20 ~妄信と背信の対立~
白昼夢の中で描かれていたのは、僕が知るはずのない裏舞台だった。
イルミナに心を弄ばれ、苦悩する花撫。それでも未来を信じて、最後まで手放すことのなかった希望。
自分の妄想が即興で作り上げたにしては、あまりにも出来過ぎた物語だ。
感覚を取り戻した右手の中には、慣れ親しんだスマホの硬い感触。
僕はいつの間にか、無意識のうちに縋りついていた。その無機質な幻想の中に、花撫の心が残っているのではないかと。
震える親指を、画面に押し当てる。
新着のメールが一件。
【 】
本文は空白。件名もまた、空白。送信者は自分自身。
本来なら、意味不明なだけの空メール。なのに、こんなにも、涙が溢れて止まらない。
ああ、そうか……花撫はずっと、僕の傍にいて……今もなお、諦めることなく……孤独な戦いを続けているんだ。
それなのに、僕はどうした――いったい何を、絶望している。
スマホを握り締める手のひらに、自然と力が入るのを感じる。
「……なんで希望なんか、抱いちゃってるの?」
心の音に耳を傾けるように、陽兵の背中へと頬を擦り寄せていたイルミナ。花撫と同じ声色で、ぞくりと冷たい言葉が囁かれる。
「……希望なんか、抱いちゃいない」
依然として、状況はあまりに厳しい。そんなことは、言われるまでもなくわかっている。
「これは、ただの……覚悟だ」
かつて、他でもない、自分自身に誓ったのだ――必ず花撫を、連れて帰ると。
ならば、絶望に抗え。たとえ肉の一欠片になろうとも、この世界に留まり続けている限り。
陽兵はスマホを胸ポケットに仕舞うと、床の上に座り込んだまま、自らの背後へと腕を回し、
「……
握り締めたイルミナの脇腹に、破壊の意思を注ぎ込む。
まずは、自分の時と同じ方法で、花撫の肉体を奪い返す。
しかし、僕の想定に反して、制服越しの肉の弾力は変化しない。
触れたのが服だから、ではない。学園側から支給される衣服は、幻想に対する防御力の低いお洒落装備。僕の固有幻想は、それらを貫通して効果を及ぼす。
「……はぁぁぁ……」
イルミナの口から溢れ出した大きな溜息は、嘲りではなく失望。
「固有幻想っていうのはさぁ、感情と強く結びついた力なんだよ? 何よりも大切な花撫の身体を、キミが壊せるわけないじゃない。
まぁそれを言ったら、自分の身体を材料扱いできること自体、正気の沙汰じゃないんだけど。もっと自分の身体を、大事にして欲しいよね」
イルミナはわざとらしく労るように、腕をまるごと失った陽兵の左肩を撫でる。
傷口は完全に塞がっていて痛みはなく、触られたという信号だけが送られてくる。
溶かして固めてを、何度となく繰り返してきた。人間としてあるべき内部構造など、とっくの昔に破綻している。
それでも僕が生きていられるのは、固有幻想で肉体が維持されているから。
ゆえに、退学での途中離脱は不可能。この幻都から生きて脱出するには、卒業試験を突破するしかない。
今はまだ、その道の途中。こんなところで、立ち止まるわけにはいかない。
感情が僕の理性に逆らうなら、心を持たない人形に全てを委ねれば良い。
「――
自らの胸に手のひらを押し当て、感情を無視した命令を下す。
背後を振り向き、対象を視界に捉える陽兵の身体。再度、右腕を背後に伸ばし、花撫の脇腹をブレザーの上から抉り取る。
手のひらの中に感じる溶けた肉の感触に、脳がぎぃぎぃと苦痛を訴える。胸の奥から沸き上がる吐き気を抑え込み、僕はその肉塊にあるべき姿を――
「――はい、そこまで」
胸元のスマホから這い出す無数の鎖。足の甲から手のひらまで、きつく締め上げられる陽兵。赤黒く血生臭い蝋が、手のひらから零れ落ちる。
「そんなちっぽけな肉片で、いったい何をするつもりなんだか」
イルミナは溜息交じりに立ち上がると、警戒するように陽兵から少し距離を取る。その声には、苦痛の色など微塵も滲んでいない。
幻想体での活動が可能な上級幻魔にとって、肉の器は所詮仮の宿。生体干渉で肉体をいくら傷つけても、中身のイルミナに及ばないのは想定通り。
「取り戻した花撫の肉で、まずは小さな人形を作る。
そして、僕のスマホに宿る花撫の精神を、その人形に解凍させる。花撫の固有幻想を継承した人形なら、花撫に対するお前の阻害を、さらに阻害できるはずだ。
花撫が目覚めたら二人で協力して、少しずつお前の肉を削ぎ落とし、新たに花撫の身体を構成すれば良い。
全て計画通りだ。何がおかしい?」
陽兵はイルミナに対し、その策をあえて口にする。
お前など恐れるに足りないと、言葉を介して心を殴る。
「キミのその計画、開始早々頓挫してるんだけど?」
鎖で拘束された陽兵へと、冷めた視線を向けるイルミナ。
「そうでもない。この状況、僕にとっては好都合だ」
「ふぅん、とてもそうには見えないけど」
「花撫の
一方、縛られているだけの僕にとって、今はただの休憩時間だ」
「……どうもキミには、危機感が足りないと思ってたんだけど……まさか、自分はまだ殺されないとか、思ってたりしないよね?
ボクがその気になれば、キミの命なんていつでも摘めるんだよ?」
嘲るような笑みが、次第に薄れ消えてゆく。
たかが人間相手に舐められている事実が、ひどく不快なのだろう。
「花撫の
ならばあえて、僕は口撃を重ねる。イルミナの精神が激しく揺らげば、その固有幻想が不安定になり、花撫の解凍に繋がるかもしれない。
「……何が、言いたいんだい?」
「お前は花撫の力に頼らなければ、僕という人間一人すら満足に殺せない。上級幻魔としては、ひどく脆弱なんだ」
「……ぁあ、その手の煽りって……ボク、大っ嫌いなんだよねぇ」
イルミナの手から溢れ出す、何十、いや何百もの赤い糸の群れ。それらは互いに絡まり紡がれて、手刀を覆うように魔霊子の槍を形成する。
その先端は、何の迷いもなく突き出され、陽兵の胸元を容易く貫通していた。
「……誰がキミを、殺せないって?」
爛々と輝きを増す紅の双眸。無造作に抜かれた槍の穂先が、べったりと血に塗れている。
「……お前だよ……心臓一つ潰されたぐらいで、僕が死ぬとでも?」
穿たれた穴を意に介することなく、陽兵はさらにイルミナを煽る。
魔霊子で弄くり回されたこの肉体にとって、臓器は室内を彩る装飾品に過ぎない。部屋そのものが潰れない限り、生体活動にさしたる問題はない。
「なるほど……キミの肉体は、とっくに人間やめてたわけか。
でも、さすがに首を切り落とされたら……キミだって死ぬだろう?」
瞬時に解かれたイルミナの糸が、再度絡まり紐と化しながら、陽兵の首へと纏わりつく。
「そう思うなら、やってみろ。
ただし、僕を仕留め損なったとき……お前は、上級幻魔として……誇り……失ぅ……」
次第にきつく縛り上げてゆく紐に、陽兵の声はかすれ、やがて途絶える。
気道を塞がれ、血流を止められて、普通はこれだけで意識を失い絶命する。けれど、固有幻想で維持されている僕の肉体なら、この心が止まらない限り生き続ける。
「あの世で誇って良いよ、陽兵。
キミはこのボクに、食事ではなく……ただの人殺しをさせ――」
「――
横手の壁が、音もなく消し飛ぶ。
視界を横切ったのは、目映いばかりの白銀の光。
「――っ!?」
予期せぬ第三者の攻撃に、思わず言葉を飲み込むイルミナ。顔を引きつらせ見つめた、壁の大穴の向こうには、激しく沸き立つ闇の帳。廊下を包み込む固有領域の一部に、人が通れる程の大穴が空けられている。
「あら、待たせてしまったかしら?」
その悠然とした声は、大穴の反対側から。
壁の傍らに一人佇む、白いワンピース姿の少女。腰まで伸ばされた白髪に一切の汚れはなく、ふさふさの白い尻尾がその背中で揺らめいている。
そのあまりに印象的な出で立ちを、忘れるはずがない。だからこそ、その後ろ姿を目にしてなお、すぐには信じられなかった。
「――あり得ないっ……キミは……キミは、確かに……死んだはずだっ!」
驚愕に声を震わせるイルミナ。その指先から力が抜け落ち、陽兵の首を締め上げていた赤紐が緩む。
そう、肉体の大半を失ってなお、生き延びてみせた馬嶋君とは違う。固有幻想の媒体たるスマホすら、跡形もなく失われていたのだ。そんな状態で、生きていられるはずがない。
「……それはあくまで、私が人間だったらの話でしょう?」
陽兵たちに背中を向けていた狐白が、徐に振り返る。
存在そのものが幻想であるかのように、うっすらと透けた全身の肌。先ほど放たれた魔槍の代償か、左腕は完全に消失している。
そして、イルミナへと向かうその二つの瞳は……静謐な紅の光を湛えていた。
それは、人ならざる者の象徴。そこにあるはずのない輝き。
狐白さんは幻魔である――そんな馬鹿げた可能性を、疑ったことなどあるはずない。しかし、思い返してみれば、腑に落ちる点は幾つもあった。
学園に来たばかりの新人でありながら、中級幻魔を容易く屠ってみせたこと。
風呂上がりの裸や下着姿を僕に見られても、いたって平然としていたこと。
僕が注文した理想のカツ丼を口にして、よくわからない味と表現したこと。
――狐白さんは、変わり者だったのではなく……上級幻魔だったのだ。
「……ぃや、そんな馬鹿な……さっきまでは確かに、人間だった!」
イルミナの激しい困惑を物語るように、手にした赤い紐が急速に解れ、消え失せる。
激しい動揺は僕も同じ。何しろ、人間にしか配布されないはずのスマホを、狐白さんは携帯していたのだから。つまり、幻神の固有幻想であるこの幻都さえも、彼女を人間と認識していたことになる。
「私の根源思想は変身願望。私がその気になれば、存在のあり方すら化けられるわ」
そう言って、狐白は妖艶な笑みを浮かべてみせる。
ああ、そうか。僕は完全に誤解していた――狐白さんは
実際は、全くの逆――
「……まさかキミは、わざわざ人間に化けてまで、人間に力を貸していたというのかい?
あり得ない! 僕ら幻魔は、人間に仇なす存在として、ティア様に作られたはずだ!」
「どうありたいかは、自分で決めるわ。神様の都合なんて、知ったことではないわね。
文句があるなら、直接殺しに来れば良い。探し出す手間が省けて、助かるわ」
「理解できない……ティア様が定めた法を犯してまで、いったい何を求めると?」
「まずは、私に纏わりついて離れない、この『神様ゲーム』という枠組みをぶっ壊す。
私は行きたい場所に行き、食べたいものを食べさせてもらうわ」
「……そんなことのために、ティア様に反逆すると?」
「自分の欲望に従い、ルールに抗っているのは、あなただって同じでしょう?
人間の肉体を仮宿にしてまで、学園内に留まり続けているのだから」
相対する二人の幻魔の姿を、陽兵は傍観者のように眺めていた。
全身を縛り付けていたはずの鎖は、いつの間にか消えている。それでも、事の成り行きに感情が追いつかず、床の上に座り込んだまま身動きできない。
「互いの信念が相反するのだから、いくら言葉を交わしても切りがないわ。
そろそろ、あなたの大好きなゲームでも、始めましょうか?」
ギギギムッ
既存の暗幕を内側から覆うように、新たな固有領域が展開される。
「ここから生きて出られるのは、どちらか一人。
あなたが勝ち残ったなら、今まで通り思うがままに、人間を喰らえば良いわ」
「いやいや、意味がわからないよ! 同じ上級幻魔なんだろう? どうしてキミに、命を狙われなきゃいけないのさ!?」
一方的にゲームを突きつける狐白に対し、明らかな焦りを見せるイルミナ。
「あなたに弄ばれ、殺された人間だって……似たようなことを、思ったんじゃないかしら?」
返す狐白の言葉に、確かに滲む悲哀の色。
人を喰らうことを快楽とする幻魔。それでも彼女は、人の命を慈しんでいるのだろうか。
「食材に同情するなんて、実に馬鹿げているよ。
ボクたち幻魔は、人間の心と身体を喰らい、それを大いに堪能するよう作られている。あるがままの生を謳歌して、いったい何が悪いと言うんだい?」
幻魔には幻魔の言い分。人間だって視点を変えれば、他の命を喰らう化け物だ。
幻魔としての道を大きく外れているのは、むしろ狐白さんの方なのだろう。
「ええ、あなたは何も間違っていないわ。
だからこそ、私は……そうあるべきと定めた神が、許せない……
それが幻都の法だと言うのなら、ぶっ壊して終わらせるだけ。あなたが法に従う信者なら、この手を穢して排除させてもらうわ」
その願いは穏やかに、けれど確かに狂っていた。
同族である幻魔からも、庇護の対象たる人間からさえ、理解されるはずもない。
彼女はただ孤高に、あるべき自分に抗っている。
「自分を変えて適応するのではなく、世界のあり方を変えようだなんて、おこがましいにも程があるよね。
ティア様もティア様だよ。キミのような異物は、さっさと排除すれば良いのにさぁ……結局こうして、現場が被害を受けるんだ」
大きな溜息と共に、自らの困惑を吐き捨てるイルミナ。その二つの手のひらから生え出し、蠢き始める赤い糸の群れ。
「良いよ、キミのゲームに乗ってあげる。
でも、これから始まるのは……一方的な嬲り殺しだよ。
だって、人間大好きなキミは、ボクの器に手出しできないんだから。
それとも、貴い犠牲と嘯いて、中身のボクごと殺すのかい? 食材相手に同情する、心優しいキミに……そんな真似できないよねぇ?」
イルミナは早速言葉を介して、狐白の心に殴りかかる。
そう、人間の肉体や精神は、物質とも幻想とも相互作用する、中間的な性質を持っている。狐白さんの固有幻想は確かに強力だが、それは幻想であるイルミナの命だけでなく、花撫の肉体まで消し去るだろう。
「……あら、あなただけを殺す術があるからこそ、ゲームを持ちかけたのよ?
私の固有幻想が何だったのか、もう忘れてしまったのかしら?」
狐白は何ら動揺することなく、くすりと笑みを漏らす。
「今さら人間に化けたところで、何かできるとは思えないけど?」
対するイルミナは、自らの優位は揺らがないと煽り返す。
「別に、レベルを下げるだけが能ではないわ。
あなたには、本当の
胸元で握り締められた狐白の拳。まるで宙に溶け込むように、その存在感が虚ろになる。
「幻想のままでは、生体にも干渉してしまう。でも、幻想を超える幻想――超幻想をもってすれば、器の肉体を壊すことなく、中身のあなただけを殺せるわ」
狐白の右腕全体に及ぶ、存在の消失。残された僅かな光の粒子が、かろうじて腕の痕跡を描いている。
その変化はあまりにも静かで、右腕が別の何かに変わったのか、ただ隠してみせたハッタリなのか、人の目では判断がつかない。
「……そんな、絵空事だ……超幻想なんて、聞いたこともない!」
けれど、イルミナは身体を小刻みに震わせ、後退りを始める。
そうか、魔霊子で構成された幻魔なら、超幻想を感知できるのか。
「それは、そうでしょうね……
だって、幻魔相手に使うのは……今日が初めてだもの」
平静を装っていた狐白の顔が、苦痛に歪み始める。
自分という存在の一部を、根本的に異物へと変質させるのだ。それがどれ程の負荷を伴うのか、端から見ているだけの僕には想像もできない。
「――
発動前に潰そうと、必死に声を荒げるイルミナ。
しかし、狐白を拘束するはずの爆弾腕輪は、出現すらしない。
「馬鹿ね……幻魔が、スマホなんて……持っているわけ、ないじゃない」
人には見えざる、超幻想と化した右腕――その矛先を、イルミナへと向ける狐白。
「……ぁぁ……ぁああああ!」
イルミナは背中を向けて、少しでも距離を取ろうと玄関の方へ向かう。しかし、焦りのあまり足がもつれ、まともに走ることができない。
「――くっ! 邪魔だぁっ!」
花撫の頭頂部から、突如吹き出し始める赤い蒸気。
この不定形の光る靄が、おそらくイルミナの幻想体。もはやお荷物な肉体を脱ぎ捨て、身軽になろうとしているのか。
狐白さんの超幻想がいくら強力でも、回避されたら意味が――
「……
花撫の胸元から伸びた一本の鎖が、抜け出そうとしていた赤雲の端に絡みつく。
イルミナの姿をぼんやりと見つめる、その寝ぼけ眼には――花撫本来の茶色の瞳。
「――っ!?」
イルミナが花撫へと注意を奪われた、次の瞬間――
「……
狐白の右腕から解き放たれる、あまりに疎らな白銀の粒子。それらはきらきらと宙を舞い、花撫の身体ごとイルミナを呑み込むと、赤い靄だけを音もなく掻き消していた。
それが、あまりにも静かで呆気ない、イルミナの最期だった。
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