第10話
ぼくは現在高校三年生。吸血鬼もどきに血液を献上する二重生活が終わりを告げて、ようやくもとの生活に戻ることができた。吸血鬼が治ったから、犬吠埼も学校に来るだろう。
犬吠埼の家に通い詰めていたときに知ったことだが、どうやら僕と犬吠埼は同じ学校に在籍しているようだった。僕のほうはそれを全く知らなかったのだが、犬吠埼と邂逅した最初の夜、僕が女子生徒の制服を着ていたのを見て、犬吠埼は僕が同じ高校の生徒であることを悟ったのだという。クラスは違うが、確認すると同学年に学籍はあるもののずいぶん長い間欠席して空気になっている席があることが分かった。
犬吠埼は大丈夫だろうか。ひさびさすぎて溶け込むのに苦労するのだろうか。訳ありだから多少の腫物扱いは避けられないだろう。まあ、あの美貌なら、少なくとも男子にはちやほやされるだろうから平気か。目立つのには慣れているだろう。
学校までの道のりはそう遠くはない。だからぼくはいつも徒歩で通学をしている。温かい日差しが降り注いでいて好天だった。歩いてると、だんだんと同じ制服を着た生徒たちが多く目に付くようになった。そして15分もしないうちに目的の学校に辿り着いた。校門をくぐって下駄箱で靴を履き替え、三階まで地道に階段を上る。学年を上がるごとに階層も増えていく。最近はエレベーターでもないものかと億劫になってしまう。
そうして、ぼくは教室の自分の席についた。
ホームルームが始まるまで、そう時間がない。隣のクラスのようすを確認しにいきたいところだけれど、ホームルームのあとにでも行こうか。ぼくは読書でもして時間をつぶした。
朝のホームルームが滞りなく終わり、クラスメイトは次の授業の準備を始めた。教室の喧騒のなか、ぼくは隣のクラスを覗きに行った。
あいにく、ぼくは友人が少ない。他クラスともなればなおさら。だから知り合いに「今日○○来てる?」なんて気軽に訊くことができない。ともなれば不審者のように覗き込んでひとりひとりの顔を確認して元吸血鬼を探し出さなくてはならなかった。
「あれ?」
その前にひとり、知り合いに姿に遭遇した。それはぼくの数少ない友人のひとりだった。篝月千佐都という名前の生徒だ。ちなみに、ぼくは彼女から制服を貸してもらってあの日の夜に吸血鬼に出会ったのだった。ぼくは呼び寄せて声を掛けた。
「千佐都、このクラスだったのか」
「はい。幸太さん。どうかされたんですか?」
「ちょっと訊きたいんだけど、きょう犬吠埼ひのでは学校来てるか?」
「犬吠埼さん? はて、そんな名前の生徒は……、ああ。まだ一度も学校に姿を現していない方ですね。いいえ、きょうも学校には来ていないみたいです」
「来てないだって」
「はい。あそこが犬吠埼さんの座席です」
見遣ると、たしかにそこには誰の姿も見られない。
いったい、どういうことだろう。遅刻か? 訳アリだから学校生活で目立つのが嫌で敵前逃亡したのか。早計な判断はしたくない。
「犬吠埼さんと知り合いなんですか?」
「まあね。それにしてもまだ来てないのか。とにかく、ありがとう千佐都」
「はい。ではまた」
ぼくは自分の教室に戻った。
さすがに、思慮が足りなかっただろうか。よくよく考えてみれば、一年半も休んでいた学校に立った数日前にした決心で再び登校するというのは、ずいぶんと勇気のいる行動だ。すぐにもとの生活に戻れると想像しているほうが浅はかだったかもしれない。
若干の不安を内包しながら、ぼくは休み時間のたびに隣のクラスにようすを確認しにいき、犬吠埼の姿を探した。
けれど、結局、犬吠埼を見つめることなく、放課後になってしまった。
心配になったので、ぼくは帰路で寄り道をした。帰り道は真逆の方角なのだから、これなら自転車で来た方がよかったと後悔した。少し歩いて、ぽつりと立った三階建てのマンションに辿り着く。
インターホンを押した。
いままでなら、待ってました! と言わんばかりの勢いで扉越しに足音が聞こえて、僕の首筋に飛びついてくるのが犬吠埼ひのでという人物だった。
しかし、10秒ほど経過しても一向に反応が見られない。
もう一度インターホンを押してみる。
また、応答はなし。
不審に思って、ドアノブに手をかけてみる。すると、カギはかかっていないことが分かった。女の子の一人暮らしには不用心だなと思いながら扉を開けた。
「犬吠埼?」
暗い廊下が奥に続いている。なかはとても静かだ。
床にひとつ、市指定のごみ袋が置かれていた。
「上がらせてもらうよ」
返事はない。ぼくは万が一のことを考えて警戒しながら部屋へと入った。
カーテンは閉め切られて、夕日の臙脂色がかろうじて差し込んでいる。
一瞥して、犬吠埼の姿を確認することができなかった。ベッドの中にもいないみたいだ。ぼくはカーテンを開けて光を取り入れる。8畳の1K。部屋のどこにも彼女の姿はない。
あと探せる場所といったらトイレと洗面所、風呂場くらいしかない。
廊下に戻って、くまなく探す。
トイレにはいなかった。玄関に靴はあるから、外出してはいないはずだ。外にいるのなら、彼女は裸足で出かけたことになる。
最後に、僕は洗面所の扉を開けた。
窓は部屋にひとつしかないから、電気をつけないと真っ暗だ。電気をつけようと洗面所に足を一歩踏み入れると、ぱき、という音が聞こえた。
なにかを踏みつけたみたいだ。
明るくして足元を見てみると、細かなガラスの破片が床に散らばっていた。
「……。なんだよこれ」
正面に顔を上げると、洗面所の鏡は木っ端みじんに砕け散っていた。その破片が洗面台に蓄積している。
「え」
鏡の断片には、壊れた万華鏡のように、いびつな像が破片に映し出されている。ぼくの表情は硬直していた。状況を理解できない。
洗面所に犬吠埼はいなかった。そうなれば、あとはひとつしかない。
浴室に明かりは見えないが、とにかく扉を開いた。
洗面所の電気が入り込んで、暗闇をうす明るく照らした。ぼくの視界に飛び込んだのは、水の浸らない浴槽で、毛布にくるまりながら小さくなっている犬吠埼ひのでだった。
「おい、犬吠埼」
おそるおそる、声を掛ける。
びくりと、身体が震えたのが分かった。ぼくの存在に気付いても、彼女は目を合わせようとしない。それどころか、犬吠埼は焦点を合わせずに目の前の影を見つめているだけだった。
「どうしたんだよ犬吠埼。なんで浴槽なんかに入り込んでるんだ」
視線が一瞬こちらに動いた。けれど、目を合わせようとはしない。
ぼくは電気をつけて、風呂場を明るくした。犬吠埼に近づいて、彼女の肩に触れた。
「洗面所の鏡、あれどうしたんだよ。いったい何があったんだ」
「かがみ……。う……う」
犬吠埼は両手で頭を抱えた。毛布から覗く彼女の身体は、ずいぶんと薄着に見えた。上はタンクトップだった。毛布一枚でも、今の季節はまだ肌寒い。
「だいじょうぶか。とりあえず、部屋に移動しよう」
言い聞かせて、犬吠埼がじぶんから立ち上がるのを待った。
手を引くと、犬吠埼はようやく身体を動かした。
そのとき、彼女が立ち上がるのと同時に、その身を覆っていた毛布がするりと落ちた。
「え……」
ぼくの目に入ったのは、無視することのできないものだった。
それは、犬吠埼の透明感ある肌をまだらに塗っている不自然な跡。
手首、背中、肩、太もも。
服を着こんだら見えなくる部分の至るところに、傷があった。
最近できたものではない。
やけど跡。アザ。切り傷跡。
どう考えても、事故によってできるレベルの傷を超えている。
これは、紛れもない。
「いや! ……見ないで!」
震えた金切り声で、犬吠埼が叫んだ。
そして再び、バスタブに座り込んでしまった。
「どうしたんだよその傷」
「見ないで。見ないで。見ないで。見ないで……」
壊れた機械のように、同じことを繰り返し呟いた。その声はとても小さく、震えている。
「気持ち悪い。気持ち悪い。醜い。醜い」
犬吠埼が、うわごとみたいに声に出す。
はたから見ても、今の犬吠埼の精神状態は異常だった。
「落ち着いて、犬吠埼」
どうしてこうなった。吸血鬼は治ったはずだ。一緒に日の出を見届けて、犬吠埼は太陽の下を生きていける人間にもどったじゃないか。ぼくは、どこかで間違えたのか? なにか、重大なことを見逃していたのではないか?
ぼくの心情も困惑でいっぱいだった。
まず、ぼくが落ち着かないと、どうしようもないのに。とにかく、見かけだけでも冷静に努めよう。犬吠埼を、どうにかしないと。
「わかった。見ないよ、目を瞑る。信用できないならその毛布で体を覆えば見えないから。とにかく、部屋に行こう。ここにずっといるのは良くないよ」
狭い風呂場に閉じこもっていれば、心まで閉塞的になってしまう。
「淀町くん……」
「ほら、犬吠埼、行こう」
片手で目を覆い、もう片方の手を彼女に差し出した。その手はしばらくのあいだ空中で止まっていたが、最後に犬吠埼がぼくの手を握った。
足元の鏡の破片には注意を払いながら、ぼくは犬吠埼を引っ張って部屋までやってくる。犬吠埼はベッドに腰かけた。ぼくはそれに向かい合うようにローテーブルの前に腰を下ろす。
「もう、目、開けていいか」
「……。うん」
ぼくはそうっと瞼を開いた。
正面には、布団にくるまって肌の露出を最低限に抑えた犬吠埼の姿が見える。顔以外のすべてが隠されている。彼女の顔は沈み切っていた。
「学校に来てないから心配して家を訪ねてみたら、鏡は壊れているわ、バスタブに隠れているわでびっくりしたよ」
「ごめん……」
彼女は俯いて、目を合わせようとしない。
「一緒に日の出を拝んだ日から今日までに、いったいなにがあったんだ」
ぼくは一気に本題に踏み込む。
犬吠埼の吸血鬼問題は解決したはずだ。見たところ、それ以外の怪異的な問題は見られなかった。では、この傷跡はいったいなんなのだろうか。
「わたし、もう、大丈夫だと思ってたの。だからずっと忘れていて、すっかり治ったものだと。吸血鬼から人間に戻っても、平気だろうって」
犬吠埼は顔を上げる。
「淀町くんに、黙ってたことがあるの。わたしが、吸血鬼になりたいと願った、本当の理由。きれいになりたかったっていうのは、嘘ではないけれど、真実とも言えない」
ぼく自身も、気にならなかった訳じゃあない。美しくなりたいと願っただけで、吸血鬼なんかになれるはずがないのだ。吸血鬼を治す、彼女を人間に戻すというその結果ばかりに気を取られて、本質を見逃していた。失念していた。幽霊とか、怪異とか、神様に関係する問題というものは、人間の精神に深く関係している。犬吠埼の心に寄り添っていたつもりでも、実際は表面上の部分だけしか見ていなかった。
いったん、犬吠埼は口をつぐんだ。二の句が継げないようすだった。
「聞いてもいいか。その……、アザのこと。吸血鬼になった、本当の理由」
苦しそうな表情のまま、犬吠埼は小刻みにうなずいた。
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