第53話 最後の扉を押し開く
一年ぶりに戻った自分の部屋は不思議と僕を寂しくさせる。
基本的には僕がハイ〇ースされる直前と何ら変わりはない。ただ、そこから周到に、一定の条件を満たす物品が消えている。そのせいで僕がかつて過ごした自分の部屋とは別の空間であるとの印象が強く残った。
例えば学業で使用する物品の一切がなかった。春日初の姿が収めてあるアルバムや僕が身に着けていた衣料品、趣味の品々の中でもとりわけ僕が気に入っていたものの数々、さらに僕が愛用していた枕も。
枕が変わると眠れなくなると聞いたわ、それも持って行って頂戴、といった調子で姉様が千条院の家へと持ち去ったのだ。
後になって思うと噂で聞きかじった情報を披露したかっただけなんだろうなと容易に想像がつくのだけれど、姉様のこの思い付きによって僕の安眠は確保された。今は枕カバーを花柄のものに変えて愛用している。
頭を支えてよし、胸に抱き込んでよし、過酷を極める教育に疲れた夜に拳を叩きこんでよしの逸品である。僕はある程度、あの枕に救われていた。
枕はともかく、窓の向こうにはこの前片桐と冬姉の部屋を訪れた時とは逆に冬姉の部屋が見える。今日もカーテンは引かれていない。この家の作りとして1階の天井を高く作っていることもあり、微妙に冬姉の部屋を見下ろす位置関係になっている。
窓の外からさー、という音が間断なく響いていた。雨が降っている。片桐は今、周囲を警戒するために屋外で待機している。ずぶぬれになっている片桐の姿を想像して、風邪ひけ、と地獄を見せられた僕は思う。
あらかじめ片桐にレクチャーされていた通り、部屋の電気を一瞬だけ明滅させて、照明の生死確認を兼ねた僕の入室を伝える合図を出す。その後、窓の外からは死角になる部屋の隅で壁に背中を預けるように床へと腰を下ろし、息を殺す。
僕がこの窓の前に立つということは、その間無防備な状態で命を危険にさらすということだ。僕は今、死と隣り合わせの場所にいる。その事実が僕の呼吸をいたずらに乱そうとする。
十秒そこそこの間深呼吸を繰り返して身体を縛り付ける緊張をねじ伏せてから、僕はポケットにしまっていたスマホを取り出した。
ロックを解除し、LINESを開く。千条院の家に移り住み新たなスマホを支給されて以来積み重なっていた、夥しい、と言ってもいい分量の未読メッセージが溜まっている。
フレンドリストをスクロールさせて冬姉の名前を探して、見つけて、僕は不意に胸を締め付けられた。想像以上の未読メッセージ数がそこに表示されていたからだ。
僕が消えてから今日に至るまでの一年間、冬姉が僕に向けて送った言葉の数々を思っていた。僕は震えている。冬姉は何を思っていたのか、何を僕に伝えようとしていたのか、知りたいのに、読むのが怖いと思った。
けれど僕は読まなければならなかった。未だ糸口の見つからない冬姉を救う方法を、その突破口を冬姉のメッセージの中から見出す必要があったから。
自分に退路などないと言い含めるのにかかった時間は、しかし実際にはほんの数秒だったのかもしれない。未だ震えの残る指先で僕は、冬姉からのメッセージを、開く。
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冬姉が春日初へと寄こした無数のメッセージ。その時系列における変化を端的に表現するならば、様子伺い、安否確認、悲鳴、そして追悼だった。
『今話せる?』 『窓を開けて話がしたいの』 『あの日のことをちゃんと説明させてほしい』 『幼馴染なのはかわらないよね?』
そんな内容が最初の数日間に渡って続いたけれど、ある日を境に内容が変わる。先ほど辺が言っていた、冬姉に怒鳴りつけた日なのかもしれない。
『今どこにいるの?』 『何をしているの?』 『無事なの?』 『電話もつながらないけど大丈夫?』 『困ったことがあったらいつでも連絡して。待ってるから』
まるで災害に巻き込まれた知人の身を案じるようなメッセージが続く。そんなメッセージが日を追うごとに感情の色を増していく。
『私のせいなの?』 『あの日逃げ出さなければ今と違っていたの?』 『もう二度と会えないの?』 『声が聞きたくてたまらない』 『どうしていなくなったの?』 『私が傷つけたんだね』 『ごめんね』
その種のメッセージは三月の末頃をピークに四月にかけて徐々にその数を減らしていく。五月に入るころには感情をぶつける類のメッセージはほぼなくなり、代わりに月に一、二回、まるで彼女の日常をただ伝えたいだけ、というようなメッセージに取って代わられる。
印象としては奇しくも部長の言う通り、墓前に立って死者へと手向けるような、そういう言葉たちだ。冬姉が精神の安定を取り戻していったのが分かる。
『最近こんな人に出会ったよ』 『この本が面白かった』 『昔ハジメ君が読んでた漫画を読んだの』 『テストの順位がいまいちだった』 『もう夏だね』 『この夏は親の実家に帰ったよ』 『部活の三年生が来なくなったから部室の掃除が大変なの』 『サツマイモおいしいよね』 『寒くなってきたね』 『初雪が降ったよ』 『ハジメ君のところでも雪が降っていますか?』
そのメッセージが今年の春から再び増え始める、週に一回、週に数回、そしてやがてほぼ毎日、まるで日記のように取り止めのない話題が続いていく。メッセージを入力する冬姉の表情を想像する。部室で見せていた冬姉の幸せそうな無数の表情が脳裏に閃いては消えていく。
『もうすぐ春が来るね』 『私の部活は変な部長と私の二人だけ』 『後輩ができるのが楽しみ、頑張るよ』 『でもうちの部に来る物好きな子はいないかも』 『新入生代表の子がすごく可愛かったよ』 『すごく可愛い後輩が部室にいたの』 『来なくなって残念だった……』 『前のかわいい後輩は生徒会長の妹なんだって!』
『部長にコスプレさせられてたよ、かわいい』 『三人も部員が入ってくれたよ』 『本好きの美人さんが来てくれた』 『ハジメ君みたいにかわいい男の子も入った』 『でも何よりかわいい女の子の頭の撫で心地が最高なの』 『その子の頭を撫でていたら少し、ハジメ君のことを思い出したよ』
『元気にしてますか』 『やっと最近、私も楽しいって思えるようになったよ』 『ハジメ君に会いたくなりました』 『後輩を紹介出来たら昇天しちゃうかも』
『また、傷つけたかもしれない』
そこでメッセージは終わる。僕は慌てて冬姉の表情を想像することをやめる。
いつか、文と噴水前で話した時のことを僕は思い出していた。
文はあの時、戦っていたと思う。
そしてきっと冬姉も戦ってきたのだと思った。
春日初が死んだ、という自分の観測を認めないために、人知れず返事が来ることもないメッセージを送り続ける、そういう果てのない孤独な戦いを。
僕の中には言葉があふれている。冬姉が残したメッセージを一つ読み進めるたびに、何倍もの言葉が生まれていた。今も収拾が付いていない。僕は母さんのようになっていた。
ただ一つ違うのは、僕はまだ、ここでなすべきことを見失ってはいないということだ。
特に高校に入学して一か月、いろんなことがあったのだ。僕の平静を失わせるような機会に接したのは一度や二度ではない。免疫が付いてきているのだろう、頭の大事な部分だけは冷静に思考するだけの余裕を確保していた。
それがありがたいようで、一方で得難い何かを一つずつ失っているような、奇妙な感慨に僕は一瞬襲われる。
ともかく、この場での目標と勝利条件は決まっていた。
目標は一つ、冬姉のトラウマと探求に一定の解決を与えることを通じて冬姉を救うこと。それはとりもなおさず、冬姉が殺した春日初という存在を蘇生させることでもある。
その為に達成すべき勝利条件は三つ。冬姉と会って言葉を交わし春日初の生存を目に見える形で伝えること、今後も冬姉に春日初の生存を伝えられる何らかの約束を取り付けること、そして冬姉と千条院初が仲直りするきっかけをつくること。
ボス戦だ、と僕は思う。
今の時点で春日初が行ける場所、その最果てで冬姉が待っている。その先へと進むために、春日初の持てるもの全てを駆使して、絶対に勝利することを宿命づけられた、そういう戦いが僕を待っている。
一山いくらのゲームとは次元の違う、ひりつくような緊張を押し殺す。スマホを左手に掴み、思考と直結させた指先という剣を携えて、僕は最後の扉を押し開く。
そしてスマホのスクリーン上でキーボードが音もなく起動し、僕の指の動きに従って文字列を紡ぎ始める。
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