第3話 約束の野
坂道を登り、高台の上の平らな草地に出ると、そこは色とりどりのお花畑が広がっていて、そこへ厚手の赤い毛氈を敷き、誰かがピクニックをしている。
その毛氈の上には少年と少女、その後には召使いがいた。
少女はアフラと同じくらいの年格好で、ノースリーブの卵色の長いキャミソール一枚着なのはとても山にはそぐわない薄着だ。
少年も少し大きいが同じ年頃で、豪奢な礼服を着込んでいる。
二人は子羊に草を食べさせてはしゃいでいた。
「あっ羊!」
アフラは羊の姿を見て駆け出して、少女がアフラに気が付いた。
「あら。誰か来たわ」
アフラはすぐ前まで来て身じろぎをして、両手でスカートの両端を持ち上げながら礼を取った。
「こんにちは。その羊見せて」
「かわいい! 近くの子かしら?」
キャミソール姿の少女が手招きをする。
「ここはとてもいい眺めよ。こっちへいらっしゃい」
アフラが近付くと、少年が立ちはだかった。
その背丈はアフラと同じくらいだろうか。風に棚引く絹のスカーフには高そうな宝石のブローチが付いていて、少年の面差しはドキッとするほど端正で高貴さが漂っている。
アフラは足を止めざるを得なかった。
「待った。それ以上来ちゃ駄目だ」
「止めないでよ!」
「ユッテ。気まぐれは駄目だよ。この辺りには風土病もあるんだ」
「もう! 私に干渉しないで!」
この二人が何故か喧嘩になりそうだったので、アフラは咄嗟に持っていた花束を差し出しつつ近くへ進み出た。
「あたしはビュルグレンの村娘です。この花をどうぞ」
「まあ綺麗!」
差し出されたその花へ少女が近付いて来た。
「ユッテ!」
少年は後ろを向いて手を広げた。
ユッテと呼ばれた少女はツンとそっぽ向いてから、クスッと笑ってその手の下をくぐり、アフラから花束を受け取った。そして赤い毛氈の上を一回りしながらその香りを嗅いだ。
「いい香り。ありがとう」
尚も通せんぼしている少年に、歩いて来た修道女が諭すように言った。
「何をしてるのベンケル。仲良くしてね」
少年は誤魔化すように手を頭の後に組んだ。
修道女と一緒にイサベラもやって来た。後ろからは貴婦人とアグネスが続いている。
花束を抱えたユッテが言った。
「イサベラが戻って来たのね。じゃあアネシュカの勝ち?」
イサベラは苦笑いで頷いた。
「そうね。元から私は負けだったもの」
「まだ仕切り直しても良かったのよ? あーあ。イサベラがお姉さんの方が良かったのに」
イサベラはそれには苦笑いで応えてから言った。
「村の娘さんが子羊を探してるそうなの。その羊を見せてあげて」
小さなアグネスは毛氈の上を駆けて行き、もう羊の毛を撫でている。ベンケルにはもう止める様子はない。
アフラはその後ろから続いて近付こうとするが、今度は召使いがその道を塞いだ。これにはアフラは少しベソをかいた。
貴婦人が尚も立ち塞がる召使いに言った。
「お客様に失礼ですよレオナルド。この子に謝って」
「これは……大変、失礼致しました」
召使いのレオナルドは眉を険しくし、跪いて畏まったので、アフラは慌てて言った。
「いいえ。いいんです。風土病があるのは本当だから、それより……」
アフラは気後れしながら言った。
「その子は村の羊なの。連れて行っちゃいけないのよ」
ユッテは羊の背を一撫でして言った。
「この子羊? あなたの羊?」
「ううん。そうじゃないの」
「じゃあ本当かどうかわからないでしょう? ダメよもう。私の子にするんだもん」
「え……」
アフラがあまりの言葉に目を回していると、イサベラがユッテに言った。
「ダメよ。お返ししないと」
「嫌!」
「盗んだ事になるんだから!」
「だって羊なんて見分けが付かないでしょう?」
あまりの強情に皆一様に押し黙った。
「強情な娘はお断りだな」
ベンケルがそう言うと、さらに空気が凍った。
ユッテは一同を見回して肩をすくめた。
後ではシスターが「コホン」と咳をした。
思い付いたようにアフラが言った。
「名前はミルヒって言うの。村のみんなの羊なのよ」
「名前がわかるの? 呼んでみて」
「ミルヒ……」
アフラが呼ぶと子羊は首を傾げた。
「来ないじゃない。嘘ね」
「ミルヒ……」
もう一度呼ぶと子羊は小さく鳴いて、アフラの方へ歩いて来た。アフラは思い切りミルヒの体を撫でてやった。そのお尻には毛を抜いた跡があった。
「おりこうさんね。よしよし。ここ引っこ抜いちゃってゴメンね」
ミルヒはアフラにじゃれ付くように纏わり付いている。
ユッテはそれを見て取って言った。
「まあ。本当。ミルヒって言うのね。私ったら悪いことしちゃったわ」
イサベラが申し訳なさそうに言った。
「やっぱり貴女の羊ね。連れて行ってしまって本当にご免なさい」
「いいえ。見つかったからいいの」
「私達を許してくださる?」
「もちろん」
イサベラは肩の荷が下りたように息をして微笑んだ。
「ありがとう」
イサベラはクヌフウタの方を見て、目配せで頷き合っている。
ユッテが残念そうに言った。
「でも、もう連れて行っちゃうの? この子とはもう仲良くなったのよ。もっと可愛がりたいわ」
ユッテがアフラの方へ歩み寄って言った。
「またここへ来れば会えるかしら?」
「普段ここにはいないわ。今の時期は昼間は放牧で山のあちこちへ行って、夕方には帰って来て村の共同牧場にいるのよ。雨の日なら牧場にいることが多いのだけど」
イサベラが言った。
「じゃあ今度牧場の方に伺いましょう?
「いいわね。でも私逹行ってもいいかしら?」
「もちろん。見学は歓迎です」
「やったあ!」
ユッテはイサベラと手を叩き合って大喜びだった。
ユッテは次にアフラの手を取って言った。
「うれしい! ありがとう!」
ユッテがアフラの衣装を間近に見て言った。
「それにしても、この衣装! あなたはまるで絵本から出て来たみたいね」
「そうね。この刺繍、とても綺麗だわ」とイサベラも刺繍に触っている。
村の民族衣装姿を少女達は気に入ったようだった。
「それ程でも……」
恥ずかしくなって言うアフラに、イサベラは力を込めて言った。
「ここから見える村は景色も素晴らしいし、家々も美しいものばかり。あなたもそれに相応しく美しいと思うわ」
「そんな。あなた逹こそおとぎ話でお城に住んでるお姫様のように綺麗だわ」
イサベラは少し気恥ずかしそうに言った。
「お褒め頂いたのは嬉しいけど……それはちょっと違うの」
イサベラは言葉を選んで言った。
「お城の暮らしも外から見る程いいものじゃないのよ。……留学生の身だから、与えられるのは小さな一室だし」
「留学生さん?」
「面目はそうだけど、殆ど人質のようなものなの」
「人質?」
「言わないでイサベラ。私達そんな風に扱った事ないわよ」
ユッテは悲しそうに抗議した。アフラは意味が判らず困惑顔をしている。イサベラは話題を変えた。
「あ、でもね、故郷の古城はお気に入りなの。お城って言うより、山の中の古い小さな城館なの」
「やっぱりお城のお姫様なのね! 素敵!」
「今はユッテと同じお城にいるの。でも城の中は気詰まりな事ばかりで、皆長生きしないのよ。私はこうして野山へ出て小鳥のさえずりを聞きながら、そして羊の声を聞きながら、山の中で過ごす方が好き」
貴婦人も笑って頷いた。
「私もそうね。私の産まれたチロルも野山の美しい国なのよ」
貴婦人はそう言って山に見とれている。
アフラは言った。
「私、この村が好きなんです。山の風景も羊達もみんな大好き。少し贔屓目かもしれませんが……」
「それは一番良い事ね」
貴婦人はその言葉に微笑んで頷いた。ユッテも山を仰ぎ見て言った。
「私も好きよ。あなた達がうらやましいわ。だってこんな綺麗な景色の中で毎日が過ごせるんですもの」
「まあ。ユッテも?」
「お父様に頼んで今度のお城はここにして貰おうかしら」
イサベラは溜息を吐いて言った。
「まあ呆れた。お城のお姫様と言えば、ユッテの方ね」
ユッテは笑って頷いた。
「新しく大きなお城が出来たもの」
ユッテは手を大きく広げて言う。ユッテは町娘でも着るような軽装な服を着ているので一見信じられない。
「ウソ!」とアフラは言ってから口に手を当てた。
「嘘じゃないわ。ホントよ」
「だってこんな薄着、私達だってそうは着ないわ」
ユッテの薄着はアフラの寝間着にしているシミーズにもよく似ていたが、フリルや生地は高級感が漂う。
「上着は汚れるからさっき向こうで脱いじゃったの」
見ると馬車にいる御者の隣には黒い服が乗っている。よく見れば貴婦人もアグネスも黒い服だ。
「みんな黒いお洋服?」
貴婦人が言いにくそうに言った。
「この後……お墓参りに行くのよ」
「どなたかお亡くなりに?」
貴婦人が「ええ」と頷いて後、言葉に詰まっていると、ユッテが呟くように言った。
「私のお姉さん」
「私ったらいけない事を聞いてしまったかしら」
「いいの。もうちょうど一年前だし。でも……二年前にはね、お母さんとお兄さんが亡くなったの。もう大変ね。お葬式やお墓参りにも忙しくて。このお花、カタリーナ姉さんにあげるわ。いいかしら?」
「ええ。もちろん!」
「ありがとう。綺麗なお花だもの。きっと喜んでくれるわ」
「お姉様もきっと、天国から見てらっしゃるわ」
「ありがとう」
アフラにそう言って笑うユッテは少し涙ぐんでいるように見えた。
イサベラが野山を見渡しながら言った。
「私ね、思ったの。この牧場とお花畑の風景は、天国の風景みたいって」
ユッテも野山を見て頷いた。
「そうね。じゃあお姉様もこんなお花畑にいるのかしら」
アフラはユッテに微笑みかけた。
「きっとそうです。皆さんで同じようにお花畑でピクニックをしてらっしゃるわ」
ユッテは笑顔を見せて刹那、涙ぐんだ。
「本当にそうね。私、ここへ来れて良かったわ」
しおらしくなったユッテは、幼く華奢な、まるで深窓の令嬢そのものだった。
その不意な健気さにアフラは動揺しつつユッテの言葉に頷いて、野山を改めて見た。
普段見慣れている風景なのに、今日は特別に綺麗な場所に思えた。そしてふと思った。今頃アルノルトは何処を探してるだろう。目で探すうちに、アフラは立ち上がっていた。
「どうかして?」
アフラは少し気後れしながら言った。
「ううん。アル兄…お兄さんが向こうの山をまだ探してるの」
イサベラは申し訳なさそうに言った。
「そう。それは悪いことをしてしまったわ。きっとお兄さんは怒ってらっしゃるわね?」
ユッテもとても神妙そうにしている。
「私が悪いの。羊をおねだりして放さなかったから」
「ミルヒを見たら喜んで、もう怒らないわきっと」
「フルーツが一杯あるのよ。お詫びにこれを持って行って」
ユッテは何種類もの果物が詰まった篭をアフラに渡した。アフラはそんなに沢山の物を貰ったことがないので、目を丸くしてそれを受け取った。
「こんなに……、いいの?」
「ええ。ご家族の皆様にお詫びの印ですもの」
「みんなで食べてもしばらく保つわ。ありがとう」
イサベラは言った。
「私からお兄様にもお詫びを言います」
「そんな。もったいないです。お姫様なのに」
「お姫様は止して。イサベラって呼んで」
「イサベラさん?」
「そう。あなたのお名前は?」
「アフラ。アフラ・シュッペルと言います」
「アフラ・シュッペルさん? 良いお名前。どうぞお友達になってね」
イサベラは白いレースの手袋をした手を伸ばして、アフラと握手を求めた。アフラはその手を汚さないようそっと握り返して言った。
「山の人はこういう時、次にどこかで会ったら、お友達になるそうです」
「そう。それも素敵ね。また会えるかしら」
「でも、イサベラさんなら今からでもお友達になれそうです」
二人は笑い合って握手した。そこへユッテがイサベラの手を揺らして言った。
「ずるい。私も!」
「アフラです。よろしく」
「ユッテって呼んでね」
アフラはユッテと握手を交わした。
小さなアグネスも手を伸ばそうとしている。ユッテはそれを見て言った。
「この子は従姉妹のアグネスよ」
アフラはアグネスとも握手をした。
「よろしくね。あなたは何歳?」
アグネスは指を二つ出した。そしてアフラを指差した。
「二歳なの。もうすぐ三歳ね」
後にいた貴婦人が指差したその手の意味を補足して、さらに続けた。
「貴女は何歳? って」
「私? 十二歳です」
アフラが答えると、ユッテがピョンピョンと跳び上がって言った。
「ヤーン、私と一緒よ! 仲良くしましょ」
そう言って、もうユッテはアフラの手を握っている。アフラは勢いに圧倒された。
「ええ……」
「ベンケルも一緒よ。イサベラは一個上なの」
「そうなのね……」
ユッテはともかく、後の二人はとても年が近くは見えない。
山を見ていた貴婦人が言った。
「あの人影は貴女の言っていたお兄さんかしら?」
アフラがその方向の丘の上を見ると、アルノルトの歩く姿が小さく見える。
「あっ。兄さんだわ」
アフラはそう言って高台を駆けて行き、向かいの山がよく見えるところで手を振った。
向こうの山では、既にアルノルトが高台に立って羊を探していた。
「ヤッホー!」
アフラが大きく叫ぶ。声はこだましてアルノルトに届き、アフラの姿に気が付いたようだ。
「ヤォッホホー!」
アルノルトの声が山にこだましつつ返ってきた。
アフラは合図を送ろうとして、手に持つ篭を羊のいる後方に動かした。
アルノルトはその意味が判らず、右手を空に向け、左手をさらに加えた。右か左かわからないという風だ。
アフラは篭の動きをさらに大きくして、数歩後ろに下がりながら篭で後ろを指した。まだ首を傾げていたアルノルトに、さらにアフラは大きく丸を作って羊を指差した。
その後ろでは羊がアフラの方に走って来て、その姿が見えた。とたんにアルノルトは走り出し、自分とアフラの方を指で差して往復させた。
その様子を笑って見ていたイサベラは言った。
「あの子がお兄さん?」
「うん。こっちに来るって。でも山の反対だからこっちに来るまで大変」
貴婦人が手を打って言った。
「じゃあその間にご馳走させて頂けるかしら」
「ごちそう?」
「おいしいタルトがあるの。ご一緒にいかが?」
「そんなごちそうを頂いてもいいんですか?」
「どうぞどうぞ。タルトはいつも多めにあるの」
召使いのレオナルドは既にその言葉を汲んで、タルトを切り分けていた。
折りたためる小さなテーブルを引き出して、その上に白いクロスを掛け、そこに丁寧にタルトを盛った皿とカモミールティーを並べた。貴婦人の誘いで一同全員はテーブルにやって来た。
「どうぞお召し上がり下さい」
そういう召使いにアフラは言った。
「あのもう一つの大きなお皿はあなたの分ね?」
「いいえ。あちらは種類の違うタルトです。これも皆様の為にご用意した分です」
「じゃあ、あなたの分が無いわ?」
「タルトは大皿で作っていますのでたくさん余るのです。私は皆さんが大いに満足された後、時々余りを頂いていますので」
ウインクしながらそう言ってレオナルドはもう一皿のタルトを切っている。アフラはそれがレオナルドの分だと思って安心した。貴婦人は言った。
「いっぱい食べてもいいのよ。遠慮しないで召し上がれ」
「では、いただきまーす。実はもうお腹空いてたの」
お腹をさするアフラの仕草にイサベラは複雑な微笑みを見せた。
アフラはタルトを大きく頬張った。タルト生地の上には柔らかいたっぷりのチーズクリームにブルーベリーが溶け合っていて、甘酸っぱさが口中に広がった。
「おいしい! こんなおいしいもの初めて!」
ユッテも一口食べて見て言った。
「うん。今日のはまあまあね」
「んーっ」とイサベラも口を押さえている。
クヌフウタとベンケルもタルトを一皿ずつ取った。ベンケルなどは手掴みで二口で平らげた。
ユッテが言った。
「自由のお味はどう?」
「うん! うまい。やっぱ自由はいい!」
ベンケルは腕を伸ばして嬉しそうにそう言った。
「アネシュカもいれば良かったのに。せっかく自由の身が決まったんだから、ご姉弟三人で再会を祝ってもいいのよ。私の家の事なんて置いておいて」
「今は従順に勝るものはないのさ」
カモミールティーを二つ取ったクヌフウタは、一つをベンケルに渡してから小さく言った。
「恩赦、おめでとう」
「ありがとう」
アフラが何の話だろうと思っていると、
「この人ね、重罪人だったの」
ユッテがそう言うので、アフラは驚かざるを得ない。
「えー? 何か悪い事をして?」
「オレ? 悪い事は何もしてないよ」
そう苦笑いしているベンケルの目は純朴そのものだ。
「ですよねー」
「まあそれだから私が言ってあげたんじゃない。それで昨日、その罪が晴れたのよ」
「心から感謝してる」
ベンケルは素直に感謝を示した。
「でも強情はお断りなんでしょ。破談のままでもいいのよ」
「あれ? ユッテは強情なのかい?」
「もう!」
ユッテとベンケルの掛け合いに大きな笑い声が起きた。
修道女クヌフウタが言った。
「じゃあ婚約はそのまま?」
ベンケルは頷いた。
「そうだね。今となっては争いで壊れた約束だけど、その方がいい。ユッテはどうだい?」
ユッテは言った。
「やり直し! プロポーズならもっと紳士的にするものよ」
ベンケルはその場に跪いた。
「ユッテ姫。願わくば、この僕と再び将来の約束を」
「考えとくわ」
「考えとく?」
「将来なんてまだよく判らないもの」
「ここまでしたのに?」
一同は苦笑いするよりなかった。アフラは同い年の人同士のプロポーズの場面に立ち会い、信じられない世界を見る思いがした。
話しが一段落すると貴婦人とレオナルドがタルトを手に持って、山道を下って歩いて行った。アフラはそれを見て聞いた。
「お二人はどちらへ?」
「向こうにいる方へも持って行くのね」
「向こうにいる方って、狩人さん?」
とたんにユッテは笑った。
「その通りね。変でしょう? このタルトはね、ウチのお城で作ったの。タルトの美味しいシェフがいるのよ。アグネスは大好物だものね」
「ん」
ユッテはアグネスの口についたタルトの欠片をつついたが、アグネスは食べる方に夢中なようだ。
「それはご立派なお城なのね。ユッテさんはどちらのお城から?」
アフラが聞くと、ユッテは左右を見て何か気にしてから口を開いた。
「馬車で山道をぐるぐると来たからあまり細かい場所は判らないのよね」
「じゃあイサベラさんのお城はどちらに?」
「実家ならブルグント領の山の中の小さなお城よ」
「ブルグントってお話に出てくる国?」
「そうね。ジークフリートとクリームヒルトが住んだと言われる、古い伝統のある土地よ。だからお城も古いの」
「うわあ、本当に物語みたい。素敵!」
今度はユッテがアフラに訊ねた。
「あなたのお住まいはどちら?」
「あたし、村の共同牧場の隣に住んでいるの」
「牧場の真ん中の大きなお家?」
「うん! そうよ!」
「やっぱり! 私ね、馬車からあそこを見て、あんなところに住んでみたいと思ったのよ」
「でも、牛や羊の世話したり、編み物したり、大変なの」
「そういうことがしてみたいの。お城では何もさせて貰えないのよ。この綺麗な風景の中で、毎日そんなことが出来るなんて羨ましいわー」
「あなたこそお城のお姫様なんて、夢みたいだわ」
二人はしばらく見つめ合った。互いに互いの暮らしが夢のように思えたのだ。目が合うとユッテが微笑み、二人は笑い合った。
「じゃあ今度、私のお城を見に来る?」
アフラは飛び上がって驚いた。
「あたしなんかがいいの?」
「ええ。もちろん。私も遊びに行かせていただくんだもの」
「あたしは行きたいけど……お父さんが何て言うか」
「じゃあ。少ししてお城へ帰ったら迎えの馬車を出すわ。もし都合が悪いなら、その時に良い日を教えてくれればいいし」
「馬車!」
アフラは軽い目眩を覚えた。
「でも、お城に行くためのいいお洋服が無いわ……」
「この衣装でいいわ。とても可愛いし。お父様に村の衣装だって見せてあげたいのよ」
「そういうことなら、いいわ。そうしましょう」
「じゃあ約束ね」
「うん」
二人は再び手を握り合って約束した。
一方のアルノルトは、息を切らせて下りの山を駆け降りて行き、川を石伝いに跳び越え、今度は道の無い斜面を駆け登った。山道に出て馬車の轍を見付けると、それを辿って歩いて行き、ようやくにして高台にアフラと令嬢達の姿を見付けた。傍には子羊のミルヒもいる。ミルヒはアルノルトを見つけると駆け寄って来た。
「ミルヒ。ここにいたか」
アルノルトは羊の背を撫でてやり、ポケットに入っていた革紐を取り出して羊の首に着けた。
アルノルトに気付いたアフラは手を振って兄を呼んだ。
「アルノルト兄さん。ここよ」
アフラの少し気取った風な呼び方に、アルノルトは呆れたように言った。
「アーフラ! 何してる! ミルヒを放ったらかしにして」
「あっ。いけない。忘れてた。あまりにおいしくて……」
アフラは慌てて食べかけのタルトを平らげて立ち上がり、口を手で隠しながら羊を追ってみたが、もう手遅れというもの。兄にその一部始終を見られてしまった。
「アーフラー……」
アルノルトは怒ったような笑ったような変わった顔付きをした。喜ぶべきことには羊が見付かったからだ。
「ごめんなさーい」
すまなそうに駆け寄って来たアフラに小さく拳骨を入れるふりをして、アルノルトは言った。
「羊を見付けてくれたからまあ良しとしよう。それよりあの人は?」
アフラの後ろからはイサベラが追って来ていた。
「あの人はイサベラさん。それにユッテさん。羊を連れてったお詫びにって、ご馳走を……」
「クリーム付いてるぞ」
アフラは「テヘッ」と舌を出した。
「あちらは貴族のお姫様か」
「そう。ブングルトのお城に住んでいるそうよ」
「そんな人が何で羊を連れて行くんだ!」
「ミルヒがあんまりに可愛かったんだって。それに道に飛び出して来たそうだから仕方ないわ」
「しかし、可愛いからって連れ出されていたら大きな損害だ。俺が一言言ってやる!」
アルノルトはイサベラとユッテの方へ早足で歩いて行った。
アフラはそれに追い縋り、横から声を掛けた。
「あの人逹はお姫様なのにちっとも偉そうにしないの。それに山や羊が好きなのよ。この村のことも大好きなんだって。とても悪いことしたって言ってたわ。お詫びにこれ、頂いたの。みんなにって」
アフラはフルーツの入った篭を開けて、アルノルトに見せた。
「だから怒らないであげて。お城にも来てって言ってくれたんだから」
アルノルトは立ち止まった。
「お前も? 可愛いからって?」
「う…ん」
アルノルトの顔色が変わった。以前に貴族に気に入られ連れて行かれた村娘の事を思い出したのだ。
「しょうがない奴……」
アルノルトは右手で額を覆った。
「お前まで! 羊と一緒にいなくなるところじゃないか!」
アルノルトに怒鳴りつけられ、アフラは少し涙目になった。
「怒らないで……お願い」
そこへイサベラが歩み寄って来て、スカートをつまんで恭しい挨拶をして言った。
「お兄さん。どうぞアフラさんをお責めにならないで下さい。私たちが悪かったのです。この度は大事な羊を連れて行ってしまい、心よりお詫びを申し上げます」
「羊を連れて行ったのはあなたか?」
「それは私!」
イサベラを追って歩いて来たユッテが言った。
「私が悪いの! 私が、羊をずっと離さなかったから。お詫びはします。何なりと欲しい物を仰って下さい」
「物? 貰う物など無い!」
アフラが後ろから兄の手を引いて止めた。
「兄さん!」
「謝るくらいならしなきゃいいんだ!」
アルノルトが声を荒らげると、目を大きく見開いたユッテは口に手を置いて戦慄いた。イサベラは咄嗟にユッテを護るように抱き締めた。
「無礼じゃないか!」
それを見ていたベンケルがアルノルトの方へ行くのを、クヌフウタが首を振って押し止めた。
その怒声に気圧されながらもアルノルトの言葉は溢れ出た。それは怒りよりも大きなものが篭もっていた。
「あなた逹はきっと大きな領主様の子で、周りには使用人が幾人もいて、欲しい物は何でも手に入るかも知れない。土地も人も自分のものと思っているかも知れない。でもこの村は違う。このアルプは村人全員の共同のものだ。羊も皆のものを集めて
アルノルトは激情と共に言葉を呑んで俯いた。村の掟が貴族にそのまま適用されないことは、子供でも知っている事だった。
しかしイサベラはその言葉が宝物のように思えた。それは清冽な風だった。アルノルトの言葉を通してこの村の精神の命脈に触れるような気がした。
ユッテはこうも怒られた記憶が無い。アルノルトの苛烈な語気に焼かれ、身震いすらしたが、アルノルトが言った事を全て尤もだと思った。そして自分の軽挙が起こした過誤を深く恥じた。
「ごめんなさい。許されないことをしてしまったのね。そんなつもりはなかったの……。そう言っても、もう信じては貰えないかしら。でも、アフラ、妹さんとは、良いお友達になれたの。これだけは信じて欲しい」
途切れ途切れに言うユッテの言葉を聞いて、アルノルトは静かに言った。
「物なんていらない。欲しいのは……誓いだ」
「誓い?」
「そうだ。もう村の何ものも奪わないという誓いだ。羊も、妹も、村の誰も連れ去ったりしないという誓いだ」
「私達も誓いましょう」
そう言って右の手の平を上げたのは、修道女クヌフウタだった。
「天に坐しますキリストと聖霊の御名において……」
それを聞いたユッテは、右の手の平を掲げて言った。
「天に坐しますキリストと聖霊の御名において。この今より永遠に、村の何ものも奪わないことを誓います」
イサベラも右手を上げて誓う。
「私も誓います。羊を連れ去らず、アフラさんも、村の誰をも連れ去らぬことを誓います。アーメン」
クヌフウタが十字を胸に切って言った。
「懺悔と共にここに誓います。アーメン」
キリスト教暗黒時代とも言われる神聖ローマ帝国の世において、キリストの名は絶対のものに等しい。クヌフウタは跪いて十字を切り、ロザリオに両の手を当てた。
敬虔な祈りを捧げるクヌフウタの姿は、村の教会で祈る人々とは違う気品があり、何故か眩い光を放つように見えた。
一度天使になった私には見ることが出来た。この時ここに天使の光が集うのを。
守護天使というものだろうか。人に寄り添うようにその光はあった。
『主よ、聖霊よ、どうぞ皆の過ちをお許し下さい……』
そう祈るクヌフウタには光と共に天使の影が寄り添っている。
私はその天使に聞いてみた。
『あの、お尋ねしてもいいですか? ここはどこですか? いつの時代ですか?』
姿を現した賢人風の天使は言葉少なく言った。
『大事なところだ。君も守護天使ならこの時を荒らさないよう、心静かに寄り添うべきだ』
私はいつの間にか守護天使になっていたというのか。なら同じように寄り添っているのがいいのだろう。
そう思っていた時だった。クヌフウタは応えるように祈念した。
『ここは神聖ローマ帝国、シュヴァーベンの南の地、ユリウス暦一二八三年の春です』
『え? どこ?』
賢人風の天使はその言葉に恐懼するように首を振っている。それはさも、この修道女に私の言葉が伝わっていることが信じられないというようだった。
『この子の天使様でいらっしゃいますね?』
『そのようです』
『どうぞ彼ら兄妹を、迷える子羊を見守り、お導き下さい』
『はい。見守ることにします』
クヌフウタというこの異国の修道女には、何故か私の言葉が伝わるようだ。言葉を受け取って、僅かに微笑むように見えた。
そんなことがあったとは知るべくもなく、三人の姫君の誓いに圧倒されてしまったアルノルトはと言えば、すっかり怒りが解け、気まずそうにアフラの方を窺った。
アフラは抗議するように頬を膨らまし、袖を持って揺らしている。
ユッテの隣ではアグネスもやって来て、小さな手を挙げて「アーメン」と言っている。
アルノルトは思わず笑った。
「羊飼いさん。お許し頂けますか?」
クヌフウタの声にアルノルトは少し畏まって咳払いをし、右手を挙げ、懺悔室の神父の真似をして言った。
「汝の罪は許されん」
ユッテとイサベラは、それを天使の声を聞くような心地で聞いた。
目を上げると、さっきの剣幕が解けて、小さく笑顔を見せたアルノルトがいた。
「許して下さるの?」
「判ってくれればいいのさ。羊も見付かって元通りだし、こんなに気持ち良く誓ってくれたら、許すしかないよ。この村が好きな人だそうだから、悪い人ではない。そうでしょう?」
「ああ! ありがとう」
ユッテはいつの間にか涙が溢れていた。その涙にユッテ自身が驚いて、立ち上がって後ろを向き、涙を拭った。アルノルトは確かめるように言った。
「でもその誓いをちゃんと守ってくれよ。でないと、村の敵になる」
ユッテは涙を拭いて、少し振り返り言った。
「ええ……守るわ」
「誓いは守ります。必ず!」
イサベラはロザリオを掲げてみせた。
「それを信じる事にするよ」
アルノルトが頷くと、ユッテとイサベラは顔を見合わせ、表情に光輝が点る。そして聖母の如く微笑むクヌフウタとも頷き合った。
アルノルトは思った。この人達の普通の貴族とも違う高貴な輝きは何だろう。不意にアルノルトはその光に堪えられなくなった。
「じゃあ、もう行かなきゃ。この篭は返そう……」
それを聞いたアフラは篭を抱いて返さないという仕草をした。アフラは言った。
「これはご家族みんなへのお詫びのお土産ですって」
「羊は返ったんだ。受け取れない」
ユッテは置き去りなっていた花束を差して言った。
「妹さんには綺麗なお花を戴いたの。だからこれはアフラさんにも権利があるわ」
アフラは籠を抱いたまま、二度頷いた。
アルノルトは渋々認めざるを得ない。
「じゃあ、アフラがああしてるし、受け取っておくよ。行くぞ。アフラ」
「でも……」
「向こうのアルプまで遠いんだぞ。ぐずぐずしてはいられない」
アルノルトはアフラの背を一叩きして、羊を引いて元来た道を歩き出した。
幾度も振り向くアフラに、ユッテとイサベラはそっと頷いて、手を振って見送った。
道の途中、ふと目を移したアルノルトは、遠くの草叢の中に緑の狩人が顔を出しているのを見た。遠目に一時見えただけだったが、こちらを睨んでいるように見えた。
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