22 ~少年と幻魔の邂逅~

 どれぐらいの時間、自分は眠り続けていたのだろうか。

 閉じた瞼の向こう側から、柔らかな日の光が差し込んでくる。

 いつもとは異なる、少し固めなベッドの感触。さわさわと首元を撫でる、枕とは違う何かの感触が、なんだかとても心地良い。

「あら、目が覚めたのね」

 間近から聞こえてきた狐白さんの声は、とても優しい響きをしていた。

 ああ、僕はちゃんと……君を救うことができたのか。

 深い安堵を覚えながら、僕は重い瞼をゆっくりと押し開く。

「……おはよう、陽兵」

 僕のすぐ目の前で、白いワンピース姿の狐白さんが、穏やかに微笑んでいる。

「狐白さん……おはよう」

 もしかして、僕の寝顔をずっと見つめていたのだろうか。

 なんだか急に恥ずかしくなってくる。

「昨日は色々と無茶をしたのだから、もう少し横になっていなさい」

 身を起こそうとした僕の額に、そっと手を添える狐白さん。やんわりと押された僕の頭は、再び太ももの上に戻される。

 首元に感じる、このもふもふな感触は……もしかして、あの白い尻尾だろうか?

「ええ、そうよ。枕カバーには最適でしょう?

 他人に気安く、触らせるものではないけれど……あなたは、特別だから」

 僕の頭を撫でながら、狐白さんは嬉しそうに笑みを漏らす。

 何だろう、この心をくすぐる感覚は。

 例えばそう、不良少女の家庭的一面を、不意に見てしまった的な。

「まさか本当に、私を救ってしまうなんて……あなたは馬鹿だわ」

 悪口を言いながらも、その声色は温かいまま。

「……それに関しては、お互い様だと思うよ?」

 人間に救われた幻魔がいるように、幻魔に救われた人間もまた、ここにいるのだから。

「ふふっ、確かにそうね。

 私たちは二人揃って、とんだ大馬鹿者だわ」

 その気の置けない笑顔を見られただけでも、命を張って良かったと思う。

「ところで、身体の調子はどうかな? どこか具合の悪いところは?」

 なにぶん、狐白さんの修復はアドリブの連続だった。色々と歪みが生じていてもおかしくない。

「気遣ってくれて、ありがとう。

 細かい部分は自分で調整したから、日常生活に支障はないわ。

 身体が欠けるのには慣れているから、治すのは得意なの」

 確かに狐白さんは、一見すると元気そうである。しかし、幻想体の半分以上が失われたのだから、今まで通りとはいかないだろう。

「あとは、たくさん食べて、心を満たせば……かつての調子を取り戻せるわ」

 狐白さんの瞳に、妖しげな紅の光が灯る。

 それは、人を喰らう幻魔の象徴。本来なら、恐怖を抱くはずの輝き。

 けれど、その眼差しは温かく、僕への好意で満ちていた。

「あなたが起きるまではと、摘まみ食いは我慢していたの。

 でも、そろそろ……限界が近いかしら」

 膝枕を止めて、僕の頭をベッドに下ろす狐白さん。僕の隣に寄り添うように、自らもまたベッドに横たわる。

「さて、未来のあなたは……私をどうするのかしら?」

 僕のワイシャツの胸元へと、差し伸ばされる手。その強気な表情とは対照的に、一つ一つボタンを外してゆく指先が、微かに震えている。

 もしかしたら、僕に拒絶されることを恐れているのだろうか?

 確かに、いくら命を救われたとはいえ、いざ食べられるとなると、やはり躊躇いはある。

 それでも――

「僕で君を満たせるなら、喜んで。

 できれば、修復できる程度に留めてくれると、助かるかな」

 僕は全身の力をなるべく抜いて、されるがままに身を任せる。

「安心なさい。私は大の甘党だから、乱りに傷つけたりしないわ」

 狐白さんは僕のTシャツを捲り上げると、まるで鼓動を直に確認するように、露出した僕の胸元へと頬を擦り寄せ始める。

 もぞもぞとぎこちなく動く頭。白い髪がお腹に擦れてくすぐったい。

「……狐白さん、いったい何を?」

「人間を食べるの、初めてなんだから……不慣れなのは、仕方ないでしょ?」

 思わず問いかけた僕に、狐白さんは恥じらい視線を逸らす。

「上級幻魔の主食は、自分に向けられる感情なんだから……あなたはちゃんと、私のことを意識しなさい」

 揺らぐ感情を紛らわすように、僕の胸をぺしぺしと叩く手のひら。

 いつもの堂々たる姿とは好対照。その初心な仕草が、とてもかわいらしい。

「――ひぅんっ!」

 狐白さんの口から、突然飛び出す愛らしい悲鳴。

 小さく身体を震わせながら、何かに戸惑っている。

「……陽兵……あなた今、私に何をしたのかしら?」

 上気した頬。僕をじとりと睨む紅の瞳。

「――ぇっ? いや、僕は別に、何も……」

「……何か甘ったるいものが、いきなり流れ込んできたんだけど?」

「あ、ああ、それは……狐白さんが、いつになくかわいいなと――」

「――んぅっ!」

 僕の胸に顔を埋めて、ふるふると悶え苦しみ始める狐白さん。

 ……ぇ……なに、なんなの……このかわいい生き物は?

「――かわいいは禁止!」

 突然声を荒げた狐白さんに、僕はびくりと硬直する。

「あなたの、かわいいは……その……私の心が、まだ耐えられないから……当分禁止! 良いわね?」

 狐白さんはあまりにも露骨に照れていた。

 凜々しかったその顔が、いつのまにか羞恥一色で染まっている。

 まさか狐白さんに、こんなかわいい一面があったとは――

「――これ以上、かわいいを連呼するなら……全裸になって、あなたに抱きつくから。

 そうすれば、私のことをかわいいだなんて……思っていられないでしょう、陽兵?」

 急ぎ身体を起こした狐白さんの顔には、破れかぶれに妖艶な笑み。あまりの焦りっぷりに、その目は完全に据わっている。

「努力するので、ほんと勘弁してください……」

 僕は平身低頭謝罪する。狐白さんにそんなことをされたら、食べられる前に僕の精神が音を上げてしまう。

「……わかれば良いのよ、わかれば」

 むすりと頬を膨らませながらも、再び上半身を覆い被せてくる狐白さん。

 目の前の少女を、かわいいと思ってはいけない――なんて、贅沢な悩みだろうか。

 僕の心に、自然と沸き起こってきた感情は……やはり、感謝だった。

 大切な存在が、今もこうして無事であることが、ただ有り難かった。

 何度も心を折られながら、それでも必死に立ち上がり、足掻き続けた。

 あの苦悩の日々は……決して、無駄ではなかったのだ。

「……ん……すごい……美味しい……ふふっ……」

 微睡むように、陽兵の心に浸り始めた狐白。

 そのどこか幼気な姿を見守りながら、陽兵は一人静かに、取り戻した新たな日常を噛み締めるの――

 こんこんこん

 入り口の扉を叩く、どこか懐かしいノックのリズム。

「よーせんぱい! もう起きてますか? そろそろ、お昼ご飯の時間で――」

 勢いよく扉を開き、部屋の中へと入ってきた、制服姿の花撫。

 ベッドの上の男女二人を目撃して、言葉も身体もぴたりと停止する。

「……あら……残念……」

 狐白の瞳からは紅の光が消え失せ、人間状態の藍色へと変化を遂げる。

「花撫、目が覚めたんだね? 元気そうで、安心したよ」

 かつてと変わらない、その愛くるしい言動を目にして、胸の奥から何か熱いものが込み上げてくる。

「……カ、カナは、元気ですけど……よーせんぱいのおかげで、元気になりましたけど……」

 陽兵からの声かけに、ぎこちなく喋り始める花撫。先ほどまでとは打って変わり、その声はあまりの困惑に震えている。

「……どうしたんだい、花撫?」

 その急変ぶりを不思議に思い、問いかける陽兵に対し、

「……どうしたは、こっちの台詞です、よーせんぱい。

 そこの、知らない女の人……いったい、誰なんですか?」

 急速に感情を失う花撫の声。じゃらじゃらと音を奏でながら、陽兵の耳元を這う鎖の群れ。ベッドの上に置かれた陽兵のスマホへと、無言で送信された【束縛する愛情】チェーン・メール

(……あれ? これって、もしかしなくても……修羅場なのでは?)

 事ここに至って、ようやく僕は、事態が逼迫していることに気づく。

 幻魔の食事という点に意識を奪われ、状況を客観的に把握していなかった。

「私は狐白、最近この学園にやってきた新人よ。

 よろしくね、花撫さん」

 身を起こし、陽兵からそっと距離を取る狐白。

 無言のままに二人を見つめる花撫。

 物言わぬ冷たい蛇が、陽兵の首に巻き付いてゆく。

 花撫の困惑が理解できるだけに、下手な言い訳はできない。

 しかし、素直で嘘が下手な花撫に対して、狐白さんが幻魔だと迂闊に伝えるべきではない。その秘密が露呈すれば、花撫まで悲劇に巻き込みかねないからだ。

「安心なさい。私たちは、あなたが心配するような間柄ではないから」

 狐白はふっと表情を緩めて、花撫に親しげな笑みを向ける。

 けれど、花撫は何も応えることなく、じっとりとした視線を突きつけたまま。

「私の固有幻想は、飼い主を必要とするの。餌を貰い続けなければ、生きていられない。

 陽兵は私の命を救うために、飼ってくれているだけ。言うなれば、ペットのようなものかしら」

 ただただ真摯な眼差し。狐白さんが語ってみせたのは、真実を巧みに織り交ぜた設定。

 もっとも、飼い主とペットという表現は……あらぬ誤解を生みかねないけど。

「……カナだって、ちゃんとわかってます……

 よーせんぱいは遊びなんかで、女の人に手を出したりしないって……

 でも、なんだかとっても、心がムカムカしてしまって……ごめんなさい」

 申し訳なさそうに頭を下げる花撫。鎖は陽兵の首元から、立ち所に消え失せる。

「……いや、僕の方こそ、戸惑わせてしまって済まない」

 陽兵は身を起こし、ベッドの縁に腰掛けると、花撫に対して頭を下げる。

 今はまだ、真実を共有するわけにはいかない。けれど、いつかきっと、受け入れてもらえる日が来ると信じている。

「仲直りが済んだところで、早速あたしの話を聞いてもらっても良い?

 といっても、別に長い話ではないんだけど」

 部屋の外でタイミングを見計らっていたのか、薄紅の修道服姿の紅羽が入ってくる。

「爆弾鬼の諸事情に関しては、花撫からたっぷりと聞かされたから。

 神崎君の停学と除籍は、どちらも取り下げたので安心して」

 赤色のスマホ片手に、花撫の隣に並び立つ紅羽。

 彼女が心なしかやつれて見えるのは、戦いで血を流しすぎたため――だけでは、ないのだろう。

「まさか、上級幻魔が暗躍していたなんて。

 まんまと、策略に乗せられて……本当にごめんなさい」

 自らの過ちを認めて、紅羽は深く頭を下げる。

 彼女は学園の平穏と安定を守るために、処刑人として動いたに過ぎない。

 全ては、小さな誤解が積み重なった結果。決して恨むべきではない。

「……いや、こちらこそ……わかってくれて、ありがとう」

 辿々しい言葉だけれど、僕の思いは何とか音になってくれた。

 そういえば、いつものサングラスをかけていないと、今さら気づいてしまう。

 紅羽さんと花撫の二人が、はっと驚きを露わにしたのは、僕という人間を知ってくれているから。

「……神崎君と狐白さんからも、後日事情を聞かせてもらうつもりだけど、今日はこれで引き上げるから。

 心と身体をゆっくり休めて、次の戦いに備えてちょうだい」

 紅羽はスマホを腰のポケットに仕舞い、これで用事は終わったからと踵を返す。

「人間に化ける幻魔……今後は警戒を強めないと」

 去りゆく紅羽が、ぼそりと漏らした独り言。

 花撫の肉体を奪ったイルミナを、指しているのだろう。

 けれど、僕の頭に思い浮かんだのは、隣にいる狐白さん。

 ようやく解決したかと思えば、すぐさま新たな問題が。起きて早々、頭が痛い。

 でもまぁ、人生というのはきっと、幾重にも絡まった問題の連続で、地道に対処を続けるしかないのだろう。

 悟りにも似た気持ちを抱きながら、僕はベッドの上へと倒れ込んだ。

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