第1話 中世アルプスの高地で
早朝の清冽な山の息吹きが霧となって、高原の村を朧に包んでいる。
村を囲むアルプスの雪が朝日を映じて黄金色に輝き出せば、その広い渓谷地が微睡むように姿を見せる。
白く雪を被る岩嶺は、麓へ行くにつれ若草色へと染まるかのように森と草原が彩り、その低地には碧く澄んだ湖が水を湛えている。
湖畔には修道院のような大きな建物があって、山の麓の森には石積みの古城の影も見える。
私は風となって、高地の草原に長く佇んでいた。
言葉に出来ない郷愁がそこにあった。
高原には白や紫のクロッカスが咲いていて、清流がコポコポと水音を立てている。
川の傍を伝う道は、牧草地を縫うように石積みの家々を結び、山腹の村の広場へと続いている。
広場には童話世界から抜け出したような朱色の屋根の家々が並び建ち、その中心には高く尖った教会の塔が建っていて、風景に完成された情趣を与えているようだ。高原から谷を見下ろす風景は、まるで神が丹誠を込めて創った箱庭のようだ。
渓谷を緑に染めるアルプは高原を切り開いた牧草地で、それは高地まで続き、そこへ続く道を今日も白い羊の群れが昇って行く。
羊を率いるのは村の青年で、羊を追う少年達は村の公用を担う立派な稼ぎ手だ。
風となった私は、この感心な二人の兄弟のところへ降り立った。
少年に寄り添えば、不思議と魂に馴染むように思い出す記憶がある。もっと以前から彼らを見ていたような、遙か昔、私は彼自身だったような、そんな気さえする。
これは言うなれば過去転生か。何にしろこうしていれば、彼らの記憶や目を通して、この世界を見ることが出来るようだ。
まだ朝も早く、春の山の風はまだ冷たい。羊飼いの少年は手をさすりながら空を見上げた。
真っ青な空を刺すようにアルプス山脈の白い峰が立ち並び、氷壁からは雪を含んだ風が降りてくる。
「エルハルト兄さん。今日はずっとこのまま晴れかな」
弟のアルノルトが遙か前方で羊を導く兄に聞いた。アルノルトはまだ十五歳になったばかりだ。
三つ年上で頭一つ背の高い兄のエルハルトは、峰から吹いてくる風に対峙するように岩に立ち、空をしばらく眺めて言った。
「いい天気だが、後でだんだん天気が悪くなる。今日は早めに切り上げよう」
「こんな天気なのに? どうしてわかるの?」
「あそこの斑の雲だ。風も湿ってる。山は生きてるんだ。声ではない声があるのさ」
エルハルトの天気を読む目は殆ど外れたことがなく、村の大人でさえ一目置いていた。
「へえ。流石はエルハルト兄さんだ」
アルノルトは長い棒で後ろから羊を追いつつ、遙か前方のエルハルトと会話をして歩く。
牧羊犬のベルがしきりに吠えていた。私に吠えたのかと思えば、そうではなかった。
前を行くエルハルトが小さく後ろの岩を指差した。アルノルトが後ろを振り返ると、小さな影が岩に隠れるのが見えた。
アルノルトとエルハルトは顔を見合わせた。
牧羊犬のベルは岩へ走って行き、その影の主に吠えた。
(ベル。吠えたらダメよ。わかっちゃうでしょ!)
女の子の小さなひそひそ声が聞こえた。
「アフラ。何してる?」
エルハルトが遠くまで通る声で言うと、小さな女の子と男の子がすまなそうに岩陰から出てきた。
「こらアフラ!」
「見付かっちゃった」
「マリウスもか!」
「ごめんなさい。エルハルト兄さん」
「ついてくるなと言っただろう」
アフラは悪戯っぽく笑って言った。
「今日はいい天気だからね。マリウスとお出かけしようって。たまたまこっちに来たの」
エルハルトは呆れて言った。
「しょうがない奴。その
「だって、これが一番かわいいんだもん」
アフラは村娘の民族衣装を着ていた。髪には白い頭巾をかぶり、白い円筒の上衣の上に赤い小さなベストを着て、黒にも近いオリーブブラウンのスカートに村特有の刺繍の入った前掛けをしていた。ベストにも色とりどりの刺繍が入っていて、紐で前を詰めている。トラハトと呼ばれるその衣装はとても手間がかかっていて、村ではとっておきの晴着だった。
「山の天気はすぐ変わるんだ。雨になったらどうするんだ」
「大丈夫よ。こんなに晴れているんだもの」
「この天気もすぐ変わるから言ってるんだ!」
怒った兄に怯えるアフラを見て、アルノルトは静かに言った。
「ここから帰るのもお前達だけでは危険だな。兄さん。せっかくだから随いてくるのもいいんじゃないかな。山を知るにもいい機会だしさ」
エルハルトも山道をただ追い返すわけにもいかない。
「今日はまあ早めに折り返すつもりだし、それまでは天気も保ちそうだ。ここまで登って来たからには、今日は手伝って貰おうか」
「わぁ! やったあ」
アフラとマリウスは両手を挙げて大喜びをした。
「そんなに喜ばせると示しがつかないか。あとで父さんには厳しく言ってもらうかな」
「えーッ」
羊飼いの兄弟達は羊と共に歩き出した。
草原とも野道とも取れる草の小径を、羊の歩みに合わせてゆっくりとした足取りで歩いて行く。
いつしか日は見上げる程に高く昇って、若草色の
白く雪の残る山肌は、透き通るような眩さを放つ。
それを映すように白いヒナギクの花が草原いっぱいに咲いて、山からの風に揺れている。
「なんて綺麗なお花畑!」
アフラは花を摘んで歩いては香りを楽しみ、黄色や青の花も添え、花束を作って歩いた。
マリウスは牧羊犬のベルと一緒に喜び勇んで羊を追い、山道がきつくなって疲れて来ると、アフラが花を見付けては立ち止まっていたので、それに付き合って休憩の口実にした。
先頭を歩いていたエルハルトは、遥か後ろで花を摘んでいる妹逹に声をかけた。
「アフラ! 何してる! 遅れるな!」
声は山に響いて木霊する。
「エルハルト兄ちゃん。待って!」
羊の後ろを歩いていたアルノルトはアフラとマリウスに駆け寄って言った。
「道草ばかりしてたら昼までに草場に着かないじゃないか。天気が保たなかったらどうする。ほらマリウス。お前も男なのに花なんて摘んでいるんじゃない。お前達を連れて行くのはやっぱりまだ早かったかなあ」
アフラに花を持たされていたマリウスは、悄気た顔で言った。
「だって……」
アフラは兄を睨んで言った。
「そんなことないもん。行こ?」
アフラとマリウスは早歩きで歩き出した。早歩きというより小走りに近い。
羊も一緒に小走りになり、群れは急に加速した。
「急に早くなったな」
アルノルトが喜んだのも束の間だった。羊達はその二人の追走に驚いて、列を乱して逃げ出したのだ。
「アフラ。マリウス。羊を逃がすな!」
そう言われた二人は羊を捕まえようとさらに走り出した。アフラは子羊の尻尾を掴みそこねては毛を引っ張り、マリウスなどは持っていた花で逃げる子羊を叩いた。
驚いた羊はさらに必死になって二人から逃げ、散り散りになって先頭を歩いていたエルハルトを追い抜いた。エルハルトは何が起こったのかと振り向いた。すると、アフラとマリウスが羊を追いかけ回すのが見えた。
「何してるんだ! 羊を追いかけ回すんじゃない!」
必死に走っていたアフラは岩に転び、すぐに泣き出してしまった。
マリウスはアフラに駆け戻って「大丈夫?」と声を掛ける。羊達はそれを見てようやく逃げるのを止めた。
「しょうがない奴だ。ベル! 集合だ!」
エルハルトは指笛を吹いた。牧羊犬のベルはこんな時には円を描いて走り回り、散り散りになった羊たちを上手に一カ所に纏めていく。エルハルトとアルノルトも群れを前後から囲んで走り回った。アルノルトは長い棒を横に広げて地面を叩きながら羊を誘導した。二人はようやくのことで羊をまとめ上げ、その数を数えた。
「一頭足りない。エルハルト兄さん」
「まさか。一匹、二匹、三匹、四匹………」
数えてみると羊は確かに一頭足りなかった。それは村人から預かっている子羊だった。
「大変だ! ミルヒがいないぞ。まだその辺にいるだろう。手分けして探そう」
「でも、ここの羊達も放ってはおけないよ」
エルハルトは頭をひねって考えた。こんなことになった原因のアフラに羊を見張らせるわけにはいかない。マリウスもまだ小さいので山道にすぐ疲れてしまう。
「わかった。じゃあ俺はマリウスと羊を見張ってこの辺りにいる。アルノルトとアフラで羊を探してくれ」
「あたしも?」
まだ泣きべそをかいていたアフラは顔を上げた。
「そうだ。こうなった責任があるだろう。ただし向こうの森には入るな。森はヴァリス人の狩り場だからな」
「わかった。あたし探してくる」
アフラは一目散に山を駆け出した。アフラには心当たりがあった。アフラが毛を引っ張り過ぎて毟ってしまったので、ひどく驚いて走って行った子羊がいたのを思い出し、その方向を目掛けて真直ぐに走って行った。
「また転ぶからゆっくり行け」
アルノルトが後から追って来て声をかけた。アフラが道に迷いそうなので、アルノルトはアフラから遠くない場所を行く事にしたのだ。
「アル兄ちゃん。あっちよきっと」
「見たのか?」
「私、羊の毛を引っこ抜いちゃったの。そしたら跳ぶように逃げてった」
「どっちだ?」
「あっちの方向」
アフラはその方向を指差して言った。
アルノルトはその言葉を信じてその方向へと早足で歩いて行った。
アフラもその後に小走りで付いていく。
二人は草原を抜け、道を塞ぐ岩を登って周囲を見渡すと、道の先は森に続いていた。
「羊は森に入ったかな」
「どうしよう。さっきエルハルト兄ちゃんから森へは入っちゃだめって」
「そうだな。じゃあここから分かれて周辺を探そう。アフラは山の下の方だ。僕は上の方を探す。一周回ってここで合流だ」
「うん。わかった」
二人はそこから手分けして周囲を探した。
アフラが山を下ると眼下には川に沿って道が曲線を描いているのが見えた。その登りのきつい山道を馬車がゆっくりと走って行く。その道は峠へと続いていた。
方々を探しても見付からず、元の岩の方へ戻って来たアフラは、森の入り口に立って森の中を覗き込んでみた。森の中は暗く鬱蒼としていて、不思議な鳥の鳴き声が響いている。アフラは怖くなってとても森に入る気にならなかった。
そこへアルノルトも戻って来た。
「アフラ! いたか?」
「ううん。いない」
「アフラ。もし見つからなかったら、あの羊は二頭しかいないペーテルのだ。ペーテルは羊を売って一年越せても来年の冬はもう越せなくなる。ミルヒはようやく生まれた羊なんだ。だからきっとお父さんは、代わりにウチの子羊のシルフを渡してしまうだろう。そんなの嫌だろう?」
「うん! 嫌!」
「少しだけ……森を探してみるか」
「でも……森にはヴァリス人が出るんでしょう?」
「うん。でもヴァリス人も人さ。いい人もいる。無闇に怖がることはないよ」
「ヴァリス人ってどんな人?」
「昔からここに住んでいる山の民さ。僕らアレマンの民は数は多いけど、昔、北から大移動してきたんだってさ」
「じゃあ。あたし達、ヴァリス人の土地を盗っちゃったの?」
「そういうことだな。だから少し、仲が悪い」
「ヴァリス人に見付かったら、怒るかなあ」
「ヴァリス人だってわけもなく襲ったりはしないさ。少し森に入るくらいなら会うこともないだろうし、大丈夫さ。行ってみよう」
二人は恐る恐る森の中へ踏み出した。
森の中へ入ると次第に日が当たらなくなり、意外なほどに暗くなった。始めは広かった道はだんだん狭くなって行き、進んで行くと途中に倒木が積まれ、行き止まりになっていた。
「行き止まりか」
「アル兄ちゃん。ここに小さな道があるよ」
茂みの奥にあったのは獣道のような細い道だった。
「行ってみよう」
獣道は肩の幅も無く、二人は木の枝を掻き分けて進んだ。時々道らしいものも無くなって木の根伝いに歩いたので、アフラは何度か木の根に躓いて転びそうになった。
そうしてどれだけ進んだろうか。恐る恐る進むうちに、森から急に開けた場所に出た。そこは小さな広場のようにお花畑が広がり、その真ん中に聳え立つ大きな楢の木へまっすぐな道が続いている。木の間から溢れる光が、筋となって草花を明るく照らしていた。
「ここなら羊がいるかもしれないぞ」
「きれいな場所!」
アフラはお花畑へ走り出ると、とたんに足を止めた。
その花畑の奥には、窓を全て花で一杯にした小さな家があったのだ。
「綺麗なお花のお家!」
「ヴァリス人の家だ!」
アルノルトは驚いてアフラに駆け寄った。
「見付かるとまずい。隠れろ」
花を摘みにかかるアフラを止めて、アルノルトは繁みに入ろうとした。
するとどこからか声がした。
「それ以上入ったら駄目だ! その人を止めて!」
その声に釣られ、アフラはアルノルトの腕を引っ張った。
その足に何か細い紐が掛かった刹那、白い羽が飛来した。
それはアフラが引いた勢いで倒れ込んだアルノルトの足の前を過ぎ、持っていた木の棒に突き立った。
「矢だ!」
二人は呆然と矢を見つめた。足元にあった紐を辿ると、その先に据え付けた弓があるのを見つけた。
「危なかったね。狼の罠に掛かるところだったよ」
今来た道の後ろには一人の少年が山羊を連れて立っていた。年の頃はマリウスくらいだろう。しかしその表情はひどく大人びて見えた。
アルノルトは身構えるように立ち上がった。アフラも立ち上がって草をはたき落とし、さっき転んで擦りむいた膝に触れて「イタッ」と呻いた。
「怪我しちゃったね。大丈夫?」
「大丈夫よ。さっき転んで怪我したの」
少年はアフラに駆け寄って、首に巻いていた赤いスカーフを外してアフラの傷に当て、スカーフをぎゅっと結ぶと、「これで大丈夫」と朗らかに笑った。
「ありがとう」
アフラが満面の笑みで言うと、アルノルトが言った。
「さっき助かったのは君のお陰?」
「そうとも言えないよ。その罠は僕が作ったから……」
「君が?」
「ここは僕の家の庭だ。勝手に入って来たら文句は言えないよ」
アフラがおもむろに山羊を指を差して言った。
「その子は羊?」
「違うよ。これは山羊だ」
少年がそう答えると、山羊も同意するように鳴いた。羊とは少し声が違って高い声だ。
アフラは山羊を撫でて言った。
「まさかウチの羊の毛を切っちゃったの?」
「違うよ。これははじめからだよ」
少年は不穏な雰囲気を感じ、山羊を抱え込んで、アフラから引き離した。
アルノルトがこれを見て笑った。
「この子は今まであまり山に出さなかったから、こういう白い山羊を知らないんだ」
アフラは羊の大きさを作って言った。
「私たち、はぐれた子羊を探しているの。これくらいの」
「子羊なら連れてかれたよ」
「アル兄ちゃん。大変!」
「大変な事件になった! それは誰に?」
「そんなのわからないよ。さっき向こうで遠くから馬車に乗せられるのを見たんだ。あまり見ないくらい立派な馬車だった」
アルノルトは飛びかかるような勢いで少年に尋ねた。
「教えてくれ! その馬車はどこへ行ったんだ?」
「どこかはわからないけど、峠の方さ。それよりここはもう僕らの森だよ。君たちが入ってくるとみんなの感情をひどく逆撫でるんだ。さっきみたいな罠もあちこちにある。早く出て行った方がいいよ」
アフラは目を凝らして聞いた。
「あなたはヴァリス人?」
「一括りでヴァリス人って君らは呼ぶけど、山にも色んな一族がいてね。ホントはラエティアって言うんだ……。でも父さんは元はウーリの村人さ」
「だからあなたは怒ってないのね」
「僕は慣れっこなだけで、この家が見つかったと知ったら他の人は騒ぎ出すよ。言葉も通じないし、何が起こるかわからないよ」
「じゃあ。ヴァリス人と私たちは仲良くなれないの?」
アフラはさも残念そうに言った。
「僕は……そんなことはないと思う」
「じゃあ私たちは? お友達になりましょう?」
「じゃあ、今度どこかで会ったら友達だ。でもここへは来ちゃあダメなんだ。場所も絶対に秘密だよ。さあ、早くしないと見付かっちゃうから」
「うん! わかった。じゃあ今度会ったらアフラって呼んでね」
「僕はジェミ。くれぐれも秘密だよ」
「兄のアルノルトだ。いろいろありがとう。じゃあ行くよ」
アフラとアルノルトは少年に手を振って、森を後にした。
二人は森から出て、道を下って行き、川沿いの道へと山を下りて行った。周辺に馬車が通れるのはその道しか無かった。
「アル兄ちゃん。そう言えば私もさっきこの道を通る馬車を見たわ」
「何だって! どうして言わないんだ!」
「だって今思い出したんだもの」
「どんな馬車か覚えてるか」
「白くて大きな馬車だった」
「きっとそれだ。追いかけるぞ」
二人は歩を早めて川沿いの道へと下りて行く。
川の流れは水しぶきを上げ、川の音を辺りに響かせるほどに急だった。川の水は山の雪解け水を含んでいて、まだとても冷たい。しばらく川に沿って歩くと、川の畔に水車小屋があって、粉挽きをしている年老いた農夫がいた。
「お早いですね。ビルゲン爺さん」
農夫は顔を上げて二人の方を見た。
「ああ。おはよう。今日は妹を連れて放牧かい? おや、今日は羊を連れてないのかね」
アルノルトは声を小さくして農夫のビルゲンに聞いてみた。
「実は羊が一頭はぐれてしまったんだ。こっちの方で子羊を見なかった?」
「そうかそうか、迷子の子羊を探してるのか。いやあ見なかったなあ。まあ馬ならさっき馬車が通ったがね」
アルノルトとアフラは顔を見合わせた。
「それって白い馬車?」
「ああ。白かったな。馬も白いんだよ」
「その馬車に乗せられたかもしれないんだ。どっちへ行ったの?」
「この上の方だよ。連れ去られるのを誰か見ていたのかな?」
「うん。ありがとう。ビルゲン爺さん。探してみるよ」
アフラは遠くに見える森を指で差して言った。
「お爺さん。あそこでね……」
そう言った時、アルノルトが首を振って言葉を制した。
農夫のビルゲンは指の先を目で追って言った。
「何だい、アフラ? 眠りの森がどうかしたのか?」
「あの森のヴァリス人は怖い人なの?」
「ヴァリス人! そりゃあ怖いとも。昔にはあそこのヴァリス人との争いがあったんだ」
「入ってはだめなの?」
目を真ん丸にして農夫は言った。
「だめだ、だめだ。お父さんに聞かなかったのか? あの森からはヴァリス人の土地、草原は我々の土地と決まっておる。ましてやあの森の奥には眠れるドルイデが今でも眠り続けていると言うではないか。何をされるかわかったもんではないぞ」
「ドルイデって何?」
「そうさのう。ヴァリス人の村長みたいなものだな。聞くところには魔女だと言われている」
「魔女!」
アフラはおずおずとアルノルトの腕を掴んだ。
「ハ! 怖くなったか! ならばあの森には入るんでないぞ!」
アルノルトはアフラの手を引いて歩き始めた。
「じゃあ。まだ探さなきゃ。ありがとうビルゲン爺さん」
「ああ。見付かるといいね」
農夫のビルゲンは手を振って二人を見送った。川沿いの道に出ると、道には轍がいくつか付いていて、確かに馬車の通った跡があった。二人はその轍の跡を辿って川沿いの道を歩き続けた。
「アル兄ちゃん。あのジェミって言う子は怖い子なのかな」
「そうは見えなかったなあ」
「でもビルゲン爺さんもヴァリス人は怖いって言ってたわ」
「ヴァリス人をたくさん奴隷にしてしまったからね。きっと怒ってるんじゃないかな」
「ひどい! 私たちの方がひどいことばかりしてるのね」
「今も家には武器が飾ってあるだろう。一昔前までアレマン族は戦いの民だったのさ」
「でも今はみんな平和に牧畜したり、野良仕事してるわ」
「どの家も武器を何処かに飾って置いているだろう? いざとなったら戦うつもりなのさ」
「あのおっとりしたビルゲン爺さんも?」
「当然さ。あそこの家にも槍と楯があったんだ。楯は庭でテーブルに化けていたけどね」
「へえ。じゃあ何故今はみんな平和になったの?」
「神聖ローマ帝国が教皇様の下に統一されたし、それにきっとこの場所がそうさせるんだろうな」
「この場所って?」
「うん。アフラはこの村が好きか?」
「うん。好き!」
「だろう? 僕もこの村が好きだ。この
「ふーん。でも、ヴァリス人は?」
「そうだね。少し仲違いがあるけど、山の民は山で同じようにそう思っているのかもしれないよ」
「あの森の奥には何があるのかな」
「さては入ってみたいんだな。アフラは」
「みんな怖いって言うから行かないけど……あのお花畑のお家はとっても綺麗だった。窓にもお花がいっぱい咲いてた」
「さてはあのジェミって子が気になるんだ」
「そうじゃないわ。もういじわる!」
アフラは兄からそっぽを向いてしまった。
道を行けども行けども何も見付からないので、アルノルトは途方に暮れて言った。
「このままじゃあ峠まで行ってしまう」
アフラも溜息を吐いた。
「馬車で遠くまで連れて行かれちゃったかなあ」
そこへ前の方から小さな馬が引く荷馬車が一台やってくるのが見えた。乗っているのは若い行商人のモランだった。
「ねえ、モラン」
「おう。こんなところでどうしたよ。アルノルト」
「この道で馬車とすれ違わなかった? 豪華馬車だそうなんだけど」
「いいや。峠付近から下って来たが、特に馬車とはすれ違ってないなあ。誰か探してるのか?」
アフラが腕で丸を描いて言った。
「おじさん! 私たち、子羊を探してるの。これくらいの。馬車に乗ってるの」
「子羊? 羊が馬車に乗ってるのか?」
「うん。そうなの。白い豪華馬車。見なかった?」
「羊も偉くなったもんだ。こっちは子馬に馬車を引かせてるってのに。そんな羊を見たら真っ先に言うだろうさ。それより俺を呼ぶ時はお兄さんかモランって呼んでくれ。おじさんにはまだ早いだろうよ」
「うん。じゃあモラン」
「まあ羊の足ならその辺りですぐ見つかるだろうよ。じゃあ行くよ」
モランはそう言って馬車を出した。アルノルトは何か考えながら山を見上げていた。
「峠から来て馬車を見なかったってことは、この辺の何処かの道で曲がったんだ。こうしよう、アフラ。お前はさっきの橋のところで曲がって、あそこにある山の高台に登って、周囲一帯を探してみるんだ。少し道がきついけど、行けるか?」
「うん。大丈夫!」
「僕は反対側のあの高台に行ってみる。もしミルヒや怪しい馬車を見付けたら、こっちに合図を送るんだ。方向を腕でこう往復してな」
「わかった」
アフラは小さな橋で手を降って兄と別れ、川を渡り、高台の方へと歩いて行った。
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