第5話 僕を救った天才少女、千条院結の化けの皮が早くも剥がれる
一通りの話が終わると、僕は自分に宛がわれた部屋へと案内される。
その道すがら、僕の姉となる変な女、千条院結から
「これから私のことは姉様、母のことは母様と呼びなさい」
だとか、
「最初は不慣れなこともあると思うわ、何かあったら私の部屋に来なさい、あなたの部屋の隣よ」
だとか、普通に姉らしい言葉を聞かされる。
一応自覚はあるんですね、と思いながら通された部屋は春日家のリビングの倍近く広い空間だった。
シンプルながらも使いやすそうな大ぶりのデスクと空の本棚、おしゃれな一服を満喫するのにちょうどいいティーテーブルと木製のチェア、そして天蓋付きのクイーンベッドが広々とした余白を保ちながら配されている。
「荷物は後程届けさせます。足りないものがありましたら申しつけ下さい。それでは失礼いたします」
先ほど応接間にいた銀髪のメイドさん――変な女……もとい、姉様専属の侍従で、
僕は椅子に腰かけて、これが本物の美少女メイドなのか、僕の日常が迷子になっている、などと考える。自分が放り込まれた現実と教えられた情報に対して、自分の心や考えが追い付いていない。
とりあえずは姉様の言う通りに改造されることになるのだろうけど、どれだけ考えてもその具体的な姿を想像できないでいる。
コミュニケーションを兼ねてそのあたりを一度聞いてみようかな、と考えた僕は姉様の部屋へと足を運ぶことにした。
◆◇◆
隣の部屋のドアは半開きになっていて、けれどその中からは何か鼻歌のようなものが聞こえてきた。
ノックをしてみたけれど反応がないので、そのままドアを押し開く。
「あの、失礼します。姉様……」
すぐに思った。僕はこのドアを不用意に開けるべきではなかったと。
「さえー? 見なさいよこれ、貴重なヤサグレモードのハジメよ! ちょー生意気カワイイわ! これでまた私のコレクションが厚みを増して……っ!?」
壁には狂信的なアイドルファンの所業のように膨大な枚数の写真が張り付けられ、デスクの横ではガタガタ音を立てながらプリンターが光沢を帯びた印画紙を吐き出していた。
見るものを震えあがらせるような夥しい写真の数々の被写体は僕で、印刷したての紙にはハンバーガーを不機嫌そうにほおばる僕の顔なんかが大写しになっている。
そしてそれをにやけた表情で見つめる姉様がいて、僕の存在に気づいた瞬間その表情が見る間に青く凍り付き、そしてゆっくりと赤熱していく。
姉様の目にこみ上げるものが見えた。それがあふれだすと同時。
「うああああああああああああん! もうバレたーーーーーーーーーー!!!」
屋敷を揺るがすほどの大声で姉様が泣き叫んだ。
緊急事態だとばかりに急いた足音が廊下から迫り、事態を把握できない僕の横を誰かが走り抜けていく。
「あー……もう見つかったのですね。一週間は保たせるとおっしゃっていたのに……可哀想な結様。大丈夫ですよー、泣き止んで下さーい、よしよーし……」
「うわーーーーん……さえ、さえぇ……うああああああああああん!」
冴さんが泣きじゃくる姉様の頭を撫でつつ事務的にあやしている。一向に泣き止む気配のない姉様は五分もすればしぼんでしまいそうに思えた。なにこれ。
僕が事情を説明してもらえたのはそれから十五分後だった。
「……つまり姉様は昔から僕の姿を隠し撮りしてはそれを眺めて楽しんでいたと……?」
「ご認識の通りです、ハジメ様」
夕食の献立を伝えるように冴さんが僕に言う。
その声音に罪の匂いは感じられないけれど、僕の記憶に間違いがなければこういう行いをストーキングと呼ぶはずだ。
先ほど僕を救ったはずの姉様はいまだにぐすぐすとしゃくりあげていて、まぶしく感じたあの面影は悲しいほどに残っていない。
僕の中で完膚なきまでに粉砕されたはずの自殺願望が息を吹き返すような気がする。
「ハジメ様の前に結様が現れたのは偶然ではありません。日課の隠し撮りの途中で様子がおかしいことに気づき声をお掛けになったのです。おそらく今も結様のバッグの中には望遠レンズをつけたデジカメが……」
「わああああああああああああ! わあああああああああああああああああ!」
冴さんの言葉を遮ろうと姉様がわめき続けるけれど、すでに事情を知った以上その行いに意味はなかった。というよりうるさい。
「……言いにくいとは思うんですけど、何でこんなことしてるんですか?」
「うっ……言えるかバカアホー! うああああああああん!」
姉様は僕の問いには答えず、大泣きしたままどこかへと走り去っていく。
意外なことに、その姿を冴さんは追わなかった。
僕は姉様に対する若干の後ろめたさを抱えながら冴さんに尋ねる。
「……泣かした自分が言うのもなんですけど、追わなくて大丈夫なんですか?」
「問題ありません。後で慰めればいいのですから。それにこの状況は都合がいいのです」
「都合って何のですか?」
「結様の口から伝えにくいことを私から伝えるいい機会、ということです」
「はぁ……」
「率直に申し上げて、私の主である千条院結様はストーカー気質のメンタルよわよわ人間なのです」
淡々とした、しかし断固たる口調で冴さんが言った。よかった、僕の認識は間違っていない。
「そう見えますね、確かに」
「千条院の名に恥じないという次元を超え、千条院史上最高とも評される才能をお持ちなのですが、些細なきっかけであのような状態に陥ってしまうのです」
「それは……大変でしょうね」
心からの憐れみをこめて僕が呟くと、冴さんは、ありがとうございます、と少しだけ感情のこもった声で答え、そのまま言葉を続ける。
「ハジメ様も応接間でご覧いただいたかと思いますが、自分の弱さを仮面で隠した時の結様には、出来ないことなど何もございません。ただその仮面を崩されると、結様は泣くことしかできません」
「随分と極端な……よく生きてこれましたね」
僕が素直な感想を述べると、冴さんが僕を見た。わが意を得たり、とでも言うように深くうなずくと、冴さんは本題を切り出した。
「その通りです。私が愚考する限り、結様が心の支えにしたのは他でもないハジメ様の存在です。直接会うことの許されないハジメ様の姿を密やかに眺めることは、きっと結様の生きる糧だったのでしょう」
「……でもそれストーキングですよね」
「結様のおっしゃる改造計画には裏の目的がございます」
「何ですか?」
「ハジメ様には男の娘となって結様を泣かせる一切の要因から守り抜く盾、正しくは囮になっていただきたいのです」
これはいけないことだと僕でもわかった。契約書にサインした後で内容を書き加えられるようなものだ。僕はどこに通報すればいいんだろう?
「とりわけ結様は連日繰り返される自分への告白や求愛に対して心を痛めておいでです。ハジメ様には結様を苦しめる男たちの好意を代わりに引き受ける囮になっていただきたいのです」
「……それって僕にできるんですか?」
僕は当然の質問を冴さんにぶつける。
第一印象が悪かったため気にならないが、客観的に見れば姉様は確かに連日告白されていてもおかしくはない美少女である。
そんな姉様の代わりに男たちの視線を集めるような想像上の存在と男の娘にされた春日初の姿とが、どうしても結びつかないのだ。
「ご安心ください。結様はそれが可能であると判断してこの計画を立てられました。ならばそれは可能なことなのです……まあ、私には全く分かりませんが」
「そうですよね、僕も分かりませんし」
冴さんのさりげないディスに気づかないふりをして、僕はうなずく。
「……さえ? ……ハジメと何……話してるの……?」
目元を手でくしくしとこすりながら、いくらか落ち着きを取り戻した姉様が姿を見せる。
「ハジメ様に結様を守っていただくようお願い申し上げておりました」
「もう……話しちゃったの……? 私……心の準備……っ」
「あっ……申し訳ございません結様、伝えるなら早いほうがいいと思いまして……」
わずかに慌てた様子で冴さんが姉様に答える。また泣き出すと思ったのだけれど、姉様はその感情を大きく乱すことなく言った。
「それは……確かにそうね……それとハジメ……言っておくことがあったわ」
「……何ですか?」
「アンタはとりあえず……私が高校を卒業するまで囮を務めてくれればそれでいい……その後は千条院の一員として生きてもいいし……死を選ばずに済むだけの力を身に着けた上で春日初に戻ってもいい……」
「……姉様?」
「アンタの未来を私は改造するけれど……選択の自由を奪うつもりはないわ……ハジメが自分の未来を選べるようになるまででいいから……その間は私を守ってくれると、嬉しい……それだけ」
姉様がしおらしい。
僕は自信が服を着て歩いているような姉様の姿と今目の前にいる姉様の間に横たわるギャップに気を取られていた。どこかで聞いたことがある言葉を思い出す、これがギャップ萌え、というやつだろうか。
今自分が感じているものがそうなのかどうかは分からなかったけれど、それでも姉様の願いを聞いてもいいかな、とは思った。
姉様の言葉を借りるなら、死んだり改造されたりする前に姉様の願いを追加で聞き入れたって罰は当たらないのだろうから。
「……分かりました。囮の役目を引き受けます。出来るかどうかは分かりませんが」
僕は簡単にそう答えた。問題なんてない、無理だと思ったらその時は死ねばいい。僕はそう考えていた。
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