17 ~誤解と逃亡の果て~

 陽兵の全身を束縛していた鎖は、すでに跡形もなく消え去っていた。

 ベッドの上で意識を取り戻した陽兵は、爆風で無惨に荒らされた室内を、ただ呆然と眺め続ける。

 壁や床の至る所に、抉り取られたような深い傷跡。

 削られ、砕かれ、粗大ゴミと化した調度品の数々。

 花撫は壁に背を預けるように座り込み、意識を失ったまま動かない。

 そして、仄かに白銀の光を帯び、激しく毛羽立った白い尻尾。狐白さんの固有幻想の象徴だけが、入り口近くの床の上に空しく転がっている。

 もはや、その肉体は……欠片一つ残されていない。尻尾の近くをいくら見回しても、白いスマホが転がっていないことからも、肉体的な死は明らかだった。おびただしい量の血痕すらも、魔霊子が抜け落ちて物質と化し、床に吸い込まれるように消えてしまった。

 ようやく爆弾鬼をクリアして、イルミナの干渉から解放された。なのに、その報酬が……この堪えようのない、やるせなさだというのか。

 ベッドのシーツを握り締め、力なく項垂れる陽兵。視界に僅かに映り込む、手のひらサイズの茶色い物体。それは、狐白の右手を材料にした、クマのぬいぐるみだった。

 いったん人形化してしまえば、本人が死んでも残り続けるものなのか。今までは、自分の肉体しか人形にしてこなかった。だからこそ、気づくことのなかった特性。

 もしかしたら、この小さな器の中に、狐白さんの精神が逃げ込んではいないだろうか。

 陽兵は儚い願いに縋るように、ぬいぐるみを指先でつついてみる。

 けれどそれは、仰向けのまま動かない。何一つ喋らない。

 当たり前だ――これは、中身のない人形なのだから。

 胸を締め付けるような感傷に、陽兵は人形の身体を手に取り、ズボンのポケットへと押し込む。

 僕はこれから、いったい何をすればいいのだろ――

「――狐白さん!」

 爆風で扉が消し飛ばされた入り口から、紅羽が室内へと駆け込んでくる。

 色の抜け落ちた白い修道服に、右手で肩に担がれた血の大鎌。もう一方の左手には、赤色のスマホが握られている。

「――っ……」

 床の上に残された白い尻尾を目にして、驚き硬直する紅羽。

「検索しても、見つからないと思ったら……まさか……」

 独り言のように漏れ出す声から、急速に感情が抜け落ちてゆく。

 紅羽は狐白の尻尾から視線を外し、改めて念入りに室内を検分し始める。

 室内はかなりの広さだが、元々ほとんど物が置かれていない。全ての家具がガラクタと化した今、人が隠れられるような空間はどこにもない。

 幻神ティアが定める神様ゲームのルールにおいて、この洋館は学生寮と同様に休憩場所扱い。幻魔による急襲を防ぐために、玄関以外からの出入りはできないよう設定されている。たとえ窓が割れていて、人一人通れるスペースがあろうとも、そこから誰かが逃げ出すことはない。

 つまり、紅羽さんの立場で、冷静に状況を把握すれば――狐白さん殺害の容疑者は、僕と花撫の二人だけ。

「あなたが、花撫にやらせたのね……神崎君……」

 だからこそ、導かれたその結論を、紅羽は微塵も疑っていなかった。

 前髪から垣間見える黒褐色の瞳が、じっと僕の顔を見つめている。

(――ちっ、違う! 僕じゃない!)

 弁明の言葉は心の中に閉じ籠もったまま、口から外に出てきてくれない。

 いつもなら代弁してくれる心ない天使達も、僕の傍には一人もいない。

 僕はただ必死に、首を横に振って否定する。

「この期に及んで、罪を逃れようなんて……そんなの、無理だから」

 紅羽は手にした赤色のスマホを、片手で素早く操作し始める。

「殺害現場の状況と、狐白さんの肉体強度を考慮すれば、凶器が花撫の【炸裂する激情】メール・ボムなのは明らかだし。

 心を失った今の花撫に、そんなことを命令できる人なんて……あなた以外に、誰もいないから」

 イルミナという上級幻魔の存在を知らない以上、その結論に至るのも仕方ない。しかも、イルミナがゲームを終えて姿を消した今、僕はその存在を証明しようがない。

 花撫は依然として気を失ったままだが、仮に意識があったとしても、僕の無実を説明できないだろう。イルミナが僕と入れ替わっていたことにさえ、花撫は気づいていなかったのだから。

 ただ一人、全ての事情を把握していた狐白さんは……もう、どこにもいない。

 何一つ解決策を見出せず、ベッドの上に座り込んだままの陽兵。

 紅羽は手にしたスマホの画面を、陽兵の方へと向けて、

「神崎陽兵――これからあなたを、除籍するから」

 全面赤一色のレッドカードを提示した。

 それは、これからお前を殺すという処刑宣告。

 風紀委員長にのみ許された、断罪権限の行使。

 自らの意思で学園を去る退学とは、その意味合いが全く異なる。

【除籍処分】

 陽兵が手にしたスマホの画面にも、大きな赤色の文字が表示される。

 これで、僕の固有幻想には制限がかけられた。紅羽さんを対象とした固有幻想は、幻神ティアが定めた法に従い、全て無力化されてしまう。

 無論、素手で制することができる相手ではない。僕に許されたのは、防御と回避のみ。つまり、これから始まるのは――一方的な嬲り殺しだ。

(――【即席汎用体】イニシャライズ!)

 陽兵はスマホを胸ポケットに仕舞うなり、右手で左肩を鷲掴み。そのまま左腕一本を溶解し、すぐさまドールの素体を生成する。身を守る盾とするために、何よりも大きさを重視。中身を空洞にする代わりに、人間大にまで膨らませる。

「学園の平穏を乱さなければ、殺されずに済んだのに」

 スマホを腰のポケットに仕舞う紅羽。その頬を伝い、流れ落ちてゆく幻想の涙。

(――【自律的機構】オートマトン! 身を挺して、僕を守れ!)

 ベッドから床の上へと足を下ろしながら、陽兵は人形に命令を与える。

「……【涙は乙女の銃弾】セイクリッド・ティアーズ

 空いた左手の指先で、続けざまに涙を弾く紅羽。

 人形は素早い身のこなしで軌道を遮り、陽兵の代わりに涙を浴びる。

「苦しまなくて済むよう、麻酔を打ってあげたのに」

 紅羽はふぅと小さく溜息を吐くと、左手を覆う白いグローブを外し、露わになった指先を口に含む。鋭く歯を立てられ、傷つけられた指の腹に、鮮血の紅が滲む。

「――【血は乙女の刃】ブラッディー・レイン

 指先から溢れ出した紅羽の血が、薄刃と化して陽兵を襲う。

 陽兵の前に躍り出る身代わり人形。しかし、血の刃が突き刺さるなり、人形はすぐさま形を失い溶け落ちる。

 血刃の効果ではない。まさか、紅羽さんの血に触れたことで、レッドカードの効果が発動し、僕の固有幻想が無力化されたのか。

 肉壁の消失により、防ぎきれなかった残りの刃は、陽兵の腹部に突き刺さっていた。ずきりと深く響いたのは、肉体的な痛みではない。自分の肉体さえ材料扱いの僕は、痛みをただの信号として無視できる。

 心を直接蝕むようなこの不快さは、言うなれば生の苦悩だ。心の奥底で押し殺していたはずの不安と恐怖が、堰を切ったように溢れ出してくる。

(頑張って、頑張って、頑張って……それなのに、僕は何一つ報われていない……)

(みんな、僕を除け者にする……誰も、僕を必要としてくれない……この世界に、僕の居場所なんてないんだ……)

(もうこれ以上、苦しいのは嫌だ……いっそ死んで、楽になりたい……)

 呪いの言葉を浴びせてくるのは、紛れもない自分の本心。否定し得ない感情の濁流に、がくんと膝から力が抜け落ちる。全身の筋肉が生きる気力を奪われ、まるで死んでしまったかのように熱を失う。

 これが、学園最高戦力の一角と呼ばれる、紅羽さんの真骨頂。肉体が仮宿に過ぎない幻魔すら、精神的に壊して死に至らしめる力。

「自分の罪と向き合う気分はどう? 他人の痛みを、少しは理解できたんじゃない?」

 絨毯の上に両膝をついた陽兵のもとへ、大鎌を手に歩み寄る紅羽。その口の端には、冷酷な笑みが浮かんでいる。

 違う、これは、他人の痛みなんかじゃない。僕自身が抱え込んでいた、心の叫びだ。

 だからこそ、重くのし掛かり、どこにも逃がしてくれない。見て見ぬふりが許されない。

(……僕はいったい……何のために、生きているんだ……)

 答えを見失ったまま、血の大鎌の前に首を差し出す陽兵。

 胸元でぶるぶると震えるスマホの振動が、どこか遠く感じられる。

「……それじゃ……さようなら」

 紅羽は両手で大鎌の柄を握り締めると、頭上高く振り上げて、

「――【束縛する愛情】チェーン・メール!」

 その腰のポケットから溢れ出した無数の鎖が、紅羽の身体を縦横無尽に這い回る。

「――陽兵さん!」

 こちらへと駆け寄ってくる少女の声。その響きを、僕はよく知っている。

 僕を恐れ、拒絶する素振りはもはやない。両の瞼は閉ざされたまま。それでも確かな足取りで、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。

 花撫――零れ落ちずに残っていた、僕にとっての最後の希望。

「――これはいったい、何のつもりっ!?」

 処刑の瞬間を邪魔された紅羽は、声を荒げて花撫に問い質す。しかし、花撫はそれに全く取り合わない。

「掴まってください、陽兵さん」

 陽兵の隣に並んで跪くと、その脇の下に肩を入れ、陽兵の身体を支え立ち上がる。

(……花撫……)

 今までは、僕が花撫の杖となり、その身体を支え続けてきた。

 けれど今、花撫から感じられるのは、か弱さではなく力強さ。

「あとはわたしに、任せてください」

 花撫は僕の身体を引きずるように、一歩一歩着実に部屋の入り口へと歩き始める。

 ああ、そうだ――僕は君を救うために、今までずっと生き続けてきた。

(必ず、君を……連れて帰る……)

 あの狭い六畳間で君と過ごした、何気ない日々の有り難さを、僕は決して忘れていない。

 冷たく凍り付いていた腹の底に、確かな種火が宿るのを感じる。

 筋肉は依然として脱力したまま。素直に動き出してくれそうにない。

 けれど、それは大した問題ではない。

 僕は人形使いなのだから、心さえ動けば十分だ。

(――【自律的機構】オートマトン! 花撫と共に、前に進め!)

 自分の身体を人形と見做し、全身に対して命令を与える。

 疲れたも、面倒くさいもない。足の裏はただ忠実に、床を踏みしめ身体を支える。

 どこか機械のようにぎこちない足の運び。先の道などわからない。

 それでも僕は、足が向かう先から目を逸らさない。


 爆風で破壊された入り口の扉を通り、陽兵は花撫と共に部屋の外へと足を踏み出す。

 そこは廊下とはいえ、ちょっとした部屋ぐらいの幅広さのある空間。その所々には台が置かれ、造花が盛られた花瓶が飾られている。

 そして、中央広間へと繋がる廊下の中程には、そんな花の彩りとは全く相容れない、黒の学ラン。

「よぉ、大将……随分と、疲れてるみてぇだなぁ?」

 陣取るようにどっしりと胡座をかき、陽兵へにやりと笑みを向ける仗司。

 その底知れぬ威圧感を気にすることなく、花撫は陽兵の肩を担いだまま、一歩ずつ前へと進み続ける。

「委員長から話が合ったはずだが、そのしけた面……無罪放免ってわけじゃねぇんだろ?」

 仗司はゆらりと立ち上がり、筋肉を解すように大きく肩を回す。

 三度死を乗り越えて、その度に攻防一体の新たな力に目覚めてきた男。すでに最後の残鬼を使い果たしたはずなのに、死に対する恐れは微塵も見られない。

「どうせ口で語り合っても、嘘か本当かなんてわかりゃしねぇんだ。

 だったら拳で、思う存分やり合おうじゃね――」

「――【炸裂する激情】メール・ボム!」

 仗司の言葉を途中で遮り、転送される花撫の爆弾。右の太股を締め付けるように、分厚い金属輪が仗司に装着される。

 3……2……1……

 仗司は青い光のカウントダウンを見下ろし、またこれかよと大きな溜息。

 陽兵は花撫と共に、爆風に備えて身を屈める。

 盛大な爆発の光に呑まれ、掻き消える仗司の身体。

 けれど、それもほんの数秒。仗司は吹き荒ぶ魔霊子を物ともせず、平然と両足でその場に立ち続けている。

「纏ってなお、この威力かよ……えげつねぇなぁ」

 破れた皮膚から漏れ出した血が、仗司の太股に紅の輪を描く。

 【残鬼】の防御効果が発動しても、完全に抑えられるわけではないのだろう。それでも、一発で即死級の攻撃を、ただの軽傷に変えてしまうほどの抵抗力。

 強い――いや、強くなったと表現すべきか。花撫の爆弾に加えて、僕の肉体溶解にも対処が可能。花撫の鎖が紅羽さんの束縛に使われている今、彼をどう制すれば良いのか。

「んじゃ、こっちも一発……でかいのぶち込ませてもらうぜぇ?」

 固く握り締められた仗司の手の甲に、青く光る数字が浮かび上がる。

 5……4……3……

 打撃に【炸裂する激情】メール・ボムの威力を上乗せした、【爆裂拳】の構え。

 僕も花撫も、爆弾に対して特別な抵抗力などない。だが、攻撃を回避しようにも、僕の身体はまだ動きがぎこち――

「――【天使の救済】ラファエル・ウィング!」

 仗司の全身を覆い尽くす、淡い光の膜。その足下には、金髪ショートの小さなメイド人形。白い光翼を背中に生やした美愛が、仗司のふくらはぎに手のひらを押し当てている。

「まぁだ残っ――」

 バゴオオウッ

 仗司のうんざりとした声は、炸裂した爆音に上書きされる。

 胸元で構えられた拳は、誰に放たれることもなく炸裂。仗司は自分一人で、魔霊子の乱流に身を晒す。

 一見すると、美愛に気を取られての、間抜けな自爆。だが、そうではない。光の型枠に閉じ込められて、彼は身動きできなかったのだ。

 まさか、美愛の治癒能力にそんな使い道があったとは……作り手の僕でさえ、思いつかなかった。

 爆風が静まった後には、拳に血を滲ませ佇む仗司の姿。

「……んで、いつになったら離してくれんだ?」

 動かせない首の代わりに、仗司は視線だけを自分の足下に向ける。

「それはもちろん、私が力尽きるまでです、馬嶋様」

 相手が主人を傷つける敵であろうと、美愛は丁寧な言葉遣いを欠かさない。

 仗司の頭上からは、絶えることなく光の羽根が降り注ぐ。

「ほぅ……作り物の人形にしちゃ、見上げた根性じゃねぇか」

 生体再生の効果によって、治療が進む仗司の肉体。魔光拳で消し飛んだ指は魔霊子で補われ、ふとももの傷もみるみる塞がる。

(私が時間を稼いでいる間に、どうかお逃げください、お父様)

 姉妹を次々に失った美愛は、それでも冷静に、自分の成すべきことに力を注いでいる。

 そう、これは僕を生かすための、自らを犠牲にした時間稼ぎ。

 ここで足を止めてはいけない。少しでも、前に進まなければ。

(ありがとう、美愛……この場は君に任せるよ)

 ぎこちなく、けれど確かに、前へと足を踏み出す陽兵。

 それに合わせて、隣に並ぶ花撫もまた歩き始める。

「ふっ……いいぜぇ、どこでも好きな場所に隠れてくれや!

 攻守交代――今度はこっちが鬼の番だぜぇ、大将?」

 楽しげに笑い始めた仗司の横を通り過ぎ、陽兵達はさらに廊下の先へ向かう。

 停学処分の効果も発動中の今、僕はどう足掻いてもこの館から逃げ出せない。

 それでも、僕がやるべきことは何一つ変わらない――花撫を救うことだ。

 今までは、僕は絶対に死ぬわけにはいかないと思っていた。僕が死ねば、僕の固有幻想は全て失われる。支えを失った花撫の肉体は、形を保てず壊れてしまうから。

 でも、馬嶋君は僕の目の前で、死と再生を何度も繰り返してみせた。死によって固有幻想が全て失われるなら、そこからの再生などできるはずがない。

 狐白さんもまた、肉体を全て消し飛ばされたにも関わらず、固有幻想である白い尻尾だけは、消え去ることなく残っていた。

 そう、強い想いを宿した固有幻想であれば、死してなおこの世に留まり続けるのかもしれない。

 ならば、僕はその最期の可能性に賭けよう。たとえ自分が殺されようと、花撫さえ生き延びてくれるなら……それで構わない。

 花撫一人だけでも、この館から逃がしてみせる。

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