10 ~妖狐と窮鼠の同棲~
新人講習会での絶体絶命の時から、すでに五時間が経過。
朧気な悪夢の沼で藻掻いていた陽兵は、必死に目覚めの淵を掴んでいた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
目を覚ました陽兵は、激しく荒ぶる鼓動を落ち着かせようと、自分の呼吸へと意識を集中する。
ああ、そうだ……確か自分は、狐白さんに殺されかけていた。
ではなぜ、自分は今、生きているのか?
あの後、自分の身に何が起こったのか?
精神的に限界だったせいなのか、記憶があやふやで思い出せない。
身体の感覚にいたっては、今もまだ上手く掴めず、思うように動いてくれない。
……よっぽど、酷い目にあったのだろう。
置かれた状況を把握しようと、陽兵は周囲に視線を巡らせる。
室内灯に照らされた十畳程度の洋間に、簡素な作りの棚とベッドが置かれている。部屋奥の窓はカーテンで覆われ、外の景色はわからない。
おそらくここは、神様ゲーム参加者に無料で提供される、学生寮の一室だ。自分も新人の頃は、同じ間取りの部屋で生活していたため、この光景を良く覚えている。
足下の堅い感触は、壁際に設置された簡易机……足下? 僕の身体は、今机の上にある?
明らかな違和感に、陽兵は這いずるように身体を反転させ、背後の壁に掛けられているはずの鏡へと視線を向けた。
(……ぇ……)
そこに映る自らの姿に、思わず息を飲む。
それは明らかに、人の姿ではなかった。いや、ある意味人間なのだが、その肉体のごく一部――人間の右手だけ。手の甲に付いた二つの黒い瞳が、鏡の中からじっとこちらを見つめている。
(……不気味だ……)
思わず吐き出したはずの声は、音になってくれなかった。というか、この手にはそもそも口が付いていなかった。
……まぁ、目が付いているだけでも、ありがたいと思うべきか。
どうやら聴覚は機能しているようで、玄関に繋がる廊下の横手から、微かにシャワーの音が聞こえてくる。手首の側面に空いた二つの穴が、耳の役割を果たしているようだ。
室内に置かれた私物の少なさからして、部屋の主はゲーム歴がまだ浅いのだろう。ベッドの上に脱ぎ散らかされた衣服は、学園の制服であるブレザーとスカート、白色で飾り気のない肌着や下着。そのどれもが、無料で支給される初期装備だ。着替えアプリを使っていないのも、まだゲームに慣れていない新人の特徴と言える。
では、現在浴室でシャワーを浴びているこの女性は、いったいどこの誰なのか?
いや、そんなものは考えるまでもない。あの修羅場と化した第二体育館から、自室に右手を持って帰ってくる人間など、狐白さん以外に考えられない。
確か、狐白さんは戦いの中で、爆弾腕輪に右手を落とされた。それが今、僕の精神の器になっているのだろう。絶体絶命の状況に追いやられた僕は、狐白さんの隙を突いて右手を人形化し、その中に逃げ込んだのだろうか。
狐白さんはそれに気づかず、治療のために自分の右手を持ち帰った。だとしたら、この状況はまずい。僕の存在に気づかれたら、今度こそ始末されかねない。
(――
あまりに動きづらい器を作り替えようと、陽兵は固有幻想の使用を試みる。
しかし、この右手にはなんの変化も生じない。やはり、媒体となる自分のスマホが近くになければ、固有幻想は発動しないか。
……ならば、這いずってでも逃げ出すしかない。狐白さんが浴室にいる今が、絶好の逃亡チャンスだ。
陽兵は慣れない肉体構造に苦戦しながらも、指先を脚代わりに動かして身体を引きずり、自ら机の下へと転がり落ちる。
手の甲を強かに打ち付け、一瞬視界が暗転するも、痛みは全く感じない。さすが、爆弾に手首を消し飛ばされても、顔色一つ変えなかった狐白さんの手である。多少の衝撃ではびくともしない。
陽兵は廊下の向こうに見える玄関扉を目指し、フローリングの上をずりずりと這いながら、次なる関門の突破方法を検討する。
扉を開くには、ジャンプしてドアノブを掴み、回す必要が――いや、待て。部屋の外は学生寮の廊下だ。時間帯によっては人通りも少なくないし、身を隠す場所もほとんどない。学生の誰かにこの姿を見られれば、それこそ騒ぎになる。
皆が寝静まる夜中までは、この部屋の中で隠れて待つべきか。しかし、机の上の右手がなくなったことに、狐白さんもすぐ気づくだろう。ワンルームの閉ざされた室内で、かくれんぼに勝ち目があるだろうか。仮に隠れるとしたら、玄関横の靴箱の中あたりが盲点かも――
ガチャリ
不意に、左手の扉が開かれる。
いつの間にか、シャワーの音は止んでいて、バスタオルを羽織った――いや、もふもふな尻尾を身体に纏わり付かせただけの、全裸の狐白さんが……廊下へと姿を現して……ばったりと視線が合ってしまう。
「あら」
床を這う自分の手を目の当たりにして、狐白の口からは随分あっさりとした感想。その藍色の瞳は揺らぐことなく、穏やかな光を湛えたまま。
一方、陽兵の身体は、蛇に睨まれた蛙のように硬直。それでも、必死に思考を巡らせる。
動いているところを見られた。死んだふりは無意味。
逃げるしかない――どこへ? 後ろに逃げても行き止まり。
狐白さんの足下をすり抜け、玄関扉のノブに飛びつく。チャンスは一度きり。
死に瀕した状況が、陽兵の硬直を打ち破る。五本の指をばたつかせ、陽兵は全速力で廊下を駆け抜――
「どこへ行こうというのかしら?」
狐白は何ら躊躇うことなく、地を這う右手を素足で踏み付けた。
脚代わりの指を押し潰された陽兵は、もはやどこにも逃げられない。それでも、僅かな光明を見出そうと、足の下で藻掻き続ける。
「あなた、往生際が悪いのね……そういうの、嫌いではないわ」
踵で拘束した四本の指へと、さらに体重をかける狐白。
激しい圧迫感はあるものの、痛みは僅か。僕は努めて冷静に、起死回生の一手を探して視線を動かす。
白く艶やかな肌に覆われた長い脚。その常人離れした脚力の礎を成す、むっちりとした太もも。ゆらゆら揺れる白いもふもふの隙間から、脚の付け根が今にも見えてしまいそ――ぅっ!?
僕はすぐさま目を閉じた。堅く堅く、目を閉じた。
我が身の危機など、頭の中から吹き飛んだ。ついでに、記憶の一部も消し飛んで欲しかった。
不可抗力とはいえ、許されざることだった。というか、殺されかけているのは僕の方なのに、なぜ僕が罪の意識に苛まれなきゃいけないのか。
「別に、あなたが気に病む必要はないわ。見られて困るものでもないし」
陽兵の煩悩を見透かしてなお、狐白の声はいたって平然としていた。
肉体に限らず、精神もまた強者。入学早々、中級幻魔とサシでやり合えるわけである。
僕が恥じらい目を閉ざすことは、狐白さんに対して逆に失礼……なのだろうか? いや、相手は同年代の女性……やはり配慮は必要だろう、男として。
あまりの精神的衝撃に、すっかり逃げ出す気が失せてしまった僕。逃亡の恐れはないと判断されたのか、狐白さんの足裏から解放される。
恐る恐る目を開くと、そこには――白い尻尾で股を隠しながらも、張りのあるたわわな胸を無防備に曝け出している狐白さん。
いや、上もちゃんと隠してください、頼みますから。
「ふふっ……あなたやっぱり、人間なのね」
狐白は楽しそうに笑みを漏らすと、一人慌てふためく陽兵に背中を向けて、部屋の奥のベッドへと向かう。
(――って、今、僕を、人間って!?)
何も言葉を喋れなくて、一切弁明できなかった。
見るからに化け物な姿の僕が、どうして人間だとわかったのだろう?
「あなたが幻魔なら、人間の身体に欲情なんてしないもの」
ベッドの上の下着を手に取りながら、狐白はその根拠を明らかにする。
爆弾によって失われたはずの右手も、銃弾として撃ち放った左手の人差し指も、すでに元通りに復元されていた。
(……欲情しない……)
狐白の言葉に、陽兵は過去の事例を思い返してみる。
言われてみれば、確かに……身体目当てで女性を襲う幻魔なんて、見たことも聞いたこともない――って、つまり僕が、見るからに……嫌らしい目つきをしていたと……
「あなたは実に、人間だったわ」
くすりと笑みを漏らす狐白。白い尻尾も楽しそうに揺れている。
できれば、肯定しないで欲しかった……というか、さっきからまるで、僕の心の声が伝わっているかのように、狐白さんの言葉が返ってきているのだが……気のせいだろうか?
「聞こえてるわよ、ちゃんと」
全く気のせいではなかった。
「あなた、よく考えて動くタイプだから、とても聞き取りやすいわ」
まさか狐白さんが、相手の思考を読み取る固有幻想まで使えるとは。
「そんな便利な魔法は使えないわ。あなたが私の右手を器にしているから、私の体内に宿っているから、同じ肉体を介して心が伝わってくるだけ」
なるほど、僕が人形達と思念伝達するのと、同じ手段を用いているのか。こちらの思考が伝わっているのなら、一から説明する手間が省けて助かる。
「あなたは私を知っているみたいだけど、できれば自己紹介ぐらいはして欲しいわ」
上下共に下着を身につけ終えると、狐白はベッドの上に腰を下ろし、品定めするように陽兵へと視線を向ける。
ああ確かに、僕は自分が何者かなんて、心の中で語っていない。狐白さんにしてみれば、僕は彼女の身体に欲情した人間その一。信頼できるはずもない。
(僕の名前は神崎陽兵――新人講習会を主催していた、生徒会役員の一人だよ)
言葉を喋れない代わりに、自分の心の中で簡潔に自己紹介をする陽兵。
「そんなことは、知っているわ」
陽兵の正体を知った狐白の口からは、何ともそっけない言葉。
(いや、自己紹介して欲しいと言ったのは、君なんだけど……)
「自分以外の器に精神を定着させるなんて、誰もが容易くできることではないわ。
あなたはそれを得意とする人間で、私のことも知っている――あなたが神崎君だと推測するには、それで十分だもの」
狐白の鋭い洞察に、陽兵は内心驚いていた。
物事をあまり深く考えず、力でねじ伏せるタイプだと思っていたのだが……それは第一印象に由来する、失礼な思い込みだったらしい。
「私が知りたいのは、あなたの名前でも、役職でもないわ。
あなたの心を突き動かしているもの――何を愛し、何を憎んでいるのか」
茶化す雰囲気など欠片も見せず、狐白はいたって真顔だった。
まさか、知り合ってまだ数日なのに、そんな深いことを聞かれるとは……
愛などと、大それた言葉を使うつもりはない。僕はただ、花撫と共に過ごしたあの日々を、取り戻したいだけだ。
そして、それを成し遂げるためには、諸悪の根源である幻神ティアをぼこぼこにして、参りましたと言わせなければならない。
「……ふふっ……気に入ったわ、神崎君……」
狐白の口から漏れ出したのは、何者かに向けられた抑えきれない殺意。
自分に向けられたものではないと、わかっていてもなお……全身に悪寒が走る。
僕はもしかしたら、とんでもない人と知り合ってしまったのかもしれない。
「あら、ごめんなさい……殺気を抑えるのって、どうにも苦手だわ。
……それで、あなたはこれから、どうするつもり?」
狐白はすぐさま平静を装うと、陽兵に今後の身の振り方を尋ねてきた。
ああ、そうだ……僕はこれからを、考えなければいけない。けれどそのためには、これまでを把握する必要がある。イルミナの爆弾鬼が、どのようにしてクリアされたのかを。
僕の肉体を破壊するというクリア条件が達成されたのなら、僕はスマホと共に固有幻想を失っているはず。しかし、今こうして狐白さんの右手が人形として機能している以上、僕の固有幻想はまだ生きていることになる。
つまり、狐白さんが選んだのは、第三の選択肢――力尽くでの固有領域の破壊。
「固有領域を無理矢理破るなんて、人間にできる芸当ではないわ」
陽兵の論理的な推測は、狐白にあっさりと否定される。
「私はただ、自分の直感通りに動いただけ。
ゲームマスターの上級幻魔が、あなた個人に執着しているように感じた。あなたが死ねば、何か進展があると考えた。だから、あなたが私の右手に避難し終えた後に、あの人形を壊すことで……私はあなたの死を偽装した。
そうしたら、どこからともなく拍手の音が聞こえてきて、あの建物を覆っていた固有領域も、いつの間にか消えていたわ。
あまりにあっさりとゲームが終わって、拍子抜けしたのは確かね」
狐白が語ったゲームの結末は、陽兵にとって予想外の展開だった。
ボクの器を壊せばクリア――それが意味するところは、楓華を壊すことだったのだろうか? ゲーム開始前の段階では、イルミナは楓華の体内に潜んでいて、ゲームを始める際に僕と器を交換したのだとしたら……そう解釈することも可能かもし――
ピンポーン
陽兵の思考を遮るように、無機質なドアホンの音が室内に響き渡っていた。
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