8年遅れの命名
夜が朝に世界を明け渡し、あたりの陰がやわらいでいくとき、僕は入り口から細く差し込む光に目を覚ました。
ぼんやりする頭で板をずらそうとしてそれに触れたが、変に押してしまい倒れそうになる。慌てて手を伸ばして掴んだから大きな音が出てしまうことは避けられたが、入り口の上の壁に額を思いっきりぶつけた。ゴンッという音とともに目の前で星が散る。のを見た気がする。
「いたぁ……」
板がたててしまっていたであろう音よりだいぶ小さい音だったから、父さんは気づいていないだろう。朝から父さんを不機嫌にでもしたら朝ごはんをもらえなくなる。おかげで目は覚めたけど。
痛む額をさすりながら犬小屋を出てまた板を戻す。父さんの家の裏口に立ち、台所で音がし始めるのを待つ。しばらくすると音が聞こえてきたから、僕はコンコンコン、と扉を叩いた。……返事はない。
コンコンコン…………
コンコンコン…………
コンコンコン…………
一定のリズムで叩いた後、しばらく待つ。そしてまた一定のリズムで叩いて……を繰り返す。
そしてまた次を打つ。
コンコン
「うるせぇっ!!!」
3回打つより早く扉が開いた。僕は外開きの扉に押されて地面を転がった。
「これやっからさっさとどっかでくたばりな!!」
パンの切れ端とりんごの芯と、ちょっとしなったキャベツの芯を投げて、父さんはバタン! と大きな音を立てて扉を閉めた。
かくいう僕は最後に投げられたキャベツの芯しかキャッチできず、ほかの2つを土の地面に取り落としてしまった。
それでも僕は少し上機嫌だった。
「りんごがある……!」
それにいつもより少し量が多い。
僕は地面に落ちた2つを拾い上げ、近くの壁にもたれてパンをちまちまとかじり始めた。
さっきのはいつものこと。あんなふうにしつこくしないと朝ご飯がもらえない。お昼は詐欺まがいの商売のために出店に出ていていないし、夜は僕がうとうとし始めた頃に酔って帰ってくるからご飯をもらえるのは朝だけだ。
もらえるものもいつも違って、昨日はパンとハムの切れ端だった。レタス1枚しかもらえなかった日はいつだったっけ。3日前だったかな。
少しずつ大事に食べてもご飯はすぐになくなってしまう。なのにお腹はまだ空腹を訴えている。
僕は立ち上がって歩き出した。
向かっているのは町で1番賑わっている中央市場。店や建物が並んでいて、人の往来がすごく多い。
僕の街では階級が貴族と平民の2つに分けられている。そのうちの平民には、貴族とほぼ同じくらいの財力を持っている家もあって、実際のところは貴族、裕福層、平民、みたいに3つに分けられてると言っても過言じゃない。ちなみに裕福層は貴族の側仕えみたいな立場の人が多い。
その貴族もたまに通りかかるくらい、ここは賑わっている。
でも僕みたいなのが表の通りを通ることは許されないし、僕も通りたいとは思わない。
用があるのは裏手。表と違ってじめじめしていて日が差さない、人はなかなか通らないところ。
ゴミ箱がたくさんあるところ。
裏手に回ると、物陰で日が遮られてひんやりとした風が頬を撫でた。
今は夏の盛りの手前の、日に日に暑さが増していく頃。ここみたいな、少し涼しくて過ごしやすい春になりたての頃の面影は、全くと言っていいほどない。
僕は1番近くにあったゴミ箱に近寄り、蓋を開けた。
「いいの、ないかなぁ……」
ガサガサと中身をかき分け、溢れたゴミが地面にぼてぼてと落ちていく。しばらく漁っていたが食べられそうなものはなく、いつの間にか足元で山になっていたゴミをゴミ箱に戻していく。面倒で仕方がないのだが、こうしないと見つかったら容赦なく怒られてしまう。まあ、漁っている時点で見つかればどちらにしろ怒られるのだが。
元に戻して蓋をして、また近くにあったゴミ箱の蓋を開ける。また同じことを繰り返す。あ、これなら食べられる、と思えるものがあればその場で口に運ぶ。そしてまた次を探す。
それらを繰り返して、次のゴミ箱の蓋を開けようとした。
「誰だ!」
びくっとして声の聞こえた方を見ると、表から店と店の間の細い通路を通って男が近寄って来ていた。
「あ? お前まさか『鬼の連れ子』……おい待てっ!」
男が言い終わる前に僕はぱっと駆け出した。後ろでうまく戻せなかった蓋がガランガランと地面に落ちた音がした。男は追ってこない。
僕のことを鬼の連れ子と呼んでいたから果物屋の店主だろうな。感が鋭いみたいでたまに見つかる。またしばらくはあそこ周りは近寄らない方がいいかも。
ご飯のことは今日はもういいとして、あとは夜までやることがない。
土をザッ、ザッ、と音をたてながらゆっくり歩く。さっき全力で走ったから正直もう動きたくない。お腹が無駄に空いてしまう。
僕が今向かっているのは僕の家じゃない。正直あの近くにいるのはどこか息苦しくて、ずっと居たいと思える場所じゃない。
じゃあどこに行くのかというと、家から近いところにある壊れかけの空き家。暇で暇で仕方がない時間のほとんどをここの物陰で、雲のゆったりとした動きを目で追ったり、近くの山に生えている木の、1本1本についている木の葉が風に吹かれて揺れているのを眺めたりして過ごしている。
空と山がよく見えて、人目につきにくい裏手の壁が僕のお気に入り。周りは埃が積もっていたり、葉っぱが生えていたり、どこから伸びてきたのか分からないつるが巻きついていたりするけれど、僕がいつも座っているあたりはそこまでごちゃごちゃしていない。別に掃除とかしているわけじゃないし、砂埃はたくさんついているけど。
いつもの場所に座って空を仰いだ。雲ひとつないまっさらな水色が目に飛び込んできた。
見るからにいいお天気だけど、僕はこんな空は物足りないといつも思う。空を半分くらい、それかもう少し少ないくらいに雲が浮いているのが1番好きだ。じぃっと見ていたら、流れているのが分かるくらいの動きがあれば最高。見ていて飽きないから。
ふう、と軽く息をついて山の木々に視線を移した。風は感じられないけれど、空に近いところは少し吹いているみたいで、これからさらに伸びていく緑の濃い木の葉がたまにさわさわと揺れていた。
早く秋にならないかな。
秋は結構好きだ。花が枯れて、葉は赤や黄色に変わって、たくさんの木の実が森を満たすとき。ゴミ箱なんか漁らなくても、ちょっと歩いたところにある森で、木の実をたくさん食べられる。まあ、そのあとの冬がすごく辛いんだけど。
なんてことをぼんやり考えながら自分の世界にふけっていると、一体どれくらいのときが過ぎ去ったのだろうか。普段は聞こえるはずのない足音が聞こえてきて現実に引き戻された。少しずつ音が大きくなってきて、こっちに向かってきているのが分かった。1人しかいないみたいだ。
どうしよう、隠れようにもすぐにめぼしい隠れ場所を見つけられるほど僕は器用じゃない。というかここ自体が隠れ場所なのに。
見つかったらどうなるんだろう。怒られるかな。蹴られるかな。殴られるかな。もしかしたらどこかに連れて行かれて、いや僕みたいなのを連れ去るようなもの好きなんてそうそういないと思うけど……ってそうじゃなくて。
足音はもうそこまで来ている。
どうすることもできなくて、結局そのまま座り続け、俯いて膝を抱えて、ちっちゃくなってやり過ごそうとした。
そして、そのときはやってきた。
「あら? 誰かいるの?」
女の子の声だった。足音が自分に向かってやってくる。僕の正面にやってきて足音が止まった。
「あなただあれ? 不思議な髪色ね。どうしてこんなところにいるの?」
聞こえないふりをした。答える名前なんてもってない。
早くどこかへ行って。
「どうして何も言わないの? 顔を上げてちょうだい」
それは僕は嫌われてるから。僕の変わった外見がバレてしまうから。
お願いだから、早くどこかへ行って。
「……顔を上げてちょうだい」
突然、同じ人のものとは思えないほど冷めた声がした。それは少し苛立っているようにも聞こえて、僕はなんだか恐ろしくなっておそるおそる顔を上げた。
綺麗な黄色と視線がかち合った。
「あなた、もしかして『ヘカテーの養い子』?」
不思議な少女だった。
僕を覗き込む、ぱっちりと開いた大きな目の中に収まる綺麗な黄色い瞳はまるで月のよう。赤がかった濃いピンクの髪は、右寄りの前髪の一房だけ黒く艶々と輝いていて、肩くらいまでの長さに揃えたツインテールを紐で結んでいた。僕とあまり変わらないくらいの年齢に見えるのに、いかにも裕福な暮らしをしていると分かる服装で、家紋の入ったネックレスをしていた。家紋は雷を纏った鳥が焚き火に煽られながら飛んでいるような絵をしていた。
「私の名前はトリアドール。あなたは?」
どうして家名を名乗らないんだろう。家紋でわかると思っているのだろうか。それとも僕が薄汚いからだろうか。家紋を身につけるのは貴族か裕福層だが、そんな人が私用で姿を現す町の中央に行かない、行けない、行きたくないと三拍子が揃ってしまっている僕に分かる訳がない。
「あなたの『ヘカテーの養い子』の名前は二つ名でしょう? あなたの名前が知りたいの」
名前なんてもってないのに。
そもそも僕みたいなのがこんな綺麗な子と話をしていいものなのだろうか。それ以前にどうして供もつけずにこんなところを1人でいるのだろう。
「どうしてずっと何も言わないの?」
むっとした顔をする少女に、このまま黙り続けるのはまずいと本能が訴えた。
「……名前は、ないから」
「あなた、自分の名前を持ってないの?」
こくりと僕は小さくうなずいた。
「名前はとっても大事なものよ。自分が産まれて初めてもらうものだから。名前がないなんて、死んでいるのと同じことだってお母様が言ってたわ」
生まれて、初めてもらうもの……名前のない僕は、何を初めてもらったのかな。……わからない。全部どうでもよかったから。
邪魔な僕は、いつも死んでいるようなものだったから。
「そうね、じゃあ私が名前をあげる!」
さわりと流れた風に、少女の髪が揺れた。
「イフリート! あなたの名前はイフリートよ。大事になさい!」
ふふん、と得意げに宣言する少女に僕は首を傾けた。
「いふ……?」
「イフリート。言ってみて!」
「……イフ、りート」
「そうよ! じゃあ改めて」
こほん、とわざとらしく咳をした少女は、にっこりと笑って言った。
「私の名前はトリアドール。あなたの名前は?」
「……えっと……僕の名前は、イフリート」
「よろしくね! イフリート」
笑うトリアドールは、まるで太陽のようだった。
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