたものを差し出した。
「トリアドール、あのね、これを採ってたんだ」
ハンカチの包みを開いて見せると、まあ! と声を上げた。
「おいしそうな果物ね! みずみずしいわ」
「今さっき採ってきたからね。トリアドールの持ってきてくれるお菓子のお礼がしたくて」
すると少女は目を見開いた。
「私がイフリートに食べてほしくて勝手に持ってきているだけなのに……」
「同じだよ!」
「え?」
よく分からないというように、首を傾げる。
「僕だってトリアドールに食べてほしくて採ってきたんだ。僕はこんなものしかあげられないけど……それに」
僕はトリアドールの目を真っ直ぐに見て言った。
「トリアドールは僕にいろんなことを教えてくれた。こんな僕を嫌がりもしないで。全部面白いことばっかりで、飽きないんだ。僕の知らない世界がこんなに面白いとは思わなかった。それに、この面白さを気づかせてくれたのもトリアドール。だからお礼がしたかったんだ」
「イフリート……」
「またいっぱい採ってくるね」
にこりと笑うと、トリアドールは照れたように少し頬を赤らめて笑った。その赤い頬を指でつんとつつきながら僕も笑った。
「ほっぺた赤いね」
「い、イフリートがあんなこと言うからでしょう!?」
「あんなこと?」
どれだろう。照れるようなこと僕言ったっけ?
「分からないなら分からないままでいいわ! このお話は終わりにしましょう!」
「え?うん。今度はりんごを取ってくるね」
「……楽しみにしてるわ」
トリアドールはぶどうを一粒房から取って食べた。
「あなた、変わったわ……」
「?」
……なんでさっきからずっと顔が赤いんだろう? というかちょっとずつ赤みが増してるような。
「きょ、今日はね、悪魔の本を持ってきたの。イフリート、好きでしょう?」
「うん!」
一瞬、ほっ、と小さく息をついたトリアドールは、いつものようにばらり、と本を開いて、そのページにあった絵を指差した。
「これはシトリー。望みの人を愛させたり、相手の秘密を暴くことができるの。命令に応じて、とても美しい人の姿をとるともされているわ」
「じゃあ、これは?」
次に指差したのは隣のページの絵。
そこで、あ、と小さく呟き、トリアドールの動きが止まった。
どうしたのかな。まだ今日は本を開いたばかりなのに。いつもなら、それはね、って言って教えてくれるのに。
「トリアドール?」
名前を呼ぶとはっとして、なんでもないわ、と少女は言った。
「ちょっとここは私には分からないわ……ごめんなさい」
「いいよ、僕だって字は読めないんだから」
「ありがとう……あっ、そうよ!いいもの見せてあげる」
いいことを思いついたと言わんばかりにトリアドールはページをめくりだした。しばらくめくっていたら目当てのページを見つけたらしく、ここよ! と言って動きを止めた。
「フェニックス! 私の1番好きな悪魔!」
そう言って指差した絵は、燃える焚き火の上に鳥がいた。
どこか、トリアドールのいつも下げている家紋によく似ていた。
「これはね、不死鳥とも火の鳥とも呼ばれているの。死んでも蘇る、永遠のときを生きる悪魔なのよ」
にこにことこれ以上はないと言わんばかりの笑みで語るトリアドールに、僕は素朴な疑問を投げかけた。
……それが、この日々を終わらせるきっかけのひとつになることも知らずに。
「どうしてトリアドールはこの悪魔が好きなの?」
「私の家の悪魔だからよ」
私の家?
「家紋にもこの悪魔がデザインされているでしょう?」
そう言って、手の平に乗せて見やすくしてくれた家紋には、確かに本の絵とよく似ていた。違うと言えば、雷を纏っていることぐらいだろう。
何か嫌なものを感じて僕はさらに聞いた。
「ねえ……僕、トリアドールの家名……知らない。……教えて?」
「え? 見れば分かるでしょう? スパーク・フェニックス。私の名前は、トリアドール・スパーク・フェニックスよ」
家紋のネックレスの紐を指で掴んで揺らしながら、どうして知らなかったのか、と不思議そうな顔をしている。きっと、だいぶ名の知れた家柄なのだろう。
実際、トリアドールは自分の家名は家紋を見れば分かると思っていたし、家名を口にすることで脅かしてしまうのでは、と思って言わなかった。しかしどんなに世界に知れ渡った貴族であろうとも、家名のことは何も知らないイフリートに、そんな気遣いが伝わるわけがない。
「……そっか。そうだったよね。ちょっとだけ忘れていたみたい」
「そうなの?」
声が少しだけ震えてしまったことには気づかず、びっくりしちゃったわ、と言うトリアドールに僕は言った。
「ねえ、フェニックスのこともっと教えて」
「いいわよ! フェニックスはね、詩作がとっても得意なのだけど——」
それからの言葉はなんだか右から左だった。身近に感じていた少女は、本当は自分と話すことは愚か、会うことさえも許されない家の者。
——私の名前は、トリアドール・スパーク・フェニックスよ。
家名を聞いたとき、それを暗に突きつけられた気がした。
分かっていたのに。一体いつから忘れていたのだろう。
トリアドールの話の区切りがついたときに桃を手に取り、皮を適当に剥いてかじった。まだ少し硬い果肉は、どこか味がしなかった。
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