第12話

 


 少しの間、言葉を紡げなかった。

 ただただ、絶句していた。


 犬吠埼の身体に浮き彫りになった傷跡を見て、初めは、また新しい怪異や呪いにでもかかったのではないかと疑った。しかし、これは怪異が付け入る隙もなく、人間同士の問題だった。それも、すでに終わってしまった事件だ。どうしようもないほど、終わりきった話だった。犬吠埼はすでに母親と引き離され、自立して生活を営んでいる。このようすだと、母親との和解を望んでいるようでもない。そもそも、母親と仲直りしたところで、彼女の容姿がきれいさっぱりなくなるわけじゃない。あの傷は、もう、決して消えないだろう。心の傷と同じように、ずっと犬吠埼の肌に残り続ける。そして、傷跡を見るたびに、彼女は暗い過去を思い出させられる。


 なるほど。


 犬吠埼が吸血鬼になったほんとうの理由が判明した。 

 ぼくは、あまりにも愚かだったと自戒せざるを得ない。

 吸血鬼を治してやることばかりに気を取られて、物事の本質を見失っていた。


 そもそも、少し考えてみればわかることじゃないか。


 綺麗になりたい。それだけの理由で、ほんとうに吸血鬼に出会って眷属にしてもらえるはずがない。人間が、怪異や神さまなどの霊的な存在と接触できるのは、複数の条件が一致したときだけだ。それが今回の場合、虐待の跡をなくしたい、人に見られたくない、鏡に映る醜い自分の姿を見たくない、などの負の感情が、吸血鬼の特徴と合致してしまった。

 そして吸血鬼に出遭って、眷属にしてもらえたのだと狂気的なほどに思い込んでしまった。


 救われない話だ。

 生まれながらの美しさで名声を得て、それを一方的に奪われた。


「……」

 なんて声を掛けるべきなのだろうか。

 自分の無力さを噛み締める。

 犬吠埼は、すべてを独白したあと、険しい表情でくちびるを噛んでいる。


「傷が治ったままの状態で人間に戻れるなんて、話が良すぎるよね」

 悲壮な声だ。

「やっぱり、こんなんだったら、吸血鬼のままの方が……」

 ぼくも一瞬思ったことだ。

 けれど、そんなこと、思わないでくれ。人間であることを辞めるということは、死を受け入れることに等しい。彼女にそれを、諦めてほしくはなかった。

 それじゃああまりにも、報われない。


「犬吠埼……」

「そもそも、吸血鬼でいられたのが、異常だったんだね。これが、わたしの本来の姿。淀町くん。もう、どうしようもないんでしょう?」


 そうかもしれない。ぼくは万能の神さまでも魔法使いでもない。半分神で、半分人間の、中途半端な、出来損ないだ。彼女の傷跡を、消し去ることなんでできやしない。


「わからない。まだ、なにか方法はあるかもしれない」

 犬吠埼は首を振る。


「……、無理だよ。淀町くん、吸血鬼として長い間一人で生きていたわたしを、昼の世界に連れ戻してくれたのは、心の底から感謝してる。淀町くんに出会わなければ、わたしはこのまま、一生吸血鬼として生きていく以外に選択肢がなかった。ほんとうに、ありがとう。でも、こればっかりは、淀町くんでも、」

「そんな」


「吸血鬼になれただけでも、ラッキーだった。あんなの、言ってしまえば、ずるみたいなものだったんだよ。久しぶりに太陽が見えて、ほんとうによかったよ」


 問題を解決できたとは、口が裂けても言えないじゃないか。

 夢が終わって、現実に戻ってきたって、ことなのか?

 傷のない美しい身体を取り戻して、その心地よさを実感してしまったら、いまさら傷だらけの姿は受け入れがたい。

 理想を経験した後に、現実に引き戻されたような状態だ。


 気がつけば、犬吠埼は涙を流していた。

 身体に無数の痛々しい傷があっても、彼女自身の美しさは不変なものに思えた。


「いまはまだ、人間に戻ったばかりで、不自由な部分もあるだろうけど、少しずつ慣らしていこう」

「……」

 不安げな表情で、犬吠埼は言葉を紡げない。


「晴れて、吸血鬼は治ったんだ。でも、それでさよならと去れるほど、ぼくは鬼じゃない。だから、君が元の生活に戻れるように、できるだけのことはする。約束する。ぼくにできることがあったら、なんでも言ってくれ」


 事件の解決によって物語は閉幕するが、本当に大変なのはきっと、その先だ。フィクションと違ってエンディング後にも人生は続く。


「これから、うまく、生きていける自信がないわ」

 声が震えていた。恐れが見える。


「大丈夫だなんて、無責任なことは言えない。でも、これはいわばリハビリだよ。いまはまだ、リハビリすらしてないんだ。ここからがスタートなんだ」

「……」


 無言だった。


 頭の中で、さまざまな感情、思考がうずまいているのだろう。

 状況を言うと、吸血鬼だったときよりも深刻だと言える。吸血鬼状態について悩んでいると言いつつも、彼女には、どこかそれを楽しんでいるような余裕があった。それが今はまったく皆無だ。


 その後もできる限り、犬吠埼に寄り添おうと言葉を投げかけていた。

 しかし、彼女の受け答えは釈然とせず、虚ろな瞳は焦点を合わせない。

 しばらく無言の時間が過ぎて、彼女が口を開いた。

「今日はもう、1人にしてほしい」


 ゆっくりと、ぼくは立ち上がった。


「そうか。じゃあ今日のところは、これで失礼するよ」


 これ以上、僕にできることが思いつかなかった。犬吠埼の今後のことは、精神状態を含めて懸念事項だが、今は、そっとしておいてあげる方が得策かもしれない。無理に、薄っぺらい励ましを並べ立てても、かえって陰鬱な気分を誘発するだけだから。


「また来るから」

 社会復帰できるように、僕にできる限りのサポートをしよう。


「犬吠埼、ちゃんとご飯食べろよ」

「……、うん」

 目を合わせずに、口だけを動かして、犬吠埼は答えた。


 後ろ髪引かれる思いで、ぼくは犬吠埼の部屋を後にすることにした。




 

 淀町幸太がいなくなったあと、犬吠埼ひのでは、しばらくの間、そのまま布団にくるまってじっとしていた。電気を消した真っ暗な部屋で、カーテンは開けられたままだ。静かに時は流れる。ときどき、静寂をかき消すように、車やバイクが通り過ぎる音が聞こえた。


 そのままでいると、だんだんおなかが空いてきた。

 人間は、食事を摂らないと生きていけない。

 血液を飲むことで不死を得る吸血鬼とは、わけが違う。


 そう思って、冷蔵庫の中身でも確認しようとするが、でもその前に、粉々にした洗面所の鏡を、片付けないと。

 それを思い出して、彼女は立ち上がり、ゆらゆらとおぼつかない足取りで洗面所の扉を開いた。すぐに、亀裂の入ったいびつな像と、床に散らばった破片が視界に入る。 


 彼女はしゃがみ込んで、ひとつひとつ、鏡の欠片を摘まみ上げる。

 大小、さまざまな大きさに砕けた鏡を、かき集める。


 それが終わると、立ち上がって、目の前にある、穴だらけの鏡が目に入った。

 まだ壁にくっついたままの鏡の破片たちが、犬吠埼ひのでの姿を映し出す。


「うぐっ……」


 眩暈がした。

 どうしようもない嫌悪感が襲い掛かってくる。この体のせいで、やりたいことができない。自由に生きることができない。普通の人間のような生活が叶わない。


「もどりたい……」


 ぽつりと、考えるより先に、口が言葉を発した。

 はっとした。

 それを言ってしまった瞬間、感情がとめどなく溢れ出てくる。

 戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい。

 だんだんと、思考がその言葉に占領されていく。その考えは、頭の中でどんどん膨張していく。


 吸血鬼に、戻りたい。


「ああ……。そうだ」


 外はすっかり夜のとばりが下りている。

 犬吠埼ひのでは、夜の世界に飛び込んだ。

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