第39話 覚悟の改造を施し、姉様の大泣きを眺める

 二宮さんが重たい沈黙を破って、ぽつりとつぶやくように僕に言った。


 「……絶対に秘密にできる、というのなら話します」


 僕は少し大仰に自分の胸元に右手のひらを押し当てて宣誓する。


 「千条院の名に誓いましょう。秘密は必ず守ります」


 「……うらやましかったんですよ」


 「一条さんが、ですか?」


 「紗良ちゃんが部活動や漫画みたいな日常にあこがれていることは知っていました。そんな紗良ちゃんが楽しいと思ってくれるならって、それだけであの漫画を薦めた……本当に、それだけ」


 「そうですか」


 「でも紗良ちゃんは文字通りにその憧れを現実にしていく。漫画の主人公になるなんて普通じゃできないことを無邪気に、力押しで実現していく……」


 腕力ありそうですしね、という言葉を僕は飲み込み、首肯して二宮さんの言葉を促す。


 「私はその様子を近くで眺めるだけだった。そうしているうちに何で私にはできないんだろうって考え始めて……そして思ったんです」


 「……それは?」


 「……紗良ちゃんがキラキラするのはいい。でも私だってキラキラしたいっ!」


 悲痛な叫びだった。


 二宮さん……お前もか……、と信じていた人に裏切られたような心地で言い捨てたくなるのを僕はぐっとこらえた。ついさっきまでの緊迫した空気は、僕の胸の中からきれいさっぱり消え去ってしまった。


 「私も漫画みたいな日常を送りたい。そう思っていた時に私、別の漫画のことを思い出して……」


 「差し支えなければ、そのタイトルを聞かせてもらえますか?」


 「……『それが愛じゃなくても』」


 それは姉様が許せないと言っていた漫画のタイトルだった。略奪愛とか、寝取りとか、そういう話だったはずだ。


 「それで、手始めに近くにいた西本君と吾妻君にアプローチしてみたら、思った以上に私を好きになってくれたみたいで」


 「そうですね、写真を見る限りそう見えますね」


 「この調子でって安川君にも迫ってみたんです。でも、彼は紗良ちゃんの婚約者だから簡単になびかなくて」


 安川君偉い、と僕は思う。


 「私ムキになって、アプローチも少しずつ過激になっていったんです。そしたら安川君もグラついてくるのが分かって」


 先ほどの写真で二宮さんが首に腕を回していた相手は安川君だ。

 安川君あんまり偉くない説が浮上する。


 「その瞬間、私……すごくゾクゾクしたんです」


 男を毒牙に掛けた瞬間の歓喜を思い出したのか、熱に浮かされたようにうっとりと言う二宮さんを眺める僕の脳裏で、安川君かわいそう決議が満場一致で採択された。


 「私紗良ちゃんのことを忘れて暴走しかけてました。でも何も知らずに突っ走る紗良ちゃんの存在が、ゾクゾクを引き立てるスパイスになってるって気づいたんです。私には紗良ちゃんを止める理由がなくなっていました。だから私のためにそのまま進んでもらおうって」


 話の流れからして、彼女が黒幕ということは間違いなかった。しかも、僕をしてうならせるほどの見事なクズっぷりである。


 もう好きにすればいいじゃない皆まとめて破滅すればいい、という言葉を噛み殺しながら、僕は彼女を懐柔する道筋を探すふりをする。


 実のところ僕は、彼女の発言や趣味からして、こうすれば丸く収まるのではという仮説自体はすでに思いついていた。ただ、それを実行に移すことを僕の良心がとがめていた。


 仮に実行してしまえば二宮さんを、ひょっとすると二度と元に戻れない悪の道へと誘うことになる。どう転んでも僕は二宮さんという一人の女子高生を決定的に変えた戦犯であるとそしられることになる。


 そのタイミングで、僕のスマホから耳慣れない着信音が響く。普段ほとんど使わないショートメール用に設定した、木琴のメロディ。


 それは冴さんと示し合わせた符牒で、姉様たちの会話が決着しそうであること、つまり残された時間が少ないことを意味していた。

 最初に場所を変えておけばよかった、と後悔しても遅かった。僕は今、この場所で、可能な限り速やかに状況を収束させなければならない。


 僕はのどをごくりと鳴らして、自分の行動を制約するすべての言い訳を飲み込んだ。言い訳はしない。クズだと罵りたいなら好きにすればいい。


 僕は今、自分の意志で二宮さんを改造することに決めた。


 フィクションへのあこがれで身を滅ぼす少女から、せめてもの希望が残る形へと。


 僕は唇をぺろりと舐めて艶を出すように湿らせた後、鋭い三日月のように口の端を吊り上げて目を少し細める。発情する自分を隠し切れていない、そういう表情で呼気を強めて息をついて、僕は二宮さんに問いかける。


 「……一つ、確認させていただいても?」


 「何ですか?」


 「……二宮さん、あなたは背徳感の伴う恋愛が好物なのですね?」


 「はいっ!? 何ですかいきなり……」


 「隠す必要はありません。あなたは後ろめたくて危険を伴う恋愛がもたらす刺激に興奮を抑えきれなくなる人種なんですよね?」


 「千条院さん、何か、言い方がエロ……」


 急激に顔を赤らめる彼女の反応を最後まで待つことなく、僕は二宮さんの耳元で一人芝居する。千条院初の声(ハート)と、春日初の声(スペード)で。


 「(ハート)やめてよ、あなたには紗良ちゃんがっ…(スペード)分かってる、でも今はお前しか見えないんだ、理佐……(ハート)……でもっ、私紗良ちゃんのこと裏切れな、っん……、ぁ……何、して……(スペード)……理佐、俺のものになれよ(ハート)……安川君……絶対、内緒だからね……?」


 僕は一体何をやっているんだという疑問に正気をごりごりと削られながら続けた一人芝居を聞いて、二宮さんは顔を紅潮させ体をぶるぶると震わせていた。


 「……こういうのが、二宮さんはたまらなく好きなのでしょう?」


 「……はい……大好きです……」


 「私はあなたの趣味を肯定します。あなたのその趣味に共感する人はいくらでもいます」


 「……千条院さん?」


 「ですが少し背伸びしすぎです。略奪愛は一度失敗するとすべてを失ってしまう。リスクが高すぎる。ですから、まずは手頃なところから始めてはいかがでしょう?」


 「手頃な……?」


 二宮さんが僕の言葉の続きを待っている。答えを求めている。

 僕はゆったりと間をおいて二宮さんの意識をじれさせる。


 そして、熱に浮かされたような声音でささやく。


 「二宮さん……スワッピングってご存じですか?」


 その瞬間、片桐の隠れていた段ボールが崩壊する音が響いた。二宮さんの注意がそれそうになるのを、僕は二宮さんのあごを掴んで無理やりに向き直らせる。


 「話はまだ終わってません」


 「あっ……ごめんなさい。スワッピングって……スワップ、交換ですか?」


 「そうです、カップル同士が互いの伴侶を交換するのです。あなたは他人の男に手を出せる。交換相手のカップルの同意が前提だから問題は起きない。少し想像してみてください」


 僕の言葉を聞いて二宮さんは目を閉じる。表情や顔色の変化、身体の動きで、彼女が想像の世界に深く没入し、満喫しているのが分かる。


 「……どうですか?」


 「……すごく、いいと思います」


 「分かってくれてうれしいです。それでしたら二宮さん、あなたがすべきことが何か分かりますね?」


 「……紗良ちゃんと安川君をくっつけて、私の趣味を理解してくれる恋人を作る……」


 「その通りです。その上で、二宮さんが今すぐしなければならないことは何ですか?」


 「……安川君たちとの関係を上手に終わらせること、紗良ちゃんの暴走を止めること……」


 「パーフェクトです。二宮さんは本当に偉いですね」


 「……千条院……さん……」


 「いいですか二宮さん。私はあなたの秘密を知るよき理解者であり、同時にあなたの秘密に協力する共犯者でもあります。私はいつだってあなたのことを応援しています。覚えていてくださいね?」


 「はい。共犯者、ですね……私、何だかスッキリしました」


 「それは何よりです。……ちなみに二宮さん、ここで話したことはすべて他言無用です」


 「分かってます。だって私たちは、共犯者、ですから」


 そう言って二宮さんは晴れやかに笑う。

 これが天使ですと皆に見せれば誰もが納得してしまうような清らかな笑顔だった。


 納得いかないのは世界でただ一人、この手で改造を施した僕だけだ。


 僕はぱたぱたと階段を駆け下りていく二宮さんの後姿を見送ってから階段を上る。崩れた段ボールを引き剥がすと腹を抱えてひくひくしている片桐の姿があった。

 片桐は僕の顔をちらりと見て再び苦しそうに笑う。よろよろと立ち上がるその姿を苦々しく見つめる僕に片桐は言う。


 「……ははっ、これまでで最高にヒドかった。ありがとな」


 「……別に笑われて感謝される覚えはありませんが」


 「いや、無理があるだろ。黒幕の子が突然キラキラしたいとか言い出しただけで結構こみあげてきたのに、お前一人芝居始めるし、それを全力で耐えきったと思ったら、JKにスワッピング勧めるとか。魔女かお前、殺意感じたわ……ダメだ……ひーっ」


 そこまで言って、再び耐え切れなくなったのか、ひいひいと苦し気に呼吸する片桐に僕は何も反論できなかった。


 自覚はある。僕は今日ほど自分のクズ味が高まっているのを感じたことはない。


 「……それより、姉様の様子はどうなのですか?」


 せめてもの反抗として話題を切り替えようとしたところでドアが開く。


 姿を現した一条さんの様子は、照れているのか怒っているのか判然としない。僕たちの姿、特に僕の姿を訝しそうに、しかも嘗め回すように見まわして一条さんは口を開く。


 「……千条院初、あんたが当面の好敵手、というところかしら」


 「好敵、手?」


 「これだけは言っておくわ。私、あんたを超えるから。じゃあね」


 こちらの理解を置き去りにした宣戦布告を浴びてきょとんとする僕を見ることもなく、一条さんは全力を尽くした激戦の後で控室へと帰っていくボクシング王者のように階段を悠々と降りていく。


 「あら、初。ここにいたの? ……あと片桐は何をしてるの?」


 「……後で説明します」


 ひょこりと姿を見せた姉様の問いに僕があいまいに苦笑すると、姉様は関心を失ったのか、本題を切り出す。


 「……それで、初のほうはうまくいったのかしら?」


 「黒幕はもう敵対しないと思います。姉様の方はどうですか? さっき一条さんに宣戦布告されたのですが……」


 「こっちもとりあえずは大丈夫よ……友達になれたかどうかは、まだ分からないけれど」


 もっと詳しいことを聞きたい、と思わないでもなかった。

 けれど、姉様にかけるべき言葉は別にあった。

 僕は冬姉のようにやさしく微笑む。


 「……そうですか。お疲れさまでした、姉様。頑張ったんですね」


 「……うん……私……頑張ったよ……うあああああん!」


 張りつめていた緊張の糸が切れた姉様は校内だというのに声を張り上げて泣いた。

 片桐も僕もそれを止めなかった。

 遅れてドアの外から現れた冴さんがいつものように事務的に姉様をあやすのを、僕は壁にもたれかかりながらずっと見ていた。

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