15 ~奪還と喪失の結末~

 開かれた扉の先には、慣れ親しんだいつもの光景が広がっていた。

 元々はリビング、ダイニング、寝室と独立していた三部屋を、壁をぶち抜き一つにまとめた広大な空間。扉や壁が多いと不便だろうと、視覚を失った花撫に配慮した間取り。

 そこが今、最終決戦の場になろうとしている。

「ほんと、待ちくたびれたよ」

 部屋の奥に置かれた巨大なベッド。その縁に腰をかけ狐白達を出迎える、制服姿の陽兵の肉体。その左隣に並び座り、陽兵の腕に寄りかかっている花撫もまた、紺のブレザーにチェックのスカートという無料支給の衣服を身につけている。

「キミ達は通しても構わないと、人形達には伝えておいたのに。なかなか思うようにはいかないね。

 でも、時間切れにならなくて良かったよ。一斉爆破エンドなんて、あまりにも味気ないからね」

 片腕で頬杖をつき、こちらを見つめる自分の肉体――の中に巣食うイルミナ。濃いサングラスに隠されて、その瞳の色は窺えない。

「せっかく手間暇かけて調理したのに、噛み締めることなく一呑みなんて、人の命に対する冒涜だよ。

 キミだって、そう思うよねぇ……陽兵?」

 これ見よがしに涎を啜ってみせるイルミナ。

 もはや、自分が幻魔であることを隠そうともしていない。この場から生かして帰すつもりなど、端からないのだろう。

「ああ、覚醒代償のせいで、人前じゃろくに喋れないんだっけ?

 ボクは人間じゃないんだからさぁ、キミが言葉を躊躇う理由なんてないんだよ?」

 イルミナはいったいどこまで、僕の事情を把握しているのか。元は自分の顔ながら、その笑顔の不気味さに怖気が走る。

「……そろそろ、ぶん殴っても良いかしら?

 口数が減って、ちょうど良い具合になると思うのだけど」

 人の心を嘗め回すようなイルミナの言葉に、狐白は早くも痺れを切らしている。

「わかってないなぁ、狐白さん。

 言葉を介した心の殴り合いこそが、上級幻魔との戦いの醍醐味だよ?

 だって、正々堂々殺し合っちゃったら、人間がボクらに勝てるわけないんだから」

 やれやれだと肩をすくめて、わざとらしく溜息を吐くイルミナ。

「上級幻魔がわざわざルールを定めて、神様ゲームなんて仕掛けるのも、人間側に勝ち目を残すためだしさ。

 ほんと、ティア様は人間に対して甘過ぎるんだよね。最低限の衣・食・住は無料で提供してるし、退学での途中リタイアなんかも許可してるし。

 人間なんてうじゃうじゃいるんだから、減った分はまた攫ってくれば済む話なのにさぁ」

 イルミナの口からは、上司に対する不満が溢れて止まらない。

 確かに、人間を痛ぶり苦しめ、その心や身体を喰らうことだけが目的なら、幻都はもっと殺伐とした世界でも良かったはずだ。なぜ、学園という半安全地帯を用意する必要があったのか。言われてみれば、妙な話である。

「おっと、危ない危ない。ティア様のご機嫌を損ねて、始末されちゃ敵わないからね。

 使い捨ての駒は駒らしく、素直に人間を堪能させてもらうよ」

 すくりとその場に立ち上がるイルミナ。その腕に寄り添うように、花撫もまた並び立つ。

「爆弾鬼のルールは、もう説明する必要ないよね?

 固有領域を途中で解除しちゃったから、クリア報酬は振り込んであげられないけど……そうだね、その代わりに、もしこのゲームをクリアできたなら、キミとキミの大切な花撫には、二度と手を出さないことを誓うよ。

 キミにとっては、何よりの報酬だろう? 陽兵?」

 イルミナの顔には、へらへらと薄っぺらい笑み。

 クリアできるはずもないと、馬鹿にしているからこその約束。

「……お前の言葉の、いったい何が信じられる?」

 陽兵は心の中で渦巻く憤りを、狐白の頭上から苦々しく吐き捨てる。

「少なくとも、ゲームのルールに関しては、嘘なんて吐かないよ。

 そんなことしたら、ティア様に消されかねないからね」

 イルミナの言葉の全てを、信用するつもりはない。イルミナから肉体を奪い返した結果として、その言葉の真偽は確認できるはずだ。

(作戦は?)

 簡潔に、陽兵の心に問いかけてくる狐白。

(消し飛ばさないよう注意してくれたら、僕の身体は好きにボコってくれて構わない。僕は狐白さんの動きに紛れて、事を起こすから)

(安心なさい。すでに【異端者の魔弾】ゼノファイアの残弾はゼロ。私は始めから、素手でぶん殴るつもりだから)

(できれば、花撫への攻撃は手加減してくれると嬉しい。致命傷でなければ、後で僕が治すから問題ない)

(了解したわ)

 イルミナから視線を外すことなく、手短に作戦会議を終える二人。

「どうやら、そっちも準備万端みたいだし……それじゃぁ、始めようか?」

 イルミナの言葉に応えるように、花撫の右肘に具現化される腕輪爆弾。それはすぐさま消え失せ、隣に佇むイルミナの同じ部位へと転送される。

 28……27……26……

「さぁ、早くなんとかしないと、キミの身体が壊れちゃうよ?」

 開始早々、まさかの自爆カウントダウン。中身の自分が傷つくことも厭わず、僕の肉体を消してゲームを終わらせる気なのか?

 ……いや違う。これは、理不尽な選択を僕達に強いている。

 爆弾を放置すれば、僕は自分の肉体と共に固有幻想を失う。このクマのぬいぐるみは崩れ去り、器を失った僕の精神は霧散するだろう。かといって、僕が爆弾を受け取れば、このぬいぐるみの身体は粉々に消し飛び、中身の僕は文字通り死ぬ。つまり、僕が死を回避するためには、狐白さんが爆弾を受け取り、右腕一本を犠牲にするしかない。

 もちろん、僕が選ぶのは――ここにはない、第四の選択肢だ。

(……ふふっ、気に入ったわ)

 陽兵の意思を汲み取った狐白は、拳を握り締めて勢いよく床を蹴る。

 イルミナから急ぎ腕を放し、その場に屈み込む花撫。

 どうぞ好きにしてくださいと、イルミナはベッドの傍らに一人棒立ち。

 その腹部へと、狐白が拳を叩き込む寸前で、陽兵はベッドの上へと飛び降りる。

 吹き飛ばされ、後方の壁に激しく背中を打ち付けるイルミナ。

 それに伴い、宙に描かれる赤い線。いや、これは魔霊子で紡がれた幻想の糸。イルミナの胸元から伸びたそれは、頭を抱えた花撫の懐まで続いている。

 もしかして、これがイルミナの固有幻想――花撫に爆弾の使用を強いていた力なのでは?

 やはり花撫は、主人の命令に従順な人形などではなかった。イルミナが花撫と常に密着していたのは、この赤く光る糸の存在を隠す意味もあったのだろう。

 キングサイズのベッドの上へと、うつ伏せに崩れ落ちるイルミナ。その右肘から消え失せ、狐白へと移る爆弾腕輪。狐白は構うことなく宙に飛び、身体を縦に一回転。イルミナの背中に、追撃の尻尾を叩き込む。

 尾撃に巻き込まれたはずの赤い糸は、狐白の尻尾と触れ合うことなく素通り――他との干渉を拒むタイプの固有幻想か。となると、糸を強引に千切るのは不可能。

 陽兵は身動きできないイルミナへと駆け寄り、その左腕へと小さな手を伸ばし、

「――【即席汎用体】イニシャライズ!」

 溶け落ちたイルミナの肘から先を材料に、ドールの素体を生成。

「――【自律的機構】オートマトン! 狐白さんから、爆弾を奪い去れ!」

 すぐさまそれを、狐白のもとへ走らせる。

 5……4……3……

 すれ違いざまに狐白のふくらはぎに触り、代わりに爆弾を受け取る素体。少しでも距離を取るために、そのまま部屋の中央へと走り去り――

 炸裂する時限爆弾。跡形もなく消し飛ぶ素体。吹き荒れる爆風に、部屋の窓ガラスが一斉に砕け散る。

 魔霊子の嵐に晒される、クマのぬいぐるみに宿る陽兵。吹き飛びかけた小さな身体を、その背に伸びた狐白の手が押し留める。

 僕の策は見事にはまり、二人とも無事。

 そう、ここはすでに、僕のスマホの圏内。爆弾を受け取る者など、この手で一から作れば良い。

「……へぇ……案外、やるねぇ……」

 意外そうに、興味深そうに、感嘆の声を漏らすイルミナ。

 僕がどれだけ長い間、花撫の隣で幻魔と戦ってきたと思っている。【炸裂する激情】メール・ボムの処理なんて、すっかり慣れたものだ。

 風が収まり、狐白の手から解放された陽兵は、すぐに次の行動を開始。

 ほっと一息吐いている暇はない。重要なのは次の一手だ。

 身を起こそうと、残された右手をベッドの上につくイルミナ。その隙だらけの左脚へ、陽兵は手足を広げ張り付いて、

「――【創造的破壊】ガベージ・コレクション!」

 液状化するイルミナの太もも。つま先まで、即座に伝搬する浸食。

 ベッドの上に溶け落ちた肉溜まりの中から、陽兵はずりずりと這い出しながら、

「――【可逆的再生】ロールバック!」

 自分自身の本来の姿を、脳裏に強く思い描く。

 液面は激しく沸き立ち、鎌首をもたげた小さな肉蛇達が、互いの身体を幾重にも絡ませる。それらは大まかに人型を形成するなり、なめらかに溶け合い一つに統合。赤黒かった表面は皮膚に包まれ、体毛に覆われ、頭部には目、鼻、口、耳と、感覚を司る部位が再現される。さらに、足下に残っていた肉液が、全身を染めるように這い上がり、学園の制服を模した形状に変質する。

 一見すると、完璧な仕上がり。しかしなにぶん、材料となる肉が足りない。再構成された僕の全身は、本来のサイズのおよそ2分の1。だが、今はそれで十分だ。

 その小さな自分の身体に、陽兵はぬいぐるみの手を押し当て、

「――【憑依型人格】オーバーライド!」

 世界は黒一色で塗りたくられ、色も形も失った。

 自分の精神を他の器に移す際の、どうにも避けられない副作用。一時的にだが、完全に無防備な状態。でも、傍にいる狐白さんが守ってくれるはず。

 これでようやく、反撃の起点ができた。

 イルミナが居座って出て行かないなら、新たな自分の身体を作るだけ。

 ただし、これだけでは不十分。イルミナが宿る肉体を破壊する前に、スマホの認証先を変更しなければならない。

 もちろん、そのための策はある。馬嶋君が何度も見せてくれた――スマホと結びつく肉体は、切り替えることが可能だと。ならば、僕は自分の固有幻想を駆使して、その条件を満たせば良い。

 意識が視覚と結びつき、世界に光が差し込んでくる。

 輪郭が激しくぼやけた、いつもの寝室――何匹もの灰色の蛇が、宙を蠢いている。

「良いタイミングで目を覚ましたね、陽兵」

 脚一本奪い返されたことなど気にも留めていない、実に楽しげなイルミナの声。

 ぎりりぎりりと、金属同士が擦れ合う耳障りな音。

 焦点を結んだ視界の先、部屋の中央で……狐白さんの全身は、鎖で雁字搦めに縛り上げられていた。

 これは、まさか――花撫の【束縛する愛情】チェーン・メール!?

「鎖の方は使わない、なんて……ボクは言ってないよねぇ?」

 ベッドの上に片脚で胡座をかき、意地の悪い笑みを浮かべたイルミナ。右手の指先でくるくると、宙を漂う赤い糸を弄ぶ。

 爆弾鬼というゲーム名に囚われ、完全に失念していた。花撫に固有幻想の使用を強いているなら、爆弾の代わりに鎖を転送することもできる。

「それじゃぁ、ボクと一緒に見物しようか?

 キミにとっての赤の他人が、血達磨にされてゆく姿をさぁ」

 指先をぱちんと鳴らすイルミナ。赤い糸で結ばれた花撫が、狐白の左腕へと爆弾を転送。幅広で肉厚の腕輪が、狐白の二の腕を堅く締め付ける。

 狐白は尻尾の根元まで鎖に束縛され、爆発から身を守ることさえできない。

 20……19……18……

 刻々と減りゆく数字。

 材料はこの身体で構わない。今すぐ人形を作るんだ!

「――【即席汎用体】イニシャライズ!」

 陽兵は自身の左腕を丸ごと溶かし、それを材料にドールの素体を生成。それをすぐさま、狐白に向かって投げ放つ。

「邪魔しないで欲しいなぁ」

 イルミナの声より先に、鎖の一本が即座に反応。狐白に近づかせまいと、人形の全身を絡め取る。

 これでは、新たに人形を作ったところで、同じ事の繰り返しだ。

「――くぅっ……」

 手持ちの策を全て封じられ、陽兵は俯き呻きを漏らす。

「今すぐ、そいつから離れなさい」

 身動きの取れない狐白から、陽兵を宥めるような落ち着いた声。

 はっと顔を上げる陽兵。その視線の先には、イルミナをじっと見据え、口元に僅かに笑みを滲ませた狐白。

 その考えは何一つ読めない。けれど、やるべきことは決まっている。

 陽兵は弾かれるようにベッドから飛び降り、床の上の絨毯を蹴って――

「……【存在解放】レベル・バースト

 溢れ出す白銀の光。狐白の指先から、ではない。腕輪と鎖に拘束された左腕、その肩から手のひらまでが、一瞬にして魔霊子と化す。

 束縛対象を失った腕輪が、狐白の腕を擦り抜け、零れ落ちる。

 足下へ降ってきたそれを、尻尾の先で弾き飛ばす狐白。

 大きく弧を描く腕輪。着地先はベッドの上。

 その傍らには、笑みを浮かべたまま凍り付いたイルミナ。

 バゴオオウッ

 再度荒れ狂う幻想の嵐。吹き飛ばされ、床に激しく突っ伏す陽兵。吹き荒ぶ魔霊子の群れが、背中の皮膚を削り落としてゆく。

 狐白の身体を吊り上げた鎖達もまた、ぎぃぎぃと不快に戦慄く。

 魔弾は全て撃ち尽くしたと、狐白さんは言っていた。腕一本丸ごとの幻想化は、おそらく相応のリスクを伴う切り札。この絶好の反撃機会を、絶対に逃すわけにはいかない。

 数歩離れた場所で、これ程の余波だ。爆心地付近のイルミナが、タダで済むはずがない。

 身体の様々な部位が、痛い痛いと訴えてくる。僕はそれらを単なる信号と見做して聞き流し、歯を食いしばって身を起こす。

 陽兵が視線を向けたベッドの上で、イルミナは血溜まりの中に倒れ伏していた。肉体はかろうじて人の原型を保っているものの、いずれ死に至ることが確実な大怪我。

 その肉体が死に呑まれる前に、事を成し遂げる必要がある。

 一歩ずつ足を踏みしめ、ベッドの上によじ登る陽兵。血の池に浮かぶ肉の塊へと、手のひらを押しつけて、

「……【可逆的再生】ロールバック

 全ての残骸を自分の一部と見做し、体内に取り込み始める。

 2分の1から、あるべき人間大へ。急速に成長し始める身体。精神を宿したままでの大規模な構造変化に、全身の感覚器官が激しく悲鳴を上げる。

 壊れたテレビのように、ノイズが入り乱れる視界。それでも必死に、僕は意識を繋ぎ止める。この機会を逃せば、もう次はない。

 すでに、胸から下は奪い返した。ついでに、自分の左腕も再生済み。この身体を構成する肉の量は、優に全体の半分を超えている。僕の推測が確かなら、すでに条件は満たしたはずだ。

 陽兵はいつも通りに脳裏で念じ、血溜まりの中から自分の手元へとスマホを転送。左手にすっぽりと収まった、慣れ親しんだ硬い感触に、心の内で安堵する。

 やはり、スマホの認証対象は肉の量で決まっていた。僕の精神が宿った溶子や楓華が対象とならなかったのも、肉の量が本体より明らかに少なかったためだろう。

 これで、固有幻想の媒体となるスマホも取り戻した。あとは、残りの肉を奪い尽くしてゲームクリアだ。

 イルミナは沈黙を保ったまま。すでに、その器は身動きを取れる状態ではない。

 しかし、その固有幻想の象徴たる赤い糸は、頭部のこめかみから伸ばされ、花撫の肉体と繋がったまま。

「――なっ!?」

 陽兵の手元から、金属同士が擦れ合う音。白く光る画面から、鎖の群れが溢れ出す。

 スマホを手放す暇はない。鎖は左腕を這い上がり、次々に身体の各部位を縛り上げる。

 僕がスマホを手にするタイミングを、イルミナは待っていたのか。

 鎖の強度は、対象への執着の強さに比例する。例え記憶を失っていても、花撫が日常的に触れ合う対象は僕一人。全身に絡みついたこの鎖は、人力では到底解けない。

 だが、それで構わない。右手はすでに、イルミナの頭部を鷲掴みにしている。跡形もなく消え去るまで、この手を決して離しはしない。

 かつては自分の一部だった頭部が、熱せられた蝋のように溶け落ち、手のひらから吸収されてゆく。ふっと宙に溶けるように、赤い糸が掻き消える。

(ああ、やっと……やっと、終わったのか……)

 どっと溢れ出す疲労感。思い出したかのように、全身の筋肉がずきずきと疼き始める。

 鎖に縛り上げられたまま、陽兵はベッドの上に横たわる。

「本当に、お疲れ様」

 陽兵へと労いの言葉をかけてくる狐白。その全身に絡みついていた鎖は、全て跡形もなく消え失せている。

 花撫の【束縛する愛情】チェーン・メールには、一度に一カ所という転送制限がある。僕が拘束されるのと交代で、狐白さんは解放されたのだろう。

 しかし、幻想と化した狐白さんの左腕は、白銀の光と化したままだ。

「この腕なら、何も心配いらないわ」

 陽兵の視線に気づいた狐白は、全身の力を抜きつつ両目を閉じて、

「……【存在消失】レベル・バニッシュ

 白銀の魔霊子は急速に光を失い、元の人の腕へと姿を変える。弾丸として使用された指三本までもが、元通りに修復されている。

 なるほど、今までもこれと同じ方法で、狐白さんは無くした指を治療していたのか。

「あなたの方は……なんだか、大変そうね」

 鎖塗れな陽兵のもとへ歩み寄りながら、狐白はくすりと笑みを漏らす。

「こればっかりは、花撫に頼むしかないかな」

 花撫の鎖で縛られるのは、これが初めてというわけではない。むしろ、この不自由さが懐かしくもある。

「もう大丈夫だよ、花撫」

 身に迫る危険を察知し、必死に縮こまっていた花撫。その小さく丸まった背中へと、陽兵は努めて穏やかに声をかける。

「……陽兵、さん?」

 僕が僕であると、認識してくれたのだろう。ゆっくりと立ち上がる花撫。こちらに背中を向けたまま、強ばった身体を解すように、大きく伸びをする。

「クリア条件がもし本当なら、ひとまずこれで、一件落――」

 安堵の息を吐き出そうとした陽兵は、途中で言葉を飲み込んだ。

 こちらを振り返り、閉ざされた瞼で僕を見つめて、少し不思議そうに首を傾げた花撫。

 36……35……34……

 その胸元には、冷酷に数字を削り続ける……死のネックレス……

 身につけたら最後。力尽くでは決して、首から外せない。

 イルミナが密かに残していた、非情なる置き土産。

 赤い糸が消え去る前に、すでに仕掛けを終えていたのか。

「――花撫! 僕の鎖を、すぐに解除するんだ!」

 鎖に捕らわれたままでは、花撫を助けるための人形が作れない。

 焦り、声を荒げる陽兵に、びくりと身体を震わせる花撫。陽兵から遠ざかるように、じわりじわりと後ずさりを始める。

 そうか、視覚を失った花撫は、魔霊子を感じ取り判断している。いくら外見を再現しても、以前のイルミナと今の僕の間には、かなりの違いがあるだろう。正体のよくわからない存在を、鎖から解き放つはずがない。

「安心して、花撫……僕は、君の味方だから」

 努めて穏やかに、花撫へと語りかける陽兵。

 けれど、言葉は空しく響くばかり。花撫はふるふると首を横に振る。

 もはや、悠長に説得している時間はない。何か、何か打つ手は――っ、そうだ!

 人形なら、近くに一つ残っている。ここに来るまで、僕が器として使っていた、クマのぬいぐるみが。

 両手足を鎖で封じられたまま、陽兵は必死にベッドの上を探り、

「――っ……」

 探し求めていたそれは、陽兵のすぐ傍らに転がっていた……鎖で縛り上げられた状態で。まるで、陽兵がこの手を思いつくことを、あらかじめ想定していたかのように。

(くそっ……何か……何か、何か別の手は!)

「落ち着きなさい、神崎君。打てる手は、まだ一つあるでしょう?」

 狐白は床を蹴り、一足飛びに花撫に近づく。

 そして、何の躊躇いもなく、震える花撫の肩に手を置いた。

 7……6……5……

 きっと上半身を幻想化して、ネックレスを抜き取るのだろう。

 陽兵の淡い期待を裏切るように、一人部屋の入り口へと歩み出す狐白。

 それは、陽兵達を爆破の余波に巻き込まないための配慮。

 あのネックレスは、対象を確実に仕留めるための、花撫の必殺技。いくら狐白さんの肉体が頑強でも、上半身は確実に消し飛ぶ。

 人間は、人形とは違う。

 ほんの一時でも頭部を失えば、もう生きてはいられない。

「喜びなさい……これは立派な、ハッピーエンドよ」

 怯えを見せない狐白の背中。

 どこか誇らしげに、最期の言葉を残して……狐白の身体は消し飛んだ。

 炸裂した爆風に、為す術なく弾き飛ばされる陽兵の身体。

 壁へと強かに頭部を打ち付けて、陽兵の意識はあっさりと闇に沈んだ。

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