09 ~死と悦楽の遊戯~
本来、起こるはずのない光景。
創造主である僕の厳命でもなければ、楓華が僕を攻撃するはずがない。
(――何をしているのですか、楓華姉さん!?)
驚き困惑する美愛の思念に、楓華は何も答えない。
妖しく光る紅の双眸が、じっとこちらを見つめている。
(それじゃ、早速始めようか? 楽しい楽しい、ゲームの時間を。
もちろん、訓練なんかじゃない……命懸けの、本番だよ)
脳内に響くイルミナの声が、急速に薄れ始める。
腹部で疼いていたはずの痛みは、いつの間にか消え失せている。
神経毒でも盛られたかのように、全身から感覚が抜け落ちてゆく。
視界はたちまち暗転し、黒一色で塗りつぶされる。
それでも、僕が冷静さの欠片を保てたのは……この異質な体験が、決して初めてではないから。
そう、これは肉体から精神が切り離される感覚。上級幻魔であるイルミナが、何らかの固有幻想を行使したのだろう。
しかし、イルミナはいつの間に、閉ざされた第二体育館に入り込んだのか。いや、そもそも学園内で他の学生達に気取られることなく、どうやってこの建物まで辿り着いたのか。
上級幻魔は中級以下とは異なり、器となる肉体を失っても活動し続ける。その特性を利用すれば、学園内のどこにでも潜入可能なのか。
陽兵が必死に考えを巡らせている間に、世界は再び白く輝き、あるべき光を取り戻してゆく。
視覚が捉えた光景は、元居た体育館内に違いない。聴覚が捉えたざわめきも、状況を理解できず困惑している新人達のもの。
けれど、この瞳が見つめる先にいるのは、妖しげなゴシックドレスを身につけた楓華――ではなかった。制服姿には不釣り合いな、濃いサングラスをかけた少年……この僕自身の姿が、そこにはあった……
収縮され手元に戻ってきた、五本の紫色の爪には、べったりと僕の血が付着している。つまり、今僕が器としているこの肉体は、楓華のものだということ。
混乱する必要はないと、僕は自分に言い聞かせる。自分の肉体を第三者的に見つめることも、人形の肉体に精神を宿すことも、初めての体験ではないのだから。
「みんな、済まない……人形を、幻魔に乗っ取られた……上級幻魔だ……」
僕ではない陽兵の口から、苦しげに吐き出される僕の声。抜き出された僕の精神の代わりに、他の誰かが身体を動かしている。
その指さす先には――楓華の中に宿る、この僕。
「……は……ははっ……ああ、そういうことか!
この期に及んでもまだ、君は新人いじめを続けるつもりなんだね?」
厳也はようやく腑に落ちたと、不敵な笑みを取り戻す。
神崎陽兵を悪と決めつけている彼にしてみれば、無理もない解釈だ。
「いや、これはもう、訓練じゃない……幻魔との、実践だ……
みんな、お願いだ……早く、ここから逃げてくれ……」
悲痛な声を絞り出しながら、床の上へと膝をつく陽兵。
傍らの花撫は心配そうに腰を下ろし、陽兵の身体を支えている。
従者の美愛は腕から飛び降りると、急ぎ傷の具合を確かめる。
「――ふざけるなっ! もう猿芝居はやめにし――」
ギギギムッ
荒ぶる厳也の声に割り込むように、空間が激しく軋む。
この特有な不快音は、間違いない――固有領域の展開。領域内に捕らえた人間に独自のルールを強いる、上級幻魔以上の存在にのみ可能な芸当。
鐘原君が怒りの言葉を途中で飲み込んだのは、事態の深刻さを理解したからだろう。非覚醒者である新人達は、領域の展開に気づいてさえいない。
「みんな、準備運動はできたかな?
そろそろ始めちゃうよ……本物の、神様ゲームをね」
体育館の天井の方から、スピーカー音声のように響いてくるイルミナの声。しかし、皆が見上げる頭上には、幻魔と思しき姿はない。この体育館を丸ごと飲み込んだ固有領域そのものが、音声を発しているのだろう。
「ゲームの名前は
生存者のみんなには、なんと、幻想通貨をどどーんと30GPプレゼント。もちろん、頭割なんてケチな真似はしないよ。
いやー、ボクってほんと、太っ腹だよね!」
早速、ゲームのルールを解説し始めるイルミナ。
これは、固有領域の効果を発動させ、ゲームへの参加を強いるための儀式だ。この領域から逃れるためには、ゲームをクリアしなければならない。
それにしても、クリア条件が自分の肉体の破壊とは、中身の幻想体だけで活動可能な、上級幻魔ならではの条件設定だ。
「ちなみに、もし制限時間を過ぎちゃったら……みんな仲良く、消し飛んでもらうからね?
ま、別に心配しなくても、痛みなんて感じる暇ないから」
十時間も拘束して、どんなゲームを強いる気なのか。相手は上級幻魔……十分以内に全滅してもおかしくないのに。
「キミ達は一致団結して、ゲームのクリアを目指せば良い。
ボクは特別な爆弾を使って、色々と邪魔させてもらうから。
例えば、そう……こんな感じでね」
ぱちんと指を鳴らすような音。
「――っ……なっ、なんだ……これは……」
何かに驚き、声を震わせる厳也。
その右手首には、いつの間に装着されたのか、囚人を思わせるごつい金属製の腕輪。その表面に埋め込まれた青い宝玉部分から、ホログラムのように手のひら大の数字が浮かび上がっている。
15……14……13……
僕はその馬鹿げた光景を、どこか他人事のように眺めていた。
その特徴的な腕輪を、光る数字のカウントダウンを、僕が見間違えるはずがない。
だからこそ、今何が起こっているのかわからない。
どうして、花撫の固有幻想が……発動しているんだ?
まさか、ルールの一部として、固有領域に強いられているのか?
「――っ、爆弾かっ!?」
腕輪の正体に気づいた厳也は、震える細剣の刃先を慎重に腕輪へと向ける。
(まさか、切り落とすつもり――ダメだ! その腕輪を攻撃しては!)
陽兵は必死に声を上げるも、その言葉が楓華の口から発せられることはない。
カウントダウンが迫る中、厳也は左手に持つその細剣を、右手の腕輪へと振り下ろした。
その衝撃が、起爆の切っ掛けになるとも知らずに。
赤刃は厳也の手首を素通りしながら、腕輪だけを真っ二つに切り裂き――
バゴオオオオウッ
鳴り響く爆音。吹き荒れる光の粒子。
カウントゼロを待つことなく、厳也の手元で炸裂した腕輪。
衝撃の余波に、次々と薙ぎ倒される新人達。
床の上を激しく転がる二本の細剣は、たちまち光砂と化して吹き散らされる。
楓華の足下へと転がってきたのは、かろうじて原形を保った厳也の脚。それは急速な魔霊子の漏出に伴い、ずぶずぶと床の下へ沈んでゆく。
物質は幻想と相互作用しないという、この神様ゲームにおける大原則。魔霊子を失った肉体は幻都には留まれず、遙か地の底に沈んでしまう。
肉体の完全な消失に伴い、脚の近くに転がっていた赤色のスマホもまた、粉々に砕けて消えてしまう。
「ごめんごめん。キミ達人間には、ちょっと威力が強すぎたね。
でも、これ以上爆弾を弱くしちゃうと、クリアに支障が出そうなんだよね。
クリアできないルール設定は、ティア様から固く禁じられてるし……まぁ、適当に頑張ってみてよ」
申し訳なさなど欠片も感じていない、あっけらかんとしたイルミナの声。
人を殺すことなど、何とも思っていない。いや、玩具を壊して遊ぶのを、心底楽しんでいる。
あちこちから上がる悲鳴、泣き声、叫び声。
もはや、これが訓練だと疑っている者は一人もいない。
目の前で人が消し飛んだことで、新人達はみな冷静さを失い、場は混迷を極めていた。その場にへたり込む者、入り口の扉を必死に叩く者、袋小路の用具倉庫に逃げ込む者。どれも正解とは言いがたい。
なぜなら、花撫の
ただし、その威力は対象への思い入れの強さに比例する。殺意を抱くことなく使用したなら、せいぜい皮膚を火傷する程度。人間を粉々に消し飛ばすなんて、明確な破壊の意思なくしては不可能なはず。
僕を執拗に責め立てていた鐘原君に対して……今の花撫が、殺意を抱いたというのか?
(――楓華、僕の声が聞こえるなら、返事をしてくれ!)
陽兵は楓華の中で叫びを上げるも、何一つ聞こえてこない。楓華は泰然とその場に佇み、新人達が慌てふためく様を傍観している。
「そろそろ、次の爆弾いっちゃうよ~? みんな、準備は良いかな?」
指を鳴らす効果音に伴い、再び場に爆弾が投下される。
「――ひっ……ぁ……ぁああ……」
爆弾腕輪を装着されたのは、床の上にへたり込んでいた新人の少年。
60……59……58……
少年は何一つ為す術を持たず、身体を震わせ腕輪を見つめるばかり。
「ここで一つ、耳寄り情報。その爆弾腕輪は、触った相手に押しつけることができるんだ。死にたくなければ、試してみてね」
イルミナから新たに伝えられる、爆弾の特性。
そう、この腕輪は触れた相手に自動転送される。スマホを持たない幻魔が相手でも、隣に居る赤の他人が相手でも、そこに生きた肉体さえあれば対象となる。
腰が抜けて立ち上がることもできない少年は、助けを求めて周囲を見回す。
爆弾を移されては堪らないと、他の新人達はさらに距離を取るばかり。
けれどそんな中、ただ一人恐れを知らず、少年へと歩み寄る者がいた。
「それ、貰うわね」
狐白はぽんと優しく、少年の頭に手を乗せる。それに伴い、腕輪は少年の手首から瞬時に消え去り、狐白の右手首へと現れる。
20……19……18……
爆発に誰も巻き込まないためか、人の居ない体育館の中央へと、一人歩み進む狐白。
中級幻魔の攻撃すら、素手で受け止めてみせた彼女。爆弾の威力を目の当たりにしてなお、引き受ける覚悟があるのも頷ける。しかも、今回生み出された爆弾は、僕や花撫とは何の関わりもない、新人に対するもの。狐白さんの肉体を損傷するほどの威力は出ないはず。
狐白はやがて足を止めると、そのふさふさの白い尻尾で右腕を包み込んだ。
右腕一本を犠牲にして、自分の身体を守るための体勢。爆弾を受け取る際には、その対策を考えていたのだろう。
新人達が遠巻きに見守る中、狐白は静かに瞼を閉ざし――
爆弾の炸裂を、甘んじて受け止めた。
威力の大半は尻尾の中に閉じ込められ、爆音だけがかろうじて周囲に響く。
狐白は何事もなかったかのように、顔色一つ変えていない。
けれど、緩んだ尻尾の隙間から、床の上にぼとりと落ちたのは……狐白の右手。尻尾で包んだことで、爆破の衝撃が全て集中してしまったのだろう。爆弾への警戒が、逆効果になってしまった形だ。
それにしても、何かがおかしい。
たとえ、固有領域からルールを強いられ、花撫がゲームのギミックの一部として、爆弾を使わされたのだとしても……殺意なくして、この威力は説明がつかない。
「あなた、上級幻魔のくせに、大したことないのね……警戒して損したわ」
狐白は落ちた右手を拾い上げながら、ため息交じりにイルミナを見下す。
その視線が向かうのは、こちら――楓華の中にいる僕。イルミナは楓華の身体を使っていると、狐白さんは判断しているのだろう。
しかし、それは巧妙に仕組まれた誤解。
一つの肉体に収まる精神は一つだけ。楓華の中に僕の精神がある以上、イルミナがこの中に居ないのは明らかだ。
そして、固有領域がこの場に展開されている以上、その発動主であるイルミナが体育館内にいることもまた確か。
「そういう、生意気な台詞はさ……クリアした後にしてくれるかな?」
狐白のあからさまな挑発に、イルミナは不機嫌さを露わにする。
イルミナの敵視を一身に集めるのが目的なら、それは十分に成功したと言える。もっとも、その代償はかなり高くつくだろうけど。
「楓華は、人間そっくりに見えるだろうけど……僕が作った、ただの人形だ……
後でいくらでも、作り直せる……心置きなく、破壊してくれ……」
陽兵の肉体は声を震わせながら、狐白の誤解を後押しする。
やはり、そうなのか……
イルミナが宿っているのは、僕の身体だ……
(それじゃ、チュートリアルも済んだことだし……クリア目指して頑張ってね、陽兵)
おそらくは僕の精神にだけ、届けられたイルミナの言葉。まるで、イルミナにとってのプレイヤーは、初めから僕一人であったかのように。
まさか、この場に捕らわれた他の人間達はみんな、ギミックの構成要素に過ぎないというのか。
クリア条件が、もし僕の身体の完全破壊だとしたら……悪辣にもほどがある。
多少の部位破壊なら、僕の肉体は維持される。けれど、その大半を失えば、肉体は器としての機能を失い、魔霊子が全て抜け落ちて死体になる。
問題なのは、スマホが紐付いている先が、精神ではなく肉体であること。僕の肉体の死を検出したら、スマホは役目を終えて消失――僕は固有幻想を失ってしまう。創造主の支えを失った楓華の肉体は、形を失い崩れ落ちるだろう。外界との境界たる器をなくした僕の精神は、溶けるように霧散してしまう。
つまり、このゲームをクリアするためには……僕は文字通り、自分を殺さなければならない。ゲームオーバーまで粘ったところで、肉体を消し飛ばされることに変わりはない。
どちらを選んでも、絶望的。十時間という長さは、僕の心が次第に壊れゆく様を、イルミナがじっくり堪能するために、設定されたの――
(……本当に、このまま何もしなくても、構いませんの?)
突如聞こえ始めた、心細そうに震える楓華の思念が、陽兵の思考を中断させる。
どうやら楓華の幻想知能は、イルミナに破壊されたわけではないらしい。
(――どうか、お声を聞かせてください……ご主人様……)
楓華の協力があれば、肉の牢獄の中で死刑を待つ必要もない。
ああ、そうだ。絶望するにはまだ早い。
頼れる仲間が、まだここに残っているのだから。
(安心して良いよ、楓華。僕なら、君の中に居るから)
(――っ、ご、ご主人様っ!? え、い、いつの間に、わたくしの中に!?)
陽兵の思念を受け取り、大きな動揺を見せる楓華。
自分の中に居る僕の存在にすら、楓華は気づいていなかった。幻想による認識阻害を、イルミナから受けていたのだろうか。
(楓華、事情を細かく説明する時間はないけれど、僕を信じて君の力を貸して欲しい)
(も、もちろんですの、ご主人様! わたくしに、何なりとお申し付けを)
打ち合わせをしようにも、あまりに時間が足りない。楓華を幻魔と見做す狐白さんは、右手を自らの胸元に仕舞い込みながら、こちらへ悠然と歩いてくる。いつ攻撃を仕掛けてくるか分からない。
今、何よりも優先すべきは、狐白さんを敵に回さないこと。スマホを持たない楓華にとっては、爆弾腕輪よりも遙かに危険性が高い。だからこそ、逆に味方につけることができたなら、この絶望的な状況を打開する術を、何か見出せるかもしれない。
(楓華、狐白さんへの攻撃は一切禁止。防御重視で、何とか耐えてくれ)
(わかりましたわ、ご主人様)
一気に間を詰めてきた狐白が、楓華の腹部へと拳を突き出す。
後方に飛び退いた楓華に対し、狐白は身体を横に半回転させ、すかさず尻尾で横払い。楓華の身体は、体育館の壁に激しく叩きつけられる。
(まずは、狐白さんに対して停戦の呼びかけを。僕達に戦う意思はないと示して欲しい)
楓華の痛みが伝わらないからこそ、冷徹に指示を下す陽兵。
(わたくしが何か喋ろうとすると、その……ご主人様に、止められてしまいますの。
わたくしも、自分でおかしなことを言っているとは、思うのですが)
楓華は困惑しながらも、素早く身を起こして狐白の追撃に備える。
おそらくは、イルミナの固有幻想による精神干渉か、あるいは、固有領域によるゲーム中の行動制限か。弁明して誤解を解くのは、ルール違反なのだろう。
(他の姉妹と連絡を取ることは?)
(いくら話しかけても、返事がありませんの)
魔霊子を介した思念伝達もまた、喋りと同じく禁止されている。
「別に、中身を直に殺しても……クリア扱いで構わないわよね?」
楓華に対し、左腕を突き出す狐白。その手先は、人差し指を曲げてデコピンの構え。
これは、狐白さんの固有幻想――
(楓華、今すぐ瞳を元の碧眼に戻すんだ)
楓華の瞳が紅でなくなれば、幻魔ではないと証明できる。狐白さんに引き金を引かせないためには、もはやそれしかない。
(……ご主人様……それはダメだと、ご主人様が命令を……)
二人の主人からの相反する命令に、楓華は激しく戸惑っている。
まさか、指先の変化は許されているのに、瞳の変化は禁じられているのか。
楓華の固有幻想に対して、あまりにも限定的な使用制限。イルミナとは今日出会ったばかりなのに、用意周到が過ぎる。僕や楓華の固有幻想を、いつの間に把握したというのか。
「……
狐白の人差し指が魔霊子と化し、穏やかな白銀の光が溢れ出す。
もはや、一刻の猶予もない。
「……ひっ……」
楓華の横手から、かすかな悲鳴。
反射的に視線を向けたその先には、逃げ遅れた一人の新人。
爪先を急ぎ伸ばせば、人質として捕獲可能な距離。
僕の思考に応えるように、楓華は新人へと指先を向けて――
(――ダメだっ!)
陽兵は心の中で声を荒げ、急ぎ楓華を制止する。
そんな下劣な行為は、断じて認められない……自分が助かるためであろうとも。
恐怖に突き動かされるように、突如逃げ出す新人。
その向かう先には、未だに床の上に膝をついたまま、わざとらしく苦痛の表情を浮かべる陽兵。そしてその傍らで、主人の腹部を懸命に治療中の小さなメイド。
陽兵の脳裏に、一瞬の閃き。
(――楓華!)(――はい!)
「――
三者の声が重なり合う。
撃ち放たれた銀弾は、狙い違わず楓華の胸元へと直進。
その瞬間、楓華は身体全体を即座に収縮――本来あるべき、3分の1サイズへと。
白銀の光は楓華の頬をわずかに掠め、背後の壁を音もなく消し飛ばした。
振り返ればそこには、人一人通れるほどの巨大な穴。
そして、穴の向こう側を覆うように広がる、漆黒の壁面――固有領域の境界が、魔弾の直撃を受けて激しく波打っている。
それは、内外の出入りを禁じる隔離障壁。けれど今なら、抜けられるかもしれない。
この固有領域から出さえすれば、ルールの束縛から解放される。ゲームクリアでも、ゲームオーバーでもない、第三の選択肢。
もはや、指示を出す必要はなかった。
楓華はフローリングに着地するなり、狐白に背を向け穴の中へと駆ける。
目の前でたゆたう闇の中へと、楓華はその手を勢いよく突き入れ――
バヂィィッ
激しい拒絶。吹き飛ばされた楓華の身体が、床の上を転がる。
その右手は、闇に飲まれて消失――いや、その小さな手のひらだけは、領域外に脱出できたのだ。
未だ危機的な状況の中、ようやく見出した一筋の光。
「次は、そうだね……爆弾を二つに、増やしてみようかな?」
だが、それをあざ笑うように、新たな爆弾を投入するイルミナ。
その言葉に続くように、壁際に立つ新人達から悲鳴が上がる。
ある少年の右肘に、別の少女の左肘に、一つずつ装着された爆弾腕輪。
60……59……58……
爆弾鬼の名の通りに、新人達の間で爆弾の押し付け合いが始まる。
「ああそうそう、同じ爆弾を受け取れるのは、一人につき一回だけだよ。
つまり、自分から早めに爆弾をもらいに行くのも、一つの戦略というわけだね」
イルミナのギミック解説は、逃げ惑う新人達の耳には届いていない。
狐白は喧噪を背に、体勢を大きく崩した楓華の姿を、黙ってじっと見つめていた。
もし楓華が上級幻魔であったなら、カウントゼロに至る前に楓華を消し飛ばせば良い。銃弾として使える指はまだ残っているのだから。群衆に揉まれながら二つの爆弾を回収するよりも、遙かに現実的な策だ。
けれど、狐白さんは拳を握り締めたまま、それ以上動こうとはしない。楓華への攻撃を躊躇っているのだろうか。
いずれにしろ、このままでは少なくとも二人、巻き添えが発生すればそれ以上の人間が、爆弾で消し飛ぶことになる。
所詮、名前も知らない赤の他人。けれど、救う術があるのなら、決して見殺しにはしないはずだ……花撫なら。
(……やれそうか、楓華?)
(もちろんですの、ご主人様)
まだ足下がふらつく楓華に対して、あまりに残酷な指示を出す陽兵。
(……済まない……)
(いいえ、それでこそ、わたくしのご主人様ですの)
嬉しそうな笑い声を残して、楓華は死地へと駆け出す。
10……9……8……
残された左手を目一杯開き、その二つの指先を新人達へと伸ばす楓華。
それらは二人の爆弾所持者の腹部へと、ほぼ同時に突き刺さる。
二つの腕輪は新人達の肘から消え去り、代わりに楓華の両肘をがっしりと拘束。
楓華は両腕を即座に変形させ、自ら切断。急ぎ後方へと飛び退さり――
同時に炸裂する、二つの爆弾。
荒れ狂う光の乱流が、楓華の身体を容赦なく削り落とす。
身につけていた黒いドレスはぼろ切れとなり、血だるまと化したその小さな身体は、為す術なく床の上を転がる。
全ての力を使い果たし、楓華の思念は完全に途絶えていた。
視覚はすでに失われ、周囲にはただ暗闇が広がっている。
聴覚もノイズまみれで、まともに機能していない。
残された僅かな触覚が、誰かが身体に触れたことを伝えてくる。
(このまま大人しく、私に殺されておきなさい)
陽兵の心へと語りかけてきたのは、どこか優しい狐白の声。
(……ふざ、けるな……)
薄れゆく意識の中で、それでも僕は抵抗する。
このまま、死ぬわけにはいかない。
誓ったのだ……あの小さな六畳間に、必ず花撫を連れて帰ると。
僕はまだ、それを果たしていない。
(そう……ふふ、死に損ないのくせに、良い返事だわ)
狐白は満足そうに笑みを漏らすと、楓華の腹部に手のひらを押し当てて、
(それなら、最期の力を振り絞ってみせなさい。
生き残れるかどうかは、あなた次第なのだから)
敵であるはずの陽兵に対し、とある策を持ちかけてきた。
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