10月 武田くん(仮名)のこと
とにかく、新しい友達をつくるのが苦手な子どもでした。20代になってもなかなか人見知りが治らず、どうしてもうまくみんなの輪に入ることができませんでした。
大学のゼミは、たしか同期が6、7人ぐらいの少人数でしたが、その小さな集団の中でさえ、わたしはなかなか打ち解けることができませんでした。リア充な感じの男子がいて、何人かの女の子もどちらかというと「陽キャ」寄りで。みんなふつうにフレンドリーだったんですけどね。
ただ、ゼミの中でひとりだけ、武田くん(仮名)とは、少しだけ、個人的に仲良くなりました。
眼鏡をかけた、丸顔の、こう言っては悪いけど、割とぱっとしない地味な男の子でした。まあ、ひとのことをどうこうは言えませんけど。
お互い、人付き合いが苦手なもの同士というのはすぐにそれと察するものです。もともとの性格に加えて、武田くんは、大学から遠く離れた地方の出身で、言葉のアクセントや文化の違いで馴染めずに、1、2年生の頃はずいぶん悩んだと言っていました。
◆ ◆ ◆
二人でどんな話をしたんだったか、もうあまり覚えていません。本とか、音楽とか、そんなことについて話してたと思います。たしか、村上龍の『69』をふたりとも読んでました。武田くんは「タイトルだけ見て、最初は大エロス巨編かと思ってた」みたいなことを言ってて、いっしょに笑った記憶があります。
武田くんはキャンパスからひと駅のところの、鉄筋コンクリートの古いアパートに住んでいました。何度かゼミのあとで遊びに行って、ゲームとかをして過ごしたこともありました。
アパートの近くには教会があって、時刻になるとガランガランと大きな鐘の音が聞こえました。外国みたいでいいなあ、と思ったものです。
隣の部屋の女の子がヤカンか何かで火傷をして、彼の部屋に助けをもとめてきたことがあったそうです。応急手当をしてあげたとか。
それでお近づきになったりしなかったの、と聞くと「いやー、なんにもないよ。あいさつするだけだよ」と笑ってました。
善良で、内気で、物静かで、「歩いて」を「あるって」と発音し、変な笑い方をする武田くんでした。
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卒業後、彼は親元に帰り、たしか向こうで一度就職して、それから辞めたんじゃなかったかと思います。しばらくの間、年賀状のやり取りだけが続いていました。
何年かして、一度、突然電話がかかってきたことがありました。わたしは仕事の合間だったかで、あまり長く話すことはできませんでしたが、彼は「近いうちに一度そっちに行くから、会おうよ」と言っていました。懐かしいね、うん、会おうよ、いっしょにご飯でも食べよう、とわたしは答えたと思います。
◆ ◆ ◆
数か月後に迎えた次のお正月、彼からの年賀状は来ませんでした。
少しあとで、ご両親からはがきが来ました。「生前は息子がお世話になり」云々というようなことが書いてありました。
それから間もなく、ゼミの指導教授から電話がかかってきました。
「あんた何があったか知ってる? わたしねえ、あの子、自殺なんじゃないかという気がして仕方がないのよ」
頬がすうっと冷たくなるような気がしました。
わたしも教授と全く同じことを思っていたからです。
◆ ◆ ◆
ご両親に連絡を取ろうか、と思わなかったわけではありませんが、実行に移す気にはとてもなれませんでした。ですから彼に何があったか今でも分かりません。分からないまま何年も経ってしまいました。わたしの携帯電話には、何となく消すに消せないまま、いまだに彼の電話番号が残っています。
時間とともに記憶は薄れてゆきます。ごくささやかですが、ここに書いたのは、今となってはわたししか知らないことです。わたしが忘れてしまえば、この世界から消えてしまうできごとです。ですからフィクションではなく、エッセイの形でここに残しておこうと思います。
2020年現在、彼の本名で検索してみても、なにひとつ見つかりません。
猫村は意外にしぶとく、こうしてまだ生きています。あのころ思いもしなかった世界で、あのころ思いもしなかった毎日を送っています。
◆ ◆ ◆
彼が亡くなってから何年か後に、こんなことがありました。
ある朝のことですが、目が覚めてふと、枕元に置いてあった携帯電話を見ると、発信の履歴が残っていたのです。彼の電話番号の。
どうやらわたしは、無意識の故意なのか偶然なのか、眠っている間に武田くんに電話をかけていたようなのです。
もちろん、誰もその電話に出た形跡はありませんでした。
行き場をなくしたわたしの発信は、からまりあったケーブルと電波の網の奥に消えてしまったのでしょうか。それともどこかで、何も知らない誰かの携帯電話を鳴らしていたのでしょうか。
着信ではなく発信ですから、超自然現象でもなんでもないんですけどね。
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