『御遣いは少年を救いたるか?』について

 私は信心深い方ではないのですが、一応実家が仏教で、その文化圏で生きてきたので、人に聞かれれば仏教を信じていると答えます。

 でも正直、実家が浄土宗だか浄土真宗だか、その辺りもよく分かっていない程度の信仰心なんですね。

 しかも実家が仏教なのですが、出身大学がキリスト教系の大学なのです。

 国立大学を第一志望にしていたのですが、そこに落ちて『もう一年受験勉強するのは絶対に嫌……!』と思った結果、併願していて唯一受かった私立大学に手続きしました。

 ネームバリューと偏差値的にとりあえず併願していた大学だったため、なんと入学手続きが済んで届いたパンフレット見て、そこで初めてキリスト教系だったと気づくという有様でした。

 併願の大学を選ぶタイミングで調べておけよという話なんですが、親子そろってその辺りに無頓着だったわけです。


 それまでキリスト教系のイベントと言えば、クリスマスにサンタさんからプレゼントを貰ったり、クリスマスイブにケーキを食べたりするくらいの環境で育ってきたので、キリスト教系の大学に入ってとても驚きました。

 まず、入学式でパイプオルガン演奏と聖歌隊の歌と共に偉い人達が牧師さんみたいな恰好で入ってきた時点で「!?」となり、学長や学科長などの偉い人の話のコーナーで『チャプレン長』なる大学の教会のトップの人の話があって、初めて聞く役職名に「炒め物みたいで美味しそうな名前だなあ」と思ったり、入学式の式次第に聖歌が載っていると思っていたら式の最後にそれを皆で歌うことになって微塵も分からず口パクしたり、もう色々と衝撃的でした。

 親子して異文化に触れて、入学式帰りに「凄かったね……」「本当にキリスト教だったね……」というような会話をしました。

 そもそも、キリスト教が異文化だという印象を抱いている原因として、昔、法事か何かで聞いた下記のお坊さんの話が私の中で強く印象に残っているんです。

「葬儀に参りますと、小さいお子さんが『死』というものについてよく分からず、親御さんに質問をしている場面を見ることがあります。その時に『おじいちゃんは天国に行ったんだよ』というような説明されているところに遭遇することもありまして。一応、『天国』というのはキリスト教の概念なんですね。仏教では『お浄土』と申します。なので、『お浄土に行ったんだよ』とご説明して頂けるとありがたいなと思います」と、お坊さんが苦笑しながら話されていました。

 たぶん小学校の頃だったと思うのですが、なるほど宗教によって死後に行くところの呼び方が違うんだな、私は死んだらお浄土に行くんだな、と素直にお坊さんの話を受け取った覚えがあるのです。法事でも真面目にお坊さんの話を聞くタイプの子どもでした。


 そういうわけで、漠然と仏教徒という自認だったので、キリスト教系の大学に入って大丈夫かと心配していたのですが、結果から言うと特に問題ありませんでした。

 大学の中に小さい教会があって、年度初めの各種オリエンテーションの中に、教会オリエンテーションのようなものがありました。

 そこで一応聖書をもらったり、教会の仕組みについてお話があったりしたのですが、

「別に皆さんを無理にキリスト教信者にするものではありませんので、ご安心ください」

 という前置きがあって、ああ、仏教徒でも問題ないのね、と安心して参加して帰った覚えがあります。

 事実、大学院まで同じ大学に居たので6年間通ったのですが、教会の中に入ったのはその1度きりでした。


 そして、大学に入って思ったのは、自分が思っているよりキリスト教を信じている人が身近に結構いるということでした。

 キリスト教系の大学なので当り前かとは思うのですが、ふとした瞬間――例えばサークルの飲み会で先輩から洗礼の話が出てきたり、同じ学科の仲のいい友達とランチの時に高校もミッション系で毎朝礼拝をしていたことを聞いたり、そういう話に触れるにつけ、自分の見識の狭さを実感しました。

 高校までずっと公立校で過ごしてきて、友人と宗教の話をすることもなく生きてきて、なんとなくキリスト教は外国の話と思っていたので、異文化だと思っていた宗教を信じる人が身近に居るというのは、私にとって大きな衝撃だったのです。

 とはいえ、それに感化されてキリスト教を信じたかというと上記の通り6年間教会に入りもしなかった人間なので、全くそういうことはなくて、やはりキリスト教は異文化という感覚が強く、自分の根っこの部分は仏教なのだなあと改めて感じたわけです。



 さて、そんな漠然とした宗教観で生きてきた人間が草食信仰森小説大賞に投稿するにあたり、『信仰』というテーマで書いたのが『御遣いは少年を救いたるか?』という小説です。

 高校時代に世界史を選択していたらもう少しキリスト教に詳しかったかもしれないのですが、あいにくの日本史選択の上、大学時代にキリスト教系の授業も教会美術(しかもビザンティン美術)の授業しか取ったことがなかったため、キリスト教で書くのは早々に諦めました。

 とはいえ、それ以前の川系の作品を読んでいて、なんか中世ヨーロッパっぽい設定の話を書きたい! と思っていたため、架空の宗教をでっち上げました。

 ビザンティン美術の授業(ギリシャ・トルコ辺りのキリスト教の教会建築や教会壁画の授業でした)を取った時に、キリスト教にも色々な宗派があるという話は聞いていて、宗派間の争いの歴史なども少し取り上げられていたので、なるほど同じ宗教でも争いがあって大変なのね……と思った覚えがあったので、それをテーマにして書きました。

『御遣いは少年を救いたるか?』のあらすじは、森に囲まれた小さな村に住む少年クラウスと、都会からやってきた薬師の娘のエルナの穏やかな日常が禁教弾圧のせいで壊れてしまい、少年が改宗して時間を掛けてその禁教を分派として国教側に認めさせるという話です。

 書いてみて「これ1万字で収まらなくない……!?」と思ってラストをものすごく駆け足に終わらせてしまったのですが、ラストを犠牲にしても主人公クラウスの生い立ちを丁寧に書きたかったのです。

 作品の中で出てくる国教はエルピスという女神を祀る宗教で、弾圧されている御遣い信仰は、その女神の遣わす『御遣い』のように万能の知識を身に着けて、神に頼る前に隣人同士でまず助け合うことを教義としています。

 その教義の性質上、貧困層に受け入れられている御遣い信仰に対して、国教を崇める貴族は貧困層に知恵や力を持たせたくないため、禁教として御遣い信仰を弾圧します。

 しかし、表向きはその目的を大っぴらにするわけにいかないため、御遣い信仰のことを『女神よりその遣いを偉大とする不敬な宗教』と称して弾圧するわけです。

 自分の信じていた宗教が、本来の目的を隠して虚偽によって弾圧を繰り返し、そのせいで淡い恋心を抱いていた大事な親友と、家族の恩人である親友の母親を処刑されたら、たぶん大概の人は闇堕ちして復讐に走ると思うのですよ。

 処刑に関わった者の殺害とか、貧困層を扇動して革命を起こしたりとか。

 でも、教義によって禁じられている「人を傷つけることにその知識を使ってはいけない」ということを固く守って復讐に走らないためには相当に真っ直ぐな心根でないといけないと思い、その人間性を持つ背景を丁寧に書かないといけないなと思いました。

 結果、主人公のクラウスは家族の愛情をいっぱいに受けてまっすぐ育ち、弟妹の面倒もよく見る世話焼き気質なうえに、よそから来たエルナやその母親も素直に尊敬し、色々と器用にこなせる頭の良さと要領の良さを持つ心の優しい少年として描きました。

 たぶんこのくらいの背景があって本人の善性も強くないと、禁教とされている宗派を国教に分派として認めさせるという発想が出ないと思うんですよね。

 人間の醜悪な部分に触れて、それでも人間の根底に善性があることを信じることが出来る環境で育つことが大事だと思って、「第一話の丁寧な描写に村が燃えるのを覚悟しました」(https://twitter.com/Veilchenfeld/status/1315165135325986816?s=20)という感想を頂くくらい丁寧に丁寧に日常を描きました。

 

 そのため字数が前半でかなり持って行かれ、ラストは唐突感があると自分でも思いましたし、ツイッターの感想でもラストに対してその点を指摘している意見もあったので、意見が分かれるかなあと思ったのですが、講評で3名とも良い評価をしてくださって驚きました。

 あ、ありがてぇ……! なんて優しい……! と思いましたが、本当はたぶん2万字くらいで書かないといけないプロットだったなと反省しています。

 クラウスの家のあったかい日常とか、エルナ母子の処刑場面の絶望感とか、安易に復讐に走らず根気よく説いて分派と認めさせるまでの課程とか、もっと字数をかけて書くべきでしたね。

 今後もっと精進いたします。

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