第四章 会いたい人に会うということ

第41話 先輩の更なる興味を知り、僕は護衛を巻き添えにする

 一条さんが生徒会室を出て行ったあと、僕の足は文化研究部に向いていた。姉様の仕事が終わるまでの暇つぶしである。


 ポチも文も今日は予定があってすぐ帰ると言っていたから、部室にいるのは先輩たちだけのはずだった。実際その通りで、部長はPCの前で何か作業をしていた。


 机の上には文字入力用と音楽用、二つのキーボードが置いてあって、意外なほどによどみのない手つきで二つの鍵盤上で指を踊らせては、聞こえてくる音を丹念に解体するように、ヘッドホンを耳に当てて目を閉じたまま身体をリズムに乗せて揺らしていた。


 作曲をしているのだろう。部長が真面目に文化的な生産活動に勤しむ姿は、正直なところ違和感しか感じない。


 一方で、長机の前に腰かけて本を読んでいた冬姉は僕がドアを開ける音に気づくやいなや、すっと腰かけていた椅子を引いて人一人冬姉の上に座れる空間を確保し、膝上をぽんぽんと叩く。


 僕は黙って腰掛ける。そして頭を撫でられる。


 いつか頭がハゲ上がったら冬姉のせいだと思いながら、頭を撫でるより本を読んでいたほうが有意義だったろうにと思いながら、それでも一方的に与えられる幸福感を僕は一人享受していた。


 「色浦先輩、何かお勧めの本はありませんか?」


 と僕が問うと、冬姉は嬉しそうにぱっと笑顔を咲かせて


 「おねーちゃんに任せて!」


 と応え、僕を下ろす。


 書棚に向き直って熱心に本を選ぶ冬姉の一挙手一投足が僕の視線を吸い寄せる。

 僕は美術館に飾られた一幅の絵画を眺めるような気分で、冬姉がおススメの本を選ぶのを待っていた。


 「……初ちゃんはお嬢様だから、こんな本も似合うんじゃないかな」


 そう言って冬姉が僕に差し出したのは源氏物語の文庫版、その第一巻だった。中身は原文で、普通の高校一年生が読むにはなかなかにハードルが高い。


 「分からないところがあればおねーちゃんが教えてあげるから何でも聞いてね。私としては空蝉うつせみまで読んだところで感想聞かせてほしいな」


 「ありがとうございます。読んでみますね、先輩」


 「おねーちゃんです」


 「……先輩?」


 「お、ねー、ちゃん、です」


 呼び名についてのこだわりがすごい。

 僕は冬姉を見上げながら、あざとく小首を微かに傾げておずおずと口を開く。


 「……おねえ、ちゃん?」


 「……ぁぁ……最高だよぉ、初ちゃん……! そうだよ、私がおねーちゃんだよぉ!」


 冬姉を満足させる振る舞いができたことに僕はほっと胸をなでおろす一方、実はほんの少し後悔していた。


 源氏物語の内容は何となく頭に入っていた。第一帖でマザコンが兆し、第二帖、第三帖でショタ趣味が炸裂する。空蝉、とは確か第三帖のことだ。


 僕は【冬姉の本棚にある本以外で】という注文をつけなかったことを悔やんだ。

 冬姉は僕に何らかの趣味を植え付けようとしている気がする。


 そんな僕の胸の内を知らない冬姉は、僕と感想を共有する未来を思い描いているのかわくわくした表情で僕を見ながら、再び冬姉の上に座るように促した。

 僕がすとんと腰を下ろし、冬姉ににこにこと見守られながらページをめくっていると、最終下校時刻が近づいてくる。


 部長が作業の手を止めて、PCやこまごまとした機材を片付け始めたところで、そろそろ生徒会の作業が終わると伝えるために片桐がやって来た。


 「おーい初様よー、ぼちぼち迎えの時間……」


 片桐がこの場所に現れることについては誰も疑問を感じていない。


 対外的には、僕と片桐は幼馴染で、同じ高校の下級生と上級生で、令嬢とその護衛兼侍従という設定である。実際、送迎のタイミングを伝えるために教室や生徒会室に顔を出すこともある。文化研究部の部室も同様である。


 けれど、今日の片桐はそうではなかった。何の疑問もない風に冬姉の膝の上で本を読んでいる僕を見て何かを悩み、片桐は呆れたように僕に問う。


 「……お前、いつもその調子なのか?」


 「……ええ、最近は」


 「そうか。とりあえず写真撮るわ」


 「撮らなくていいです……って、何で動画撮ってんの!?」


 「これがライフワークになりそうなんだよ、俺の意思にかかわらず。文句なら結様に言え」


 「姉様に何言っても無駄だから片桐に言ってんの! この、止めろってぇ!」


 「はいはい、ほら、こっちに目線よこせ」


 僕は被写体にならないよう懸命に抵抗する。とはいえ、僕の護衛である片桐は一流以上の水準で戦闘技術全般を修めているため、騒ぐ僕など歯牙にもかけない。

 その結果、家に帰れば今の光景が手振れ補正済みのきれいな映像で姉様の目に入ることになる、それは癪だった。


 ぎゃあぎゃあと騒ぐ僕の突進を涼しい顔でいなし続ける片桐を見て、冬姉が意外そうな顔で言った。


 「初ちゃん、片桐先輩とすごく仲いいんだねぇ」


 「……へっ?」


 品行方正、窈窕淑女ようちょうしゅくじょたる千条院初の仮面は見るも無残にはがれていた。片桐は僕の表情を見てニヤニヤと笑っている。

 僕はこほんっ、とわざとらしく咳払いしてから、千条院初と片桐に課された設定に忠実に従って、冬姉に答える。


 「……そうですね。片桐はその、私の護衛といいますか、幼馴染のようなものですから」


 「幼馴染……ですって?」


 僕が何気なく口にした設定がどれほどの衝撃を冬姉に与えたのか分からない。春日初のことを思い出したのかもしれないし、全然違うこだわりのなせる業なのかもしれない。冬姉の瞳に爛々とした光が宿り、僕と片桐とをしかと見据える。


 その瞳に仄見えるのは探求心、だろうか。


 「おや、千条院は幼馴染属性持ちだったのか? 格好の研究対象じゃないか、色浦」


 機材を仕舞うロッカーに鍵を掛けながら、モルモットに薬剤を注ぎ込むのが楽しくてしょうがない科学者のような表情で部長が火に油を注いだ。

 前髪に枝毛できろ、と僕は思う。


 「初ちゃん、詳しく話を聞かせてほしいのだけど」


 「……何の話ですか?」


 「幼馴染って、実際どうなの?」


 それ僕に聞くの!? と問いただしそうになるのを僕は反射的に舌を噛んで堪えた。口の中に鉄の味が広がる。


 「私、実際の幼馴染について並々ならない関心があるの。ぜひおねーちゃんに話を聞かせて!」


 「……えぇ……?」


 ……それ、春日初に聞けば? と思ったけれど、中学時代に使っていたスマホは姉様が厳重に保管していた。


 そもそも仮に僕の手にあったとしても、冬姉と春日初の関係はあの告白の日以来とても気楽に連絡を取り合えるような状態ではなかった。


 そして、幼馴染に興味があるのに春日初の告白は断った、という事実に気づいてしまった僕は少し動揺している。以前ほど取り乱さなくなったのは成長なのかもしれない。


 困惑を隠せない僕を姉様が見ていた。懇願の眼差しだ。冬姉のこの瞳は、僕が自認している最大の急所の一つだ。


 ……逆らえない、と僕は断腸の思いで認めると、血の混じった唾液ををこくりと飲み込んでからうなずく。


 「……分かりました」


 「本当? それじゃあ初ちゃんと片桐先輩、今から私の家で話しましょう!」


 急展開に翻弄されて表情の補正が追い付かない僕を間合いの半歩外からカメラのフレームに収めていた片桐が、冬姉の提案に一瞬余裕を失った。

 僕はその隙こそが唯一の勝機と断じてすかさず片桐の腕を絡めとり、満面の笑みで答える。


 「ええ、喜んで。片桐共々お邪魔させていただきます」


 片桐が、余計なことすんじゃねえてめえの問題だろうが一人で行け、と目で訴えてくる。僕は、絶対逃がさない死なば諸共だ覚悟しろ、と見つめ返してから、冬姉に向けて朗らかに言った。


 「では、向かいましょうか」 

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