6日目〈宣戦布告〉
夜中。十時四十五分。
富永邸。よりも数メートル離れた門前。遮蔽物に隠れるようにして駐車されながら、しっかりと富永邸の様子を監視できる位置に着けられている白いバンにて。
「またあの野郎、誰か呼んだのか……?」
「懲りないですね……」
丸山警部補。そしてトオルに因縁があるからと彼に関する事件では毎度召喚されるリサ。それから二名の警察官が、突如として現れ富永邸へと向かうトレンチコート姿の男性に釘付けとなっていた。
身長は一九〇もあるだろうか。ネイビーカラーのトレンチコートにメンズマフラーを首に掛け、目深なハットとサングラスで顔を隠した英国人。何者かと問われれば、警察のデータベースにはないような謎の人物。
袖に隠れた少し毛深い白肌にちらつく金のロレックス。指輪をほとんどの指にはめているリッチマン。
その正体は。
「追うぞ」
「はい!……あれっ」
――ガチャガチャと。訝しんだ警部補がそう呼びかけ、リサと二人一斉に降りようとするが、開かない。その不可解に困惑しながらも張り込み車の前を悠然と歩くトレンチコートのその男へ睨みながら、しかしドアは開くことなく。
「ど、どうなってるんですか!」
鍵がかかっているわけではない。なにかが突っかかっているわけでもない。
開きそうではあるのだが、なぜかドアが押し戻されているような感覚に人が通り抜けれるほどの隙間が生まれることがない。
「く、くそ! なぜだ! こんな時に故障しよって!」
ガン!と丸山警部補がハンドルの縁を叩きつけて怒りを露わにする。
男はそのまま、インターホンを鳴らした。
警部補たちは、その男に接触できない。
――暫くして応答した富永栄司は辟易とした様子で扉を開けた。きっとまた警部補たちだと思っていたのだろう、思わぬ客人に呆然として目を細め、多少の態度を正してから男へと問いかける。
そんな様子にニヤリと笑う男がいて、訝しむような目つきをした。
「どなたですか?」
見上げるほどの大男だ。だがサングラスのせいでその表情は明かせない。
玄関先、謎の客人。
今度こそ怪しい人物であることは間違いないはずなのに、警部補たちが以前のように突入してこないことを不審に思う。
男はハットを取り外して胸元へ。どこか紳士的な態度でありながら、油断も隙もならないような警戒感が拭えない。
白髪の入り混じる黒髪をオールバックにしたダンディな中年男性。
彼はゆっくりと、その酒に潰れたような濁声で富永栄司を見据えた。
「俺お前の秘密知ってんだよ」
「……裏会の輩か?」
「違う。まあ話をしようぜ。時間はあるだろ、な?」
左手の腕時計を見ろと言わんばかりなジェスチャーに、富永栄司は彼の正体に思考を巡らしながらも見やった。
――時計の針が逆回転している。
「な」
くるくると回る時計の秒針。普通であればありえないような超常現象を目の当たりにし、富永栄司はつい目をパチクリとさせてしまいながら、更に深く思考する。
そうとしか考えられない結論に、溢れる笑みを隠せなかった。
「……どうぞ」
招かれる男。その男は、世紀の大悪党とされる怪盗の容疑者最有力候補と同じ名を名乗っていた。
――そんな玄関先で行われたやり取りに、富永邸。同時刻。
すでに潜入していた怪盗・桐谷トオルは活動を開始していた。
「いーまーのーうーちーにぃー……」
キャシーを外に連れ出すためにはあの部屋の扉を開けることのできるカードキーが必要だ。トオルのいつもの侵入ルートはさすがにキャシーは通れない。
別に時間稼ぎなんてしてもらわなくてもトオルなら楽々と盗めるのだが、あれだけ「その手の輩とは関わるな」と言っていた師匠がまさか正面突破で接触したがるとは思わなかった。
怪しまれること間違いないのに。あの師匠の行動とは思えないような無策さだ。
「なに話すんだろ……」
帰国してもらって、大して歓迎もできていないうちに始まった決行。多少聞き耳を立ててしまいそうになって、でも今日は大事な日だからと気づかれないようにこなしていく。
カードキーは手に入れた。師匠と富永栄司は玄関から向かって左手のリビングルームで話しているだろうから、そおっとした動きで右手側、バスルームなどがあり、そして隠し部屋へと繋がる通路の方へと進もうとして。
「四年前の航空機事件。お前が仕込んだんだろ」
――聞き逃せないワードがあった。
「何を言うんだ」
「異能力は幸せになるもんじゃない。お前がやってることはESP研究会となんら変わらねえんだよ」
ESP研究会。そのワードは確か富永栄司の書斎にあった書類束で閲覧している文言だ。
異能力者の開発を目指し、人工的な生成を目指す組織。戦後から密かに活動していたがその非人道的な体制は1980年に解体されており、ESP研究会で生まれた子供は全て処分されている。
ただ一人を除いて。
「現代の異能力研究において後天性異能力は致命的な状況を経た極限状態で発揮される人間の覚醒と言われる。お前がやったのは大量虐殺だ」
「………」
冗談のような話だ。現代社会のその中で、これだけの事をやってのけていた真実に息が詰まりそうになる。
生存が許されないほど過酷な状況を作り出し、後天性異能力の発症を観察する。それほどの環境下を作り出す事で命の危機を確固たるものとし、その中で生き残れたような奇跡の生存者を、手厚くサポートして。あるいは実験体にして。
「多額の義援金とバックアップ。さすが社長サンはやることが違う、たった一人でも異能力者が目覚めていればお前に取っては儲けものなんだろう」
キャシーは。
キャシーはどうだったのだろう。
四年前の航空機事故で両親を亡くし、日本の土地で保護された異国の少女。そして富永栄司に唯一引き取られた少女。
いや、それだけじゃない。四八〇名の乗客。生存者が五十人にも満たない最悪のその事件。
それは、どれほどの。
「お前は何がしたいんだ?」
鋭い瞳で師匠が睨む。富永栄司は、口を開いた。
「ふむ。ワタシはそうだ、ESP研究会に憧れていてね? 彼らの活動をワタシは支持している。そして復活させたいとも思っているんだ」
――遠目ながらも歪みを感じる。師匠のサイコキネシスが、空気を重たくさせている。
「異能力って素晴らしいものだと思うんだ。魔法みたいだ。奇跡のようだ。それを人為的に生み出したり、血清として販売するのも面白い。叡智を極め、文明を栄えた人類に、あと必要なのは進化なのだよ」
準備はもうあと少しで完了する。そう付け足すように呟いた富永栄司の悍ましさは、当事者にとってたまらないほどの嫌悪感をかましていて。
「どれほど文明が栄えようと。技術が発展しようと。テクノロジーが豊かになろうと」
「………」
「人が追いついていないんだ」
それは富永栄司の持つ、未来への展望。
「あんた異能力者だろ? あーん、ん、ん、んー、わかりやすく言えばサイコキネシスってやつか。当たりだな? この半世紀、人間社会にはポツポツと新人類が生まれてきている。だが基本的に自身ではなく他所に作用する能力ってやつは、人為的に生み出されたフェイクにしかあり得ていない。あんた、例の生き残りなんだろう?」
「うるせぇ」
「わざわざご足労ありがとう、異能力研究被害者を代表して。だがあんたが今までその羽振りのような人生を送れているのはどうせ能力のおかげだろ? 新人類。あんた、キリストになれたかもしれないのにな」
この男は、ダメだ、とトオルは改めて認識する。
「いや、ワタシが新時代の救世主か、はは」
「……そんな大層なもんじゃねえよ。異能力は」
「まさか。人類の夢を実現させる可能性だよ。不死能力を持った女性がいる」
そうやって語り出したのは、書斎に隠した保冷庫に保存している血液の、その持ち主の話だった。
「彼女はまあ、今にも死にそうなくらいのババアなんだが、老衰の瀬戸際をずっと維持しているんだ。不死なだけで再生することはなくてね。死んだような人間だ。だがその能力は、人類の悲願に等しい」
「なんだと?」
「殺そうとした事がある。だが彼女は今も生き続けてる。我々はその血を採取して、大金持ちほど不死を望むから売りつけたんだ。血だけじゃ何の意味もないんだが。実際に血清としての開発も進めていてね、異能力は人類を次のフェイズへと発展させる可能性を持つんだよ」
不老不死。人類が求めるその悲願。
それは異能力によって現実味を帯びる話であり、非人道的な実験や、研究は、そのために欠かせないものだと。
「キャサリン・クロフォード」
「………」
「彼女はなぜお前が引き取った?」
――トオルの今一番知りたい真相だった。
問いかけた師匠についグッジョブと心のなかで思いながら生唾を飲んで見守る。
富永栄司は深々とソファに沈み込むと、ゆっくり話し出した。
「彼女は先天性の異能力者だ」
四年前の航空機事故。そこにいたキャシーは、生まれてからの異能力者?
「驚いたとも。異能力者を生み出すための実験の中に、まさか本物が潜んでいるとは。そして生存に歓喜した。もしワタシがワタシの手で知らぬ間に異能力者を殺していたとあっては、発狂して自害してしまいそうだったからな」
「お前は本当に人を人として見てないんだな」
「いや、君たちを人として見てないだけだ」
言った。ついに言い切った。
まるで悪魔に見えてくる。
「だって人間じゃないじゃないか」
――予想以上に。
予想以上に、この男は、クズらしい。
トオルが遠目に見守る世界で、師匠が見たこともない静かな怒りを抱えているのがよく分かった。
対話ができる人間じゃない。文字通り関わるべき輩ではない。
師匠がもしも富永栄司の言う通り、ESP研究会唯一にして最後の成功例だったとするならば、彼の行為や存在は、どれほど憎たらしく、理解のできない敵なのだろう。
――インターホンが鳴った。扉越しに大きな声が響く。
「失礼! 警察の者ですが!」
トオルの血の気がさぁーっと引いた。
「やばいやばいやばいやばい……」
まだ何もしてない。ウカウカしすぎた。師匠の時間稼ぎ無駄にした。
ぶつぶつと誰にも拾われないような小声ですぐさま切り替え、隠し通路へと向かう。
日本風情を感じるような庭が広がるガラス張りの通路。その突き当たりにはお手洗いがあり、左に曲がるとバスルーム。その突き当たりは何もない。ように見えて、実は扉が隠されている。
がこんっと玄関先まではさすがに届かない音を立て、開くは薄暗い直進の道。どこか埃が積もっているのは家政婦すらも踏み込ませず、掃除が行き届いてはいないからか。
隠し通路。そして隠し部屋のセキュリティはかなり甘い。誰かに侵入されたり脱走されるという想定がないのは隠しているからこそで、いざこの時が訪れればただの廊下と変わらないレベル。モニタールームもキャシーの部屋もカードキーで潜入可能。
トオルは迷わずにカードキーをキャシーの部屋に通し、Piという電子音と共に重厚な扉を開いた。
「トオル!」
「やぁキャシー」
ふりふりと。扉が開くや否や、駆け寄ってきたキャシーに微笑みかけて歓迎する。
ぎゅっと抱きついてきてくれた彼女を受け入れながら、トオルはとんとんと背中を優しく叩いた。
「だいじょうぶかい?」
「ええ、問題ないわ、ふふっ」
これから外へと行けるのだ。今までずっと閉鎖的な空間に押し込まれていたキャシーは、初めて扉を超えて外に出たことに興奮気味な笑みを隠しきれずに笑う。
もう一度ぎゅっと抱きついてくれるのに、トオルはなれないスキンシップに少し照れくさくなりながら。
「手をつないで行こうか。キャシー、難しいかもしれないけど、少しの間だけ透明になっていられる?」
「うん! がんばるわ、トオル」
「えらいね」
頭を撫でてあげるとまたふふっとわらうキャシーが愛らしく。
隠し通路の入り口まで来た。
耳を澄ませる。
――早くもパトカーが到着してしまったらしい。複数の雑多な足音と微かな富永栄司と警部補の会話、リサの指揮が耳に届く。
「……ったくこんな時間まで……」
近場に一人いるようだ。数メートル先、一人だけ。用を足しにでもきたのか知らないが、深夜の呼び出しにどこか憂鬱そうな声音を見る。
ガチャリ、とトイレに入っていく音がした。
「よしキャシー、出るよ」
「ええ。……んっ」
がこんっ。慎重に開ける隠し扉に、透明になったキャシーと手を繋ぎながらレディーファースト。そのままジェスチャーで「まってて」とキャシーに言い、隠し扉を閉め、トイレから男が出てくるのを待つ。
……大か? うぇ、少し嫌だ。
長いトイレに待ちぼうけ、水を流す音にそろそろだと息を潜める。ガチャ、と開け放った扉に、トオルを横目に見ようとする瞬間を、
「うっ」
素早い手刀で沈黙させた。
「よし、キャシー」
ひそひそと。透明になっている彼女がどこにいるかわからないため一度呼びかけ、まだそこにいてくれているのを知るとトオルは片目ウィンクで口元に人差し指を立て、キャシーを面白がるように言った。
「これは企業秘密だよ」
男を引き釣りトイレへと入るトオル。ゴソゴソと少し音を立て、五分も立てばガチャリと華奢な警察官が現れた。
「かんぺき」
顔も声も少し違う。けれど雰囲気はトオルそのもの。少し戸惑うキャシーは、すっと手を差し出してくる警察官のその優しい笑みに多少の確信をもってその手を受け取った。
確かにそれは、変装したトオルに違いない。
「行こう」
「うん!」
◆ ◆ ◆
逃走用のルートは師匠に頼んで任せてある。今回はただのオタカラとは訳が違い、それが人である以上今までのように一人で行う逃亡劇はさすがに無理だ。助けがないと警察を振り解けない。
だけれどどうやら、師匠はリビングで富永栄司と一緒に事情聴取を受けていた。「ワタシニホンゴワカラナイ」なんて自分が外国籍なのを良いことに見え見えの嘘を吐く師匠に少し頭を抱えてしまいながら。
警察が介入した以上、富永栄司と師匠の認識の中には「異能力関連であることを悟らせない」があるわけで、片方が何も知らないフリをしてもう片方が嘘の説明をするのは正しいと見るべきか……些か、関係性を見ると苦渋そうで察してあげた。
「彼は……そう、あまり公には言えないんですが外国有名企業の社長さんで、今日だって外せない会合の席でした。わざわざご足労頂いたのに、貴方達の突入のせいで台無しだ」
富永栄司がペラペラと嘘をつく。最後の一言に至っては被害者ヅラが上手すぎて少しイラッとしてしまいつつ。
「大丈夫だよキャシー」
耳打ちするような言葉を、手を繋いでいる見えないキャシーへと送る。ぎゅっと優しく応えるような返事が、手元に送られた。
さてどうするか。
手前玄関はすでに複数のパトカーが止まり、予告状の指定時刻に備えて警備の準備を始めている。リビング奥の裏口は数名の警官が張っており、警部補とリサは師匠と富永栄司に詰問中。その他四名ほどの警官が異変がないかをチェックするため、室内の写真撮影や確認をすでに行っていた。
警察官に変装したトオルは「んんっ」と咳払いして溶け込むように努力する。
あまり不自然にならないようにキャシーと手を繋いで歩きながら。
師匠と少し視線が合った。どうやらすぐに見抜かれたようだ、ぱっと目を逸らし更に用心深く警官として振る舞う。
と。
「ちょっとあんた、手伝ってくれる?」
――まさかのリサからのご指名だ。
「は、はい」
応じる以外に道はない。キャシーには少し残酷だけど、パッと手を離して目立たないジェスチャーでそこに留まるようにお願いし、隠せない緊張感を持ちながらリサへと近づくが。
「こども? 子供なんていたか?」
「うおっ、いつのまに」
――後方からそんな声が聞こえて、トオルはすぐに振り向いた。
不安そうに白いワンピースをぎゅっと握りしめて、その両目の碧を揺さぶりながらこちらを見つめるキャシーと目があった。
「……っ!」
ハッとした。前を向く。
富永栄司もキャシーに気づいていた。
血の気がさぁーっと引いていく。
師匠と目があった。動くことはできない。ぴし、と身体が凍り付いてしまうような危機的状況に、目の前にいたリサは、そんなトオルの横を素通りして真後ろのキャシーへと向かっていけば。
「あらかわいいお嬢さん。ごめんなさい、大勢がいて驚かせてしまっているわね。――富永さん、彼女のお部屋は二階ですか? あたしが安全を持って連れて行きますよ」
「ああ、でしたらワタシも同行します」
――どくん。どくん。と心臓が鳴る。
不安そうなキャシーの手を取り、いつもの剣幕とは違う優しそうな声音で保護しようとするリサを横目に見ながら、確かな足取りで続いてトオルの横を素通りしていく富永栄司に。
「いえ!」
トオルは強く声を上げた。
「僕が、彼女を連れて行きましょう。巡査は警部補に付いていてあげてください。……僕が、やります」
止まぬ動悸の緊張感。品定めするような目つきが面白がるように細められ、富永栄司が続いて「それではいきましょうか」と続ける。
不安そうな眼でトオルのことをじっと見つめるキャシーに、どこか震えた乾いた声音で「大丈夫だよ」と投げかけながら、彼女の手を取って階段へと歩き出した。背後を富永栄司が歩き出す。
「あちら、ですか」
「ええ。曲がって突き当たりの部屋がワタシの娘の部屋です」
そこにあるのは子供部屋。もちろんキャシーのいた隠し部屋ではなく、まさしくこんな時のために用意されている偽装部屋。紛いものの、作り物。
ガチャリと扉を開けて入る。ファンシーなベッド。本棚。カゴから溢れたいくつものおもちゃ。学習机。閉まりきったカーテンはきらきらと。
ただそこには、例えば写真だとか。似顔絵だとか。歴史を語るものはない。
絆を語るものはない。
部屋に入り、わざとらしくも彼女を部屋の中心に座らせ、落ち着かせる。
扉を閉めた富永栄司が、ゆっくりと鍵を閉めたことに気づいた。
「大丈夫だから」
「うん……」
言い聞かせる。なかば自分自身へと。
初めて経験する緊張感。初めて経験する冷や汗に、ゆっくりとトオルは立ち上がり、ドアを前にして陣取る富永栄司を見据えた。
彼は懐から取り出した質の良さそうな黒手袋を嵌めていた。
「お前がネズミだな?」
――息が止まる。
「私の後ろに隠れてて……」
震える声音で、役を演じることもなく、それでもキャシーを庇うように前に立った。
心臓がうるさい。緊張にどうにかなってしまいそうだ。
この場を切り出すいくつの手段が、思考停止に思いつけない。
「その子を返せ」
富永栄司が一歩踏み込んだ。
「イヤだ」
キャシーを庇いながらトオルが及び腰に威勢を放つ。
こちらはすでにタンスを背にして下がることができやしない。
「返せ」
一歩。
「……イヤ」
二歩。
「はやく」
三歩。
「ダメだ!」
目の前。ぱしっとトオルの腕が掴まれた。
捻り上げるように持ち上げられ、ぎりぎりと強く握りしめられて「つっ」と痛みを押し殺しながら見上げる。
すっと富永栄司の右手がトオルの首へ伸びた。
「っ⁉︎」
持ち上げられていた手を振り解いた。間髪なく左手も添えるようにトオルの首へ。
戸惑う脳にがんっと背中をタンスに打ち付けられ、その上の小物がじゃらっと揺れる。小さな悲鳴を上げたキャシーが部屋の隅に逃れたのを尻目に、ずり落ちるように尻をついた。
富永栄司はなおも押さえつけるように首を握り、手袋の擦れる鈍い音を出す。
「ッあ……!」
もがく。もがく。体格差がありすぎる。男性のがっちりとした肉体に、トオルの華奢な体躯では覆すことが叶わない。
足をジタバタとさせ、体を捻ったりして、ついに体勢は仰向けに。馬乗りに乗られ、少し滲んだ視界で見た富永栄司のその顔は、醜い殺意に染まっていて。
「きゃ、しー……!」
フー、フーと鼻息荒い呼吸。ひどい興奮状態でトオルの首を締め上げようとする栄司に、トオルが全力を出して手首を握り、離させようとするも、むずかしい。
床に押し付けられ、馬乗りになられては逃れることも叶わない状況。
上を仰ぎ見たときに、キャシーの姿が見えなくて、彼女は透明化しているのだと思い、最後の力で呼びかける。
と。
「なっ……くそ!」
彼女の勇気の行動だった。
トオルの首を絞める栄司へ体当たりし、右手を抱えて離させようと力いっぱい引っ張る少女。
富永栄司は突然の彼女の出現と妨害に苛立つような声を上げ、抵抗していたが煩わしくなると――裏拳でキャシーの頬をビンタする。
「きゃあ!」
「チッ!」
とたん吹き返すような酸素にトオルは身体を丸めながら咳き込んでいると、富永栄司は頬を打たれて崩れ込んだキャシーへと向かっていっていた。
「キャシー……!」
向かわなきゃ。呼びかけるが、身体の末端がピリピリとして動けない。
富永栄司はキャシーに馬乗りになると、尻ポケットにしまっていた小さな箱を取り出した。
「はぁー……はぁー……」
消耗したような呼吸音。その中でも富永栄司のその眼はトオルとキャシーへの深い敵意に染め上がり、パタンと栄司は箱を開いた。
取り出した注射器は、見覚えのあるものだった。
「ま、まって、だめ、やめて……!」
「フー、フー、フー……!」
叶わない。止めに入れない。ジタバタとするキャシーは、トオルよりも力がなくて、どうすることもできやしない。
片手で簡単に押さえつけられ、注射器を握った右手で彼女の肩口を見据える栄司は。
迷うことなく、プスッ。と刺した。
「あぐっぅ……!」
「は、はは、はははは……!」
「富永っ、栄司ぃぃ……!」
キャシー。キャシー。
口では恨めしく奴の名を呼びながら、心の中では彼女を心配して、でも体はまだうまく動かせなくて。
適合するか、死ぬかの二択。
だが適合するわけなんてない!
あんな設備も整ってないような空間で調合された試験投与の一回目。そもそも彼女の扱いは被験体でなく〝実験体〟なのだから!
「キャシー! キャシー……!」
呼びかける。呼びかけ続ける。
富永栄司は投与の完了に力を使い果たし、乾いた笑いでくらりと壁を背にして息をついていた。
すぐにトオルは彼女のもとへ向かい、抱き抱え、様子を観察する。
「キャシー!」
息が荒い。肩口はどこか蝕まれたように血管を浮かべ、彼女の能力がまるで暴走するかのように彼女の存在をブラし続ける。
「キャシー、起きて、キャシー!」
呼びかけ続けて。しばらくすると、キャシーは呻くようにも少しずつ、けれども弱々しく応じてくれた。
「わ、わたし、死んでしまうの……?」
「そっ、そんなことない! 大丈夫だよ、私なら、師匠なら! きっと、なんとかできるから! 待ってて、寝ちゃだめだ!」
「うん……うん。わたしは貴方を信じてるわ、トオル。貴方の手が、暖かくて、気持ちいいの。王子さまみたい……きっとわたしが眠ってしまっても、きっと貴方なら目覚めさせてくれるのね」
「キャシー……」
だめだ、だめだ、それだけはだめだ。どこか気弱に、いまにでも消えしまいそうな様子でトオルに優しい笑みを向けるキャシーに、ついついトオルは涙ぐんでしまいながら。
「だいじょうぶ、大丈夫よ、トオル。ねえ聞いて?」
「なに……?」
「ここにいるわたしみたいな子は、わたしだけじゃないの」
――初めて聞いたそんな話に、愕然とした。
「もっと奥に、もっと下に、誰かの声を聞いた気がする。ねえ、わたしの王子さま。その子たちも、わたしみたいに救って、外の世界を、もういちど……」
「一緒に、やろうよ……」
「ふふふっ、できたら楽しいわね。わたし、怪盗には、相棒ってものがつきものだって、知ったの。わたし、貴方の相棒になりたいわ。そしたら二人で楽しいのよ、きっと」
「やりたい、やりたいよ、やろう……? だから今は、喋らないで。絶対救うから」
「そう、ふふ、ええ。でもね、ちょっと、眠たくなってしまったから」
「キャシー」
「ここからのトオルの活躍を、見れなくてちょっと寂しいけれど、あとでお話聞かせてね。きっとわたしは目を覚ますわ。楽しいお話は大好きですもの」
「うん……。楽しみにしててね」
彼女が眠る。
――さあ、逃亡劇の始まりだ。
「ワタシは逃さないぞ、地の果てまでも」
「私たちは貴方の行いを許さない。異能力者を人と見ない敵へ」
これは富永栄司。引いては異能力者を人として扱わない人たちへの、宣戦布告に他ならない。
「……クク、そうか。きさまも、異能力者か。ふははっ」
「うるさい」
キャシーの言った他の子の存在や、富永栄司の悪行の全容も気になるが、追求できる暇がない。
カクンと手刀の一打で意識を落とした富永栄司を傍に寄せ、ガムテープで口を縛り、ベッドの足と彼の胴体をロープで結んで拘束して。
可哀想ながら変装の元とした男性もトイレで同じ目に合っている。
――外は警察だらけだ。師匠はそろそろ姿をくらまして先回りしといてくれるだろう。一度アリバイと時間を作るために警官としての姿を正し、適当な言葉で問題ないことを伝え、警察が真相に気づくのを遅らせよう。
予告状まで十分を切った。
どうせなら警察には、これから始まるんじゃないかと思わせるような物語の始まりを。
抱きかかえたキャシーの浅い呼吸とその熱を感じながら脱出を図る。
屋根の上に登ると、ちょうど中継ヘリコプターのライトがトオルの姿を強く照らした。パトランプが明るく夜を染め上げて、トオルの姿を確認するやドドドドドーっと警察官が突入する。
「現れたな怪盗! 今日こそ絶対逃さんぞ!」
相変わらずの警部補だ。
大きく深呼吸。
さあ、いつもみたいに。いつも以上に。
怪盗・桐谷トオルとして続けてきた、その決め台詞を。
きっとキャシーがいつかこの話を聞いたときに、楽しんでくれるような物語としての一頁へとするために。
怪盗はエンターテインメントだ。
師匠の言葉が強くトオルの胸に反芻する。
「すぅー」
さあ。コミカルに演じよう。
それが怪盗としての本質で、きっとキャシーを目覚めさせる物語へとなるはずだから。
「こーんにーちはー! 怪盗・桐谷トオルのおっ出ましですよー!」
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