第52話 妹を諭す
辺の部屋は少し傾斜の急な階段を上ってすぐ左にある。
その真向いは僕の部屋だ。
「……お待たせ、辺」
ドアをノックして入室する。
「うん、お兄ちゃん。その、なんていうか、久しぶりだね」
「そうだね。心配かけてごめん」
「許す」
僕の謝罪に上から目線で答えはするものの、少し緊張しているのだろう。しきりに前髪を気にして弄る辺の話を僕はそれからしばらく聞いていた。
テストの順位が一桁に乗ったとか、最近友達が彼氏作ったから私も欲しいとか、ぬいぐるみが増えたとか、この曲ハマってるんだけどお兄ちゃん好き? とか。
そうして二人の間の空気が暖まった頃、辺が切り出した。
「お父さんもお母さんも教えてくれないから聞くけど、お兄ちゃん今何してるの?」
辺はいつでも直球勝負である。余計な牽制はほどほどに、ここぞというタイミングで相手を棒立ちさせる剛速球を投げ込んでくる。
「高校生だよ。ちょっと事情があって、詳しいことは僕も言えないけど」
「そっか、高校生なんだ……良かった」
心底からほっとしたように辺が息をつく。
「そんなに安心するようなことなの……?」
「そうだよ。だってお兄ちゃん、今身体怪我してなさそうだもん」
まあ、そうだよなあと思う。
同じ学校に通っていた上に共に生活していた辺には僕へのいじめもバレていただろうし、告白失敗した日には茫然自失になる姿を見られている。世を儚んで姿を消した兄のことを、僕に懐いていた辺に伝えるのが忍びなくて両親が黙っている。そんな想像だって成立する状況だったのだ。
だから僕は辺に頭を下げた。
「心配かけてごめん。今はもう大丈夫だから」
辺を安心させるために僕はそう答えた。その瞬間、辺が頷きながらも目を冷たく細める。デッドボールがやってくるという確信がある。
辺は持ち前の勘の鋭さを生かして全力のストレートを躊躇なく顔面に放り込む鬼畜さを備えているのだと、僕は知っている。春日初の妹である辺は隠れクズだ、いったい誰に似たんだと僕は思う。
「大丈夫って、あの人……色浦先輩のことも?」
はい来た、と思いながら僕は千条院で鍛えたポーカーフェイスで平静を装う。けれどその質問は二つの点で僕を狼狽させていた。
一つは、僕と冬姉の事情を察している可能性が高いということ。
もう一つは僕と同じように冬姉になついていたはずの辺が冬姉を『あの人』と呼んだこと。
「あの人って、ずいぶん他人行儀だね? 冬姉って言えばいいのに」
卑怯と知っていつつも僕は質問に質問で答える。
「無理だよ。だってお兄ちゃん、あの人がいなかったら居なくなったりしなかったでしょう?」
「……まあ、そうかも」
辺に変な誤魔化しが通用しないことを知っている僕はあいまいに肯定する。
「そうだよ。それなのにあの人、数日してからひょっこりうちに来て、ちょっとお兄ちゃんを傷つけちゃったかもくらいのノリで謝ってきて……」
「それは……間が悪いね」
僕がハイ〇ースされたのは姉様に会った翌日の朝であり、言い換えれば冬姉に振られた翌日の朝でもある。その日以来僕は生活の拠点を千条院の屋敷に移していたし、中学三年の新学期が始まるまではほぼ外出していなかった。
つまり冬姉がどれだけ探しても見つけられない場所に僕はいた。この家に来たところで消息を掴むことはできなかっただろう。
「お兄ちゃんが居なくなってすぐ思ったの。何でお兄ちゃんが居なくなったんだろうって、居なくなる直前にお兄ちゃんの様子がおかしくて、次の日学校から帰ってきたらもうどこにもいなくって。お兄ちゃんのバカって思った」
「……本当にごめん」
「でもきっと理由があるはずだって。それは何だろうってずっと考えてた時にあの人が来たの。簡単に元に戻れるんだって信じて疑わないような顔してた。この人のせいでお兄ちゃんは消えたんだ、お兄ちゃんが消えてもう何日も経ってるのにって思ったら、私怒鳴ってた。お兄ちゃんを返せ、あんたのせいでお兄ちゃんはいなくなったんだって」
そして僕は改めて冬姉の間の悪さを感じていた。
せめて新学期にさえなっていれば、辺も週一ペースで校内でハイ〇ースされる僕の生存に気づいて、冬姉に向ける怒りも多少なりとも落ち着いていたかもしれない。
「……そうだね、大体辺の言う通り。辺の勘の良さが怖くなってきたよ」
「あの人はそれからうちに来なくなったけど、朝になると通学中の姿をたまに見かけるの。まるでお兄ちゃんのこと全部忘れたように、普通の日常を送っているみたいで。はっきり言って憎い。万死に値するって思った」
「殺しはだめだよ、辺」
辺の語り口にこもった熱を冷ますように敢えて気の抜けた相槌を打つ僕には、どうしても辺にお願いしなければならないことがあった。
それは、今からすることの邪魔をしないでほしいということ。
下手な理屈で辺を別の場所にくぎ付けにしたとしても、何がきっかけとなって辺が気づくか分からない。その時辺が何をするかは僕にもわからなかった。
だとしたら、僕が今、僕が望む結果へたどり着くために辺に伝えるべき言葉は、きっとこうだ。
「あのさ、辺。もし僕が冬姉のせいで傷ついて、冬姉のせいで姿を消すことになって、これまでの知り合いが誰もいないような場所で生活することを余儀なくされて、それでも僕は冬姉が好きだと言ったら、辺はどうする?」
「馬鹿じゃないのって言う」
「今言ったね。その通りかもしれない。でもね、実際に僕は今でも冬姉が好きで、冬姉に会いたくて、冬姉と話がしたくて、そのためだけに僕は今日ここに来たんだ」
「お兄ちゃん馬鹿なの?」
「そうかも。でも、どうしても今日、冬姉に会って話をしなくちゃいけなくて、この機会を逃したら僕は……今度こそ一生後悔すると思う。きっと、あの日より」
「……お兄ちゃん……もう帰ってこないの?」
きっと言葉を選んだのだろう。死ぬの、と聞かなかった辺の問いに僕はうなずいた。
「そうだね。そのつもりで僕はここに来たんだ」
辺の表情が急速に不安の色に変わっていく。僕は今、自分の命を交渉材料にして辺に対し自分の意を通そうとしている。
「辺に一つだけ約束してほしいんだ。これから僕は自分の部屋に行く。僕が部屋から出てくるまでの間、辺にはこの部屋にいてほしい」
「……もし私が約束を破ったら?」
「今日のところは失敗だろうね」
言外に、約束破ったら僕死ぬから、と言って、僕は子守唄でも聞かせるかのような穏やかさで辺を恐喝する。そして僕には、知っているとまでは言えないけれど、厚かましくも確信していることがある。
「……ねえ辺、約束してくれるかな?」
「……うん。でもお兄ちゃん、私とも約束して」
「何を?」
「絶対失敗しちゃだめだからね」
「……分かった。約束するよ」
「私絶対ここから出ないから。だから絶対、約束破らないでね」
そう、僕は確信していた。僕が真に命を懸けるなら、きっと辺は僕の言うことを聞いてくれるだろう、ということを。
全部計算づくだった。姉様の言う通り僕は卑怯で手段を選ばない真正のどクズだ。極めつけの、という枕詞をつけてもいい。
黙ってうなずいて僕は立ち上がり、部屋の扉に手をかけたところで辺の方へと振り向いて言った。
「……あと追加で約束するよ。辺のことは泣かさない」
「もし泣かせたらお兄ちゃんの、もぐから」
そして僕は何をもがれるのか聞き返さないまま、微笑みだけを返して辺の部屋を出て、後ろ手に扉を閉めた。それから自分の両手で頬を挟むように引っぱたく。
ここまで来た。後は進むだけ。そう念じて、僕は向かいの扉を開ける。
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