02 ~破滅と快楽の誘い~

 ノックの音に続いて、扉が開かれることはなかった。それは、さっさと部屋の外に出て来いという、言葉なき圧力。誰によるものなのか、考えるまでもない。両親は共働きのため、平日は十九時過ぎの夕食まで帰ってこないのだから。

 陽兵は重い腰を上げて、扉を開き自室を後にする。

「兄さん」

 陽兵と距離を取るように、廊下の向こう側から声をかけてきたのは、花撫と同じセーラー服姿の少女。黒髪のショートヘアに鋭い眼差しが印象的な、うちの妹――神崎かんざき沙絢さあや

 文武両道で容姿端麗。同じ両親から生まれたとは思えない、非の打ち所のなさ。人に媚びないクールな立ち振る舞いから、男子に限らず女子からも人気があるのだと、花撫から聞いたことがある。

「こちらへ」

 簡素な単語だけを残して、沙絢は一人先にダイニングルームの中へ。

 昔から、それほど仲が良かったわけじゃない。けれど、沙絢は中学に入った頃から、僕に対してひどく冷たい態度を取るようになった。唯一の汚点である兄という存在が、疎ましくなったのだろうか。それとも、単なる思春期に過ぎないのか。

 いずれにせよ、その他人扱いはあまり気分の良いものではない。僕は沙絢と顔を合わせないよう、なるべく自室に籠もるようになっていた。

 そんな沙絢が、わざわざ僕を呼び出すような用件。ろくなもんじゃないのは、確かである。

「はぁぁ……」

 陽兵は小さくため息を漏らすと、覚悟を決めて部屋の中へと足を踏み出した。

 そこは、十四畳の広いフローリング。右側のリビングには大型液晶テレビとソファー、左側のダイニングには、家族で食事を取るための大きなダイニングテーブルが置かれている。

 沙絢はテーブルの傍らに一人立ち、入口付近で立ち止まった陽兵をじっと見つめる。

「兄さんに、お願いがあります」

 突きつけられる真剣な眼差し。沙絢の口から発せられたのは、陽兵にとって意外な言葉だった。

 ここ数年、兄として妹に頼られた記憶は皆無。そもそも、僕にできることなど、沙絢は卒なくこなしてしまうだろう。

 そんな優秀な妹が、いったい何を頼む必要があるというのか。

「カナちゃんの前から、消えてください」

 その、あまりに冷ややかな言葉に……視界が歪む……

「別に、死ねと言っているわけではありません。

 ただ、もう二度と、カナちゃんと会わないで欲しいだけです」

 意味が、わからなかった。

 どうして、そんなことを、僕に求める?

「ここ最近、カナちゃんの成績が下がり続けているのです。

 理由は明白――兄さんの部屋に、入り浸っているから……気持ち悪いオタクの世界に、引きずり込まれたから……」

 勉強への集中を削ぐ一面は、否定しない。

 けれど、思い悩んでいる花撫には、むしろ気晴らしが必要だ。

「……あんたが、堕落させた……あたしの大切な親友を、あんたが……」

 冷静さの仮面が剥がれ落ち、沙絢の顔面が激しい怒りに染まる。

「――底辺に落ちたいなら、一人で落ちなさいよ! あたしの花撫を、巻き込まないでよっ!」

 ああ、そうか……

 僕はとっくの昔に、兄ではなくなっていたのか……

 悪魔として……憎まれ続けていたのか……

 それは怒りではなく、悲しみでもなく……心の中にぽっかりと、穴が空いてしまったような虚しさ。

「……カナちゃんが家に来る日は、前もって伝えておきます。

 ですから、その日は夕食の時間まで、絶対家に帰ってこないでください」

 沙絢は溢れ出した怒りをなんとか押し殺し、陽兵へと一方的に要求を伝える。

「もし、この約束を破るようでしたら、私は兄さんを破滅させます……どんな手段を使ってでも。

 お父さんもお母さんも、私の言うことなら信じてくれますから」

 こんなにも、理不尽に……

 ささやかな幸せは、奪われてしまうのか……

「……ぅっ……ぅぅぅ……」

 陽兵の口から、言葉にならない呻きが漏れる。

 沙絢に返す言葉など、何一つ思いつかなかった。

 ぎりりぎりりと、脳が激しく軋んでいる。

 呼吸が乱れて、ひどく息苦しい。

「……はぁ……はぁぁ……」

 部屋の壁に寄りかかり、なんとか身体を支える陽兵。

「……キモっ……」

 見つめる沙絢は嫌悪露わに、侮蔑の言葉を吐き捨てた。

 ギギギムッ

 突如、脳内に響き渡る、耳障りな異音。

 激しい頭の痛みが、嘘みたいに消え失せる。

(いったい何を、我慢する必要があるのじゃ?)

 誰かの声が、耳を介さず聞こえてくる。

(おぬしに不要な人間愛は、わらわが削り落としてやった。

 おぬしの前に転がっておるのは、もはや肉の塊に過ぎぬ)

 古めかしい口調で語りかけてくる少女。幼くも妖艶なその響き。

(気に入らぬなら、その手で作り替えれば良いのじゃ。

 さぁ、その心の赴くままに、あるべき世界を夢想せよ)

 得体の知れない少女の言葉。

 けれど、僕の心は力強く頷いていた。

 それこそが、僕が求めていた答えなのだと。

 強く握りしめた左手の中には、覚えのない堅い感触。目を向けるとそこには、白色のスマホらしき機械。

 僕の持ち物ではない。けれど、その無機質な手触りが、やけに手に馴染むのを感じる。

【覚醒代償――人間愛】

 黒い画面にくっきりと浮かび上がる、鮮やかな赤色の文字。

 その言葉の意味が、今の僕には理解できる。

「確かに、約束しましたから」

 もう用は済んだと、部屋から出て行こうとする沙絢。

 僕を見下す、その不快な黒褐色の双眸……

 一刻も早く、削り落としてやりたい……

「……ぃぃや……そんな約束は、必要ない」

 出口となる扉を塞ぐように、陽兵は沙絢の前に立ちはだかる。

「……退いてください、兄さん」

 沙絢は陽兵の前で足を止め、圧を込めて睨みつける。

 陽兵は構うことなく、沙絢の顔面へと右腕を伸ばし――

「――触らないでよっ!」

 すぐさま声を荒げ、払い除けようとする沙絢。

 その手首を、陽兵は代わりに握り締めて、

「……【創造的破壊】ガベージ・コレクション

 陽兵は思い浮かぶままに、力ある言葉を口にした。

 どろりと、熱せられた蝋燭のように、沙絢の右手は形を失い、溶け落ちる。

「――っ!?」

 恐怖に顔を引きつらせ、声にならない悲鳴を上げる沙絢。両脚からはストンと力が抜け、フローリングの上へと腰が落ちる。

「素材としては、なかなか良質だね……

 さて、どんな子を作ろうか……」

 もはや僕の心は、それを妹とは認識していなかった。

 取るに足りない、粘土の塊。

 僕の思うがままに、姿形を変えてくれるはず。

「……ひっ……人殺し……」

 沙絢は目前の非現実を受け止めきれず、ただ必死に後ずさりするばかり。

 陽兵はひたり、ひたりと歩を進め、沙絢を部屋の壁へと追い詰めて、

「オマエが、先に……僕を殺したんだよ」

 涙に塗れたソレの顔面を、右手で鷲掴みに――

 バゴオウッ!

 突如、室外で鳴り響く爆破音。

 陽兵は反射的に、その発生源たる自室の方へと視線を向けて、

「――花撫っ!?」

 脳内を埋め尽くしていた殺意が、一瞬で消し飛ぶ。

 僕の部屋には、花撫がいたはずだ。

 花撫の身に、何かが起こったのだ。

 陽兵はもはや沙絢には目もくれず、急ぎダイニングルームを後に。

 廊下を走り、自室の扉を開け放ち――

 目の中に飛び込んできた室内の光景は、変わらず整然としていた。

 聞こえてきた爆発音は、僕の幻聴であったかのように。

 けれどベッドの上には、仰向けで横たわる花撫……

 その胸元を鮮やかに染める、鮮血の紅……

「――花撫っ!!」

 駆け寄る陽兵に、花撫は何も応えない。

 陽兵はベッドの前に立ち、花撫の全身をざっと眺め――その身に起きた異変に気づく。

 右腕の肘から先が……失われている……

 胸元にできた血だまりの上には、スマホらしき白い機器。

 そして、その暗い画面に表示された、不吉な赤文字。

【覚醒代償――恋心】

 今、僕の手の中にあるのと、全く同じ色・形のスマホ。花撫の身にも、僕と同じ異変が起きたというのか。

「自分の固有こゆう幻想げんそうが暴発しただけ。目覚めたばかりの人間には、よくあることじゃ」

 頭上から聞こえてきた少女の声は、陽兵にとって聞き覚えのあるものだった。

 振り返り見上げた先には、天井から逆さまに生えた、少女の上半身。年齢は十歳ぐらいだろうか。その白い肌は文字通りに透けていて、まるで幽霊のように半透明。薄紫のロングヘアは、黒のゴシックドレスの胸元を鮮やかに彩り、妖しい紅の光を宿した瞳は、興味深そうに陽兵を見つめている。

「……サキュバス……なのか……?」

 あまりに非現実な存在を前に、陽兵は困惑を露わにする。

「わらわを勝手に、淫乱女扱いするでない」

 天井を擦り抜け、上下逆さのまま全身を現す少女。ふんだんにレースをあしらったロングスカートは、普通ならめくれて中身が見えてしまうところ。けれど、何か異質な物質で構成されているのか、それは重力の影響を受けることなく、太ももまで覆い隠している。

 少女は黒の厚底ブーツを履いた両足を天井に下ろすと、その小さな胸の前で偉ぶるように両腕を組んで、

「我が名はイスラフェルティア。破滅と快楽を司る、幻想の神じゃ。気安くティアと呼ぶがよいぞ」

 自らを神であると宣言した。

 確かに、現実世界の法則に容易く抗えるのは、神様ぐらいのものだろう。

 しかし、その神様がどうして、いきなり僕たちの前に姿を現したのか。

「それよりおぬし、わらわに構っておる場合ではなかろう?」

 鮮やかな赤色のマニキュアが塗られた、ティアの爪。その指し示す先には、血塗れで倒れ伏している花撫。

 そんなこと、諸悪の根源に言われたくもない。

「警戒せずとも、邪魔はせぬ。

 おぬしが望む世界とやらを、わらわに見せてみよ」

 ティアは上から目線で見物の構え。

 言いたいことは色々あるが、今は神に喧嘩を売っている場合ではない。

「……花撫……」

 陽兵はティアから引き剥がした意識を、ベッドの上の花撫へと向ける。

 このままでは、出血多量で死んでしまう。

 救急車を呼ぶべき事態なのは、一目瞭然。

 だが、それより先に、試すべきことがある。

 陽兵はベッドの傍らで腰を落とし、深く傷ついた花撫の右腕を握り締める。

 なぜかは、わからない。

 けれど、僕は無意識に理解している。

 それは、できて当たり前だと。

 陽兵は目を閉じると、かつての元気な花撫の姿を、脳裏に強く思い描いて、

「……【可逆的再生】ロールバック

 スマホを握る左手へと、力を込めた。

 右の手のひらに感じていた肉の弾力が、突然ぐにゃりと失われる。目を開くとそこには、意思を持った飴細工のように、肘の傷跡から新たに生え出す肉の枝。撒き散らされた血を糧として取り込みながら、それは瞬く間に腕の形へと成長してゆく。

 再生された花撫の右腕が、あるべき肉付きを取り戻すまでに、かかった時間はほんの十数秒。

「実に、見事じゃ……おぬし、幻想の扱いに長けておるのぅ。

 現実からひどく乖離した、報われぬ日々を過ごしておったと見える」

 はたして僕を褒めたいのか、貶したいのか。

 ティアは身体の上下をくるりと反転させると、陽兵と目線の高さを合わせるように、ふよふよと床の上に降りてくる。

「おぬしならば、きっと楽しめるであろう……わらわ主催の、神様ゲームを」

 ティアはにやりと笑みを浮かべると、肩の上でぱちんと指を鳴らした。

「――なっ……」

 目前の光景に、恐怖する陽兵。

 気を失ったままの花撫の身体が、足の先から浸食されるように、光の粒に変わり始める。

 そして、それらは花撫の傍らに転がるスマホの画面へと、次々に吸い込まれてゆく。

「――やめろっ!」

 陽兵は急ぎティアに手を伸ばし、そのひどく冷たい手首を握り締め、

「――【創造的破壊】ガベージ・コレクション!」

 溶けて形を失ったティアの腕を、脳裏にありありとイメージする。

 しかしティアの腕は、その幻想的な透明度を維持したまま。何の変化も起こらない。

「残念じゃが、おぬしの固有幻想は生体特化。魔霊子まれいしで構成された我が幻想体には、傷一つ付けられぬ」

 逆に、ティアに触れた陽兵の右手の指先が、光の粒子に変わり始める。

 陽兵は急ぎティアから手を放すと、代わりにベッドの上の白いスマホを拾い上げる。

 花撫が変化した光の粒子は、すでに全てがスマホの中。これだけは、絶対に奪われるわけにはいかない。ベッドに残された制服が、花撫は確かにそこにいたと訴えている。

「安心せよ、今すぐ殺しはせぬ。我がゲームの舞台――幻都イスラフィールに送るだけ。

 魔法もあれば、化け物もおるが、外観はこの町と大して変わらぬ。そなたにとっては、ここよりずっと楽しい世界じゃろう」

 ティアの指先に灯る仄かな光。そこから放たれた小さな光弾が、陽兵の右肩を容易く撃ち抜く。

 感じたのは苦痛ではなく、激しい脱力感。肩から先が光の粒子へと分解され、花撫を収めたスマホは床の上に零れ落ちる。

「どうしてお前のゲームに、僕達が参加しなきゃいけない!」

 問い質したところで、この横暴な神が考えを改めるはずもない。それでも僕は、溢れる憤りを吐き出さずにはいられなかった。

「わらわは幻想より生まれし神じゃ。

 神とは、人の願いを叶えるものであろう?」

 ティアはよくぞ聞いてくれたと、嬉しそうに目を細める。

「自分の存在を受け入れぬこの世界を、誰か跡形もなく壊して欲しいと……願ったことはないか?

 生きる意味を感じられぬこの現実を、誰か楽しく作り替えて欲しいと……願ったことはないか?

 その真摯なる人の願い……このわらわが、叶えてやろうぞ!」

 陽兵の存在を丸ごと受け入れるように、ティアは大きく両腕を開いてみせる。

 ……確かに……願ったことがある。

 そして、そんな願いが叶うはずもないと、無味乾燥な現実を消化しながら、ささやかな幻想の中に逃げていた。

 そんな僕を、神様はちゃんと見ていたとでも言うのか。

「――というのは、ただの建前。説明書の前書きに過ぎぬ。

 力を手にしたら、使わずにはいられぬもの。か弱き命を踏みにじるのは、どうにも美味で仕方がない。

 おぬしも人間ならば、わらわの気持ちが理解できるじゃろう?」

 うっすらと透けたティアの口の端から、だらりと光の滴が零れ落ちる。

 ああ、そうか……こいつはただの、欲深い化け物だ……

「気に入らぬなら、わらわを殺して証明せよ――神など要らぬと!」

 ぞくりと、ティアの手刀が陽兵の胸部を貫く。

 肺は唐突に息の吸い方を忘れ、心臓は怠惰に鼓動を止めていた。

 身体の端からぼろぼろと、光の砂が零れ落ちる。

(……必ず……君を……)

 陽兵は激しい睡魔に呑まれながら、ただ花撫のことを思い続けていた。


 取るに足りない過去になるはずだった、この日――陽兵の現実は、脆くも崩れ去った。

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