第2話 草の小径


 道は斜面をジグザグに進み、時に大きくカーブして逆を向いて曲がって行く。その道をしばらく歩いていくと坂の上の方に道が見えたので、アフラは道を逸れて若草の生え出た斜面を登った。

 アフラは息を切らせてきつい斜面を登り、少し平らな小径に出て、ふと立ち止まった。

 すぐ足元の草の上に何かが寝息を立てていた。よく見るとそれは緑色の狩人の服を着た男だった。隣りには狩人姿の少年も寝転んでいて、真っ直ぐ空を見ている。

 アフラは恐る恐る挨拶をしてみた。

「こんにちは」

 狩人の寝息が止まったが、返事は無かった。少年の方は目を開けてはいるが空を見たままだ。アフラはもう一度呼びかけた。

「こんにちは!」

 少年は気怠げに体を起こして言った。

「聞こえている。大声を出すな」

 同じような背格好のくせに、その口調は妙に大人っぽい。少年の虚ろな目に纏う雰囲気は、まるで廃絶貴族のようにも見えた。

「あなたはだあれ?」

 少年がアフラを指差して言った。

「お前こそ誰だ。先に名乗れ」

「私が聞いたのが先よ」

「俺に名は無い」

「失礼ね。レディーに向かってそんな態度」

「名乗る程の者ではないのさ」

 アフラはすっかりむくれて言った。

「じゃあ私も名乗る程の者じゃなーい!」

 その声に横で寝ていた男が目覚め、目を見開いて起き上がった。

「いかんいかん! このようなところを見付かってしもうた。いやあ。婚約は……この娘か?」

 少年は途端に笑い転げた。

「それはいいな! ハハハハ!」

 その勢いを余所に、アフラは困惑顔になった。

「婚約?」

 少年は言った。

「隠れん坊して見つかったら婚約なのさ」

「冗談は止めて! 私ここを通っただけよ?」

「それでも、権利を与えてもいいな」

「権利?」

 大人の狩人が言った。

「しかし、通りがかりの人を捕まえて婚約は如何なものか」

「偶然の成り行きを楽しむくらいはいいだろ?」

 その口調は子供の狩人の方が大人より偉そうだ。

「あなた達は親子?」

 少年は男の方を一度見てから言った。

「……違う」

「じゃあそのお揃いの服はなあに?」

「これは、見ての通りの狩人だ」

「草と一緒の色で見えないなんて不思議な服。そんな服、見たことないわ。踏んづけちゃうところだったのよ」

 少年狩人は笑った。

「それは予想以上の成功だ。草に隠れていたのだからな」

 狩人姿の男は口に人差し指を立てて言った。

「ちょっと声を落としてくれ。声で見つかってはいかんからな」

 アフラは口を押さえて頷いた。男は声を小さくして続けた。

「そなたはこんなところまで何しに来た? 誰かの使いか?」

「私? 私は馬車を探してるの」

「馬車とな!」

「見たの?」

「ここからならいくらでも見えるからな」

「どっちへ行ったの?」

「うむ。あっちの方だったな」

 狩人姿の男は下の道を指差した。しかしその道はモランの馬車が下った道だった。

 少し首を傾げてからアフラは言った。

「その馬車には子羊が乗ってるの」

「羊とな!」

「そう! その羊は私達の村の羊なの」

 少年狩人が言った。

「そうか。あの羊を追って来たのか。ご苦労なことだ」

「小さい狩人さん! 見たの?」

「ああ。その馬車ならばあっちだ。道ならばこっちかな」

 狩人の少年は今度は上の方を指してから、道は下の方を指した。

 アフラは指で上下を指しながら言った。

「あっち? こっち? どっち?」

「こっちだ。そこにある小径を回れば崖や草が深い所を回って道に出る。そこから上の方へずっと行けば見えるであろう」

 少年は指を巡らして言い、また寝ころんだ。アフラを数歩歩んでそこに細道を見つけてから言った。

「ありがとう! 行ってみる!」

 狩人の男が再び口に人差し指を当てている。

 アフラは人差し指で口を封してから、静かに狩人の指し示した通りの方向へ歩いた。

 進んで行くと次第に草の高さがアフラの背丈ほどになり、道も細くなって来て、草を掻き分けて進まなければならなくなった。

 迷いながら草を掻き分けて進んで行くが、次第に方向感覚が判らなくなって行った。

 不意に草が切れ、道のような場所に出たので飛び出して行くと、若草色の貴婦人に出くわした。

「キャアーッ」

 ぶつかりそうになって後ろに避けた貴婦人は草の根に躓いて力無く撓垂れるように倒れてしまった。貴婦人に見えたのは、まだ年若い少女で、淡く明るい若草色のドレスに包んだ体を深い草に埋め、白く長い手袋をした手には一厘の花を持っていたが、その花びらは1枚しか残っていなかった。片手で上体を支えていたが、俄にそれも止めて、地面に寝転んでしまった。

「ご免なさい。大丈夫ですか?」

 アフラは慌ててその少女の顔を覗き込む。

「このままこうしていれば、判るかしら」

 少女はそのまま目を閉じてしまったので、アフラはさらに慌てた。

「どうしました?」

「判らないわよね。人の気持ちなんて」

 花を持った手を額にかざしている少女に、アフラは手を差し出して言った。

「痛いですか? 頭ですか? おしり?」

 少女は笑ってアフラの手を取って上体を起こした。

「何ともないのよ。痛いのは強いて言えば心ね。驚いたわ。こんなところからあなたのような可愛い子が出てくるなんて」

 少女は持っていた花を草地に放った。アフラはその花びらを見てようやくその胸中が判るような気がした。

 アフラは持っていた花束から一輪の花を取り、少女に渡した。

「も一つどうぞ」

「ありがとう」

「心が痛いのは……お知らせなのよ」

「お知らせ?」

「そのままそっちに行っちゃだめって言う神様からのお知らせ」

 少女は何かに打たれたように「判るの?」と溜め息のように言った。

「うん。こうして耳を澄ませば小さな声がするわ」

 耳を両手で包むようにして言うアフラに習って、イサベラは目を閉じて耳に手を当ててみた。

 すると、向こうから「イサベラー」と呼ぶ声がする。その場所は草地に出来た小道の合流する広場のようになっていて、奥の道からはもう一人、見たこともないような唐草模様の異国のドレスに身を包む少女が歩いて来て、「大丈夫? イサベラ」と歩み寄って来た。

 その後方からは黒い服の貴婦人が小さな女の子を連れてゆったりと歩いて来た。

「どなた? 可愛いお客様ね」

 丸みのある顔をしたその貴婦人が言った。ぴったり寄り添って首を傾げている小さな女の子もほっぺがふっくらと丸いので親子であろう。その後ろからは一人の若い修道女が歩いて来ていた。亜麻の無染色の修道服を着ている。

 身を起こした少女が「少しぶつかってしまいました。汚れてしまったかしら」と背を払った。

 立ち上がった少女の背丈はアフラより少し高いくらいだが、高い靴を履いてまっすぐに背筋が通っているのでずっと年上に見え、貴婦人かご令嬢といった雰囲気だ。少女は恭しくスカートを広げて礼を取って言った。

「失礼しました、村のお嬢さん」

 アフラもそれに習って片手で花束を抱え、片手で少しスカートを摘んで挨拶を返した。

「こちらこそ失礼しました。皆さんこんにちわ」

 貴婦人がゆったりとした口調で言った。

「こんにちは。あなたは向こうの村の子かしら?」

「はい。そうです」

「こんな場所で何をしてるの?」

「羊を探してるんです」

「羊?」

「これくらいの子羊なの」

 アフラは手を一抱えして形を作った。すると、少女達も貴婦人も顔を見合わせた。

「まさかあの羊は……」

「あなたの羊なの?」

「みんなの羊なんです。向こうの山で私が逃がしちゃって、探しに来たの」

 すると少女達は一様に項垂れた。そこへ修道女が威圧感を持った声で言った。

「貴女方は罪を犯したようです。これは懺悔せねばなりません。後で懺悔室に」

 修道服のベールから覗く端正な顔立ちはまだ若く瑞々しいが、その声は修道院長のような威厳で満ちていた。

 慌てた異国の少女が修道女の袖にしがみついた。

「お姉様。それは許して」

 緑の少女も修道女に手を合わせて言った。

「クヌフウタさん。今懺悔をします。だから懺悔はお許しを」

「まず、この子に謝罪するのが先でしょう。そして羊を返してあげなければなりません」

 アフラは聞かずにいられなかった。

「羊を知ってるの?」

 小さな女の子は言った。

「子羊いるよ」

「いる? どこに?」

 アフラが膝を跼め聞くと、その子は指を「あっち」と指した。

 貴婦人が言った。

「子羊はね。この上のところに馬車があって、そこにいるのよ」

「さっき狩人さんにそう聞いたんですけど、道に迷っちゃったの」

 すると、再び皆で顔を見合わせた。

 異国の少女は飛びつくようにアフラに聞いた。

「狩人さん? 私達はその方を探して競争しているのよ。その方はどちらに?」

「向こうの方。この草の分けた跡を行けばすぐよ」

 アフラが今来た道を指差して教えると、異国の服の少女は草の分け跡まで歩き、振り向いて言った。

「イサベラさん。私、お先に行っても構わないかしら?」

 イサベラと呼ばれた少女は頷いた。

「私はこの子の案内をするわ、アネシュカさん。もうここからは譲ることにします。奥様、よろしいでしょうか?」

「そうなの? まあこのかくれんぼはあの子の戯れだから良いのだけれど。お見合いはいいの?」

「ええ。アネシュカさんに権利を譲ります」

「じゃあ、お言葉に甘えて行かせてもらうわ」

 異国の少女アネシュカはそう言うと軽くスカートを摘まんで礼をしてから、草叢の中に分け入って行った。それを見届けてからイサベラは言った。

「では奥様。私は馬車に戻っています。この子に羊を返してあげるには、もう少し助けが必要ですし」

「そう。残念ねえ」

 小さな女の子がぐずって言った。

「羊さんー。羊さんー」

「アグネスは羊さんの所に行きたいの? その方が良いわね。じゃあ私達もご一緒しましょうかしら?」

 貴婦人は少女の手を取って歩き出した。途中で修道女に目配せをして行く。修道女が頷いて返したのは同行の意味だろう。

 イサベラはアフラに向き直って言った。

「私達は貴女に謝らなければなりません」

「どうして?」

「子羊を連れて行ってしまいましたから。盗む事は、罪です」

「羊を返して貰えればそれでいいんです」

「もちろんお返しします。これからご案内しますわ」

 イサベラはアフラにそう言って歩き出し、修道女の近くで足を止めて言った。

「クヌフウタさん。これで良いのですよね」

「それが貴女の出した答えならば」

「はい。ついさっき答えは出ました」

「でも、判っていますね。皆が得られない権利を譲歩したのです。もう少し自分を大切にする事を学ぶべきですね。状況に流されない、行く末の道を」

 イサベラは物思いするように頷いた。修道女のクヌフウタはそれを見届けると、貴婦人の後を追って、歩き出した。

「では、行きましょうか」

 イサベラはアフラに掌で合図を送り、並ぶようにして歩き出した。そして歩きながらアフラに話した。

「貴女の羊はね、急に道に飛び出して来たものだから危なかったの。怯えて立ち止まったままで馬車が通れなくって、御者さんが捕まえて見せてくれたのだけれど、あまりにかわいいものだから馬車に乗せてここまで連れて来ちゃったの。ご免なさいね」

「そんな事があったのね」

 草叢に出来た小径をしばらく行くと、大きな道へ出た。そこには轍の跡が幾つか残っていた。

「馬車の跡だわ」

 前を歩く小さな女の子がアフラを振り返って気にしている。アフラが首を傾げて手を振ると、手を振り返して言った。

「羊さんとこ行くの?」

「ええそうよ」

「羊さん、かわいいの」

「そうでしょう。うちの羊ですもの」

 少女は笑って貴婦人の手にぶら下がった。貴婦人は少し重そうな顔をしたが、至って笑顔だった。

 しばらくその道を行くと、少女が指を差した。その方向の高台の上に馬車の影が見えた。

「あそこね?」

「ええ」

 イサベラが肯定するや、とたんにアフラは駆け足になって貴婦人を追い抜いた。

 高台に近付くにつれ、そこには見たこともないくらい豪華な白亜の馬車が見えた。


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