第54話 会いたい人に会うということ
最上段に『色浦冬子』と表示された僕のスマホのメッセージ画面に文字が躍る。
春日初:久しぶり冬姉
春日初:起きてる?
冬姉:ハジメ君? え、本当に?
春日初:本当にハジメ君です
冬姉:嘘じゃないよね?
春日初:嘘じゃなくて春日初だよ
冬姉:問題です、私の好きな犬は?
春日初:パグ
冬姉:ハジメ君だーーーーーーー!!
窓の向こうから、音量としてはささやかな、けれど騒々しい物音がした。
今の冬姉の状況を生暖かい目で見つめたいという欲求をぐっと堪えて、僕はメッセージを続ける。
春日初:溜まってたメッセージ読んだよ
春日初:心配かけて本当にごめん
冬姉:とても心配しました
冬姉:お姉ちゃんはご立腹です!
続けてスタンプが表示される。女の子がプンプンしている。
冬姉:ちょっと待って
春日初:何?
冬姉:読んだの?
春日初:うん
冬姉:全部?
春日初:うん
冬姉:一旦忘れて? 履歴全部消して?
春日初:ムリ。
春日初:保存したから
僕もスタンプを返す。一仕事終えたむさくるしい眼鏡男の顔。筆字で添えられた、『大切に保存した』という文句。
冬姉:ああああああああああああああああああああ!!!
春日初:春日初は、
続けてスタンプを送る。サングラス姿の男が剣呑な表情で笑っている。『俺は弱みを握った』とのモノローグが傍らに浮かぶ。
春日初:冬姉のメッセージはこれから毎晩朗読します
冬姉:しません
春日初:します
冬姉:だめです、お姉ちゃん命令です!
冬姉のお姉ちゃん命令が発令された。どんな悪戯をしていても、この命令が出されたら僕はいったん引き下がる。
僕と冬姉の間で構築された絶対不可侵の不文律だった。
でも、対案を出すことは禁止されていないんだよなあ、と僕はくすりと笑う。
春日初:お姉ちゃん命令なら仕方ないね
冬姉:ないよ
春日初:代わりにプリントアウトして家宝にします
冬姉:アウトです!
冬姉がスタンプを寄こした。野球の球審が「アウトオォォォ!」と絶叫している。
春日初:ならこれまでの分は諦める
春日初:今日から先メッセした内容だけ家宝にします
冬姉:十分ダメ! ツーアウトです!
冬姉:てかハジメ君
冬姉:これからもメッセするの?
春日初:したい。ダメ?
冬姉:ダメじゃない!
冬姉:これっぽっちも、ぜんぜん!!
ぽんっ、という音とともに冬姉のスタンプが表示される。擬人化された犬が親指を立てて、「それ、アリだね!」と言っている。
春日初:やった! ありがと!
春日初:……と言っても、すぐに返事できないことが多いけど
春日初:でも、絶対返信するから
僕は勝利条件を一つクリアした。今後も冬姉とLINESでやり取りするという言質を取った。これで何かあっても冬姉と連絡を取れる。
作戦を次の段階へと移行させるタイミングだった。
冬姉:分かった
冬姉:ところでハジメ君、今どこにいるの?
冬姉:何してるの?
春日初:それは
春日初:これからトークで話すよ
僕はここでメッセージのやり取りを中断し、画面上にある電話の受話器を象ったアイコンをタップする。一秒も経たずに通話がつながり、スマホのスピーカーからノイズ多めの静寂が響く。
『……ハジメ君!?』
「ハジメ君だよ、冬姉」
『本物?』
「パグ」
『その質問今してないけど、本物だね』
「僕にも質問させてよ。本物か確かめたい」
『何?』
「春日初が聞いたら恥ずかしくなるエピソードを一つ教えて」
『うーん……、ハジメ君が小学六年生くらいの時かな、私の膝の上に抱っこされるのを嫌がり始めたけど、その頃からハジメ君、私の胸やスカートをチラ見するようになった』
「……正解。本物の冬姉だね……」
上手に隠していたつもりの視線が全てバレていたことに愕然としながら、僕はやっとの思いで答える。調子に乗って聞かなきゃよかった。
速やかに会話の流れを本筋に戻すことにする。僕にこの手の羞恥プレイはまだ早い。
「……僕がどこにいて、何をしてるかって話だったよね」
『そう、そうだよ! ハジメ君どこにいるの?』
「えーと……日本にいて、高校生してる」
『ハジメ君、それほとんど答えになってないよ?』
僕はここからしばらく続く追及をのらりくらりとかわした。冬姉の追及は収まる気配がなかった。かわし切れなくなるくらいなら、と僕はしぶしぶ、といった体で口を開く。
「……でも、僕が今いる場所についてなら、少しだけ、ヒント」
『ヒント? はよ、ハジメ君、はよ』
「雨が降ったよ」
『……?』
「ていうか、今も降ってる」
『どういうこと?』
「……冬姉のところでも雨が降っていますか?」
『ーーーーーっ! 過去ネタでお姉ちゃんをいじるの禁止です! もーっ、ハジメ君の意地悪は時々心をえぐるんだよ、分かってる!?』
冬姉がスマホの向こう側でぷんすこしている。
楽しかった。気兼ねなく、ずっと一緒にいたかのように、じゃれあうように会話している状況がただ単に楽しかった。
僕と冬姉がこの一年間、失くしていたものだ。
「ごめんごめん……何が言いたいのかって言うと、そんなに遠くない場所にはいるよ、ってことなんだけど……」
『……そっか、うん、分かった』
これ以上の譲歩を僕から引き出すのが難しいと気付いたのだろうか、冬姉が引き下がる。
そして僕が言葉を選ぶ局面が訪れる。
敢えて冬姉が何か話し出すのを待って会話に花を咲かせて楽しいひと時に浸るのもいいな、とは思った。冬姉との会話に対する飢えはまだまだ満たされていない。
それでも僕には自分からこの夢みたいな時間を終わらせることを選ぶ必要がある。
「僕のことばかりじゃなくて冬姉のことも聞かせてよ」
『なーに、ハジメ君?』
「冬姉は元気なの? 最近楽しい?」
コールタールが垂れ落ちるような重たくぎこちない沈黙が挟まった。
『楽しかったよ、でも……』
「……可愛い後輩さんを傷つけたの?」
冬姉は自分が春日初を傷つけ、殺したのだと思っていた。その本人から他人を傷つけたかどうかを確認される。冬姉の精神に多大な負荷がかかっているのは顔を見なくても分かる。
それでも僕はそのことに気づかないふりをする。
『……どうして……私、相手のこと言ってない……』
「メッセージを見て気付いたよ。今の冬姉が傷つけて、その事で冬姉が傷つく相手は誰だろうって考えたら、最初に浮かんだんだ」
僕は都合よく洞察が働く人間であるふりをした。
冬姉は口を開かない。断罪されると覚悟しているような沈黙の上に、僕は努めて優しい声を重ねることにする。
「……きっと大丈夫だよ」
『簡単に言っちゃだめだよ!』
冬姉が唐突に、強く言い放つ。
その声は僕を一撃で戦闘不能にする、僕のトラウマだ。
声を聞いた瞬間僕の身体が硬直しそうになる、金縛りのように動けなくなる前に僕は右手の拳で自分の頬を殴りつける。
頬が熱くしびれた。それをちゃんと感じられているから、まだ僕は大丈夫だと思った。
今僕が止まってはいけない、止まった瞬間これまで積み重ねたものが水の泡だ。
だから、僕は口の開き方、息の吸い方と吐き方、のどや舌の動かし方、その全てを全力で制御して、これまでと変わらぬ調子で続ける。
「……簡単だよ。きっとその子は冬姉に懐いてて、頭を撫でてもらって、僕にはわかる、冬姉のことが好きなんだ。だから大丈夫。傷つけたって、その子が傷ついたって、きっと元通りになるよ」
『何でそれがハジメ君に分かるの? 会ったこともないでしょ?』
「会うまでもなく分かるよ。だって、僕と同じだから……あ、やっぱりここにあった」
後輩の気持ちが分かると伝える、その一方で後輩の正体に限りなく迫ってもいる、そんな危ない台詞を無自覚に吐きながら僕は立ち上がり、部屋の明かりをつける。煌々と光を放つLEDの光に目を細めつつ、続いて学習机の引き出しの奥を覗き込み、目的のものを見つけて何個かを右手に掴む。
お菓子のおまけで付いてきた、子供のころに狂ったように集めた、小指の爪ほどの大きさをした小さい消しゴム。その消しゴムが備えるロボットの造形に対して興味が失せる年齢になっても、それには有意義な使い道があった。
「……僕は大丈夫って言った。その証拠を見せるよ」
僕はカーテンを全開にして窓を開く。途端に降りしきる雨音が音量を増して僕の耳に届く。そして雨に叩かれて軌道がずれてしまわぬように力加減を調整して、僕は消しゴムを冬姉の部屋の窓へと投げつける。
消しゴムは窓を叩くと丁度室内にいる人間だけが気づく程度の、冬姉を呼び出すのに実に都合がいい音を立てて軒下へと落ちていった。
『……ねえハジメ君。今どこにいるの?』
冬姉は僕にそう聞いた。
その答えに冬姉はきっと気づいている。それでも目を向けた先にある光景が想像と違ったらひどく落ち込んでしまうから、あらかじめ確認したい。そんな感情が冬姉の声に潜んでいた。
「冬姉、窓を開けてよ」
そう言う僕の目の前で、冬姉の部屋の窓がゆっくりと開いていく。
おびえるように僕の部屋の窓を見上げる、パジャマ姿の冬姉が現れる。
その姿を見た僕は今、情けない事実に気づいていた。僕の部屋の窓の桟は僕のへその上あたりの高さで、冬姉からは僕の上半身しか見えない。冬姉が窺うことのできない死角では、僕の膝が笑っている。ほんの少しの油断でそのまま崩れ落ちてしまう、そのことに気づいていた。
付け加えると僕は冬姉と直接会うのだと決めたその時点で既に、自分がこうなってしまうだろうという可能性を認識してもいた。
だから僕は部屋の明かりをつけている。冬姉からは逆光になって僕の表情が読みづらくなる、そういう場所へと慎重に位置取った。都合がいいことに雨まで降りだした。冬姉の側から見ると雨滴によって散乱する照明の光が僕の姿を見づらくさせているはずだった。
そもそも単純に考えるなら、冬姉と会って話したければ冬姉の家の呼び鈴を鳴らして直接呼び出せばよかった。男らしく最初から面と向かって会話してそれじゃあねと言って別れればよかったのだ。
僕にはそれができないから、春日初としてもう一度冬姉と会うことに不甲斐ないくらい恐怖していたから、あえて自分の家に来て、辺を足止めし、様子を窺うようにLINESでメッセージを送り、顔を合わせずに冬姉と喋り、最後の最後に自分の姿を直視されないような小細工まで用意して、部屋と部屋とを隔てる空間を目前に置いて。
それだけの手を尽くして、僕はどうにか春日初として冬姉と直接向き合うところまでこぎつけた。その上でなお、最後まで平静を保てるかどうか、確たる自信は僕の中にはなかった。
僕の賜った不名誉な称号の一覧に、ヘタレとか、腰抜けとか、そういった類の言葉が追加されるのはまず間違いない。それでも、これ以上どうしようもなく、僕が冬姉と笑って顔を合わせるにはこの距離までが精いっぱいだ。
冬姉と会うという二つ目の勝利条件を満たしたその心境を端的に表する言葉を、僕は無意識に口走っていた。
「……やっと会えた」
そして、最終局面が始まる。
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