第9話



 それからの一週間というのは、語ってもまるで面白くない。


 禁血三日目にして欲求はピークに達した。吸血以外のことは考えられず、ひたすらベッドに臥し、枕を口に含んで気を紛らわせる時間を過ごしていた。目は虚ろ、受け答えは釈然としなかった。ぼくが同じ空間にいると却って欲求を扇動しかねないので、あまり長いはしないことにした。しかし犬吠埼が衝動的に家を飛び出して通行人を襲っては危険なので、監視体制は怠らなかった。


 犬吠埼の情緒は不安定で、唐突に泣き出すこともあった。


 ひとつの見方では、吸血鬼でい続けることは簡単だっただろう。ただ、人を襲って血液を奪えばいいのだ。半分人間ではないぼくからすると、人間であり続けることの方がよっぽど困難だ。一度道を外してしまったとしたらなおさら。人間でいるということは、それほど大変で、そしてありがたいことだ。


 だから少なくとも、人間でいられる存在に、人間であることを諦めてほしくはなかった。


 僕が経過観察に彼女の自宅に訪問すると、犬吠埼は十中八九布団にくるまって縮こまっていた。それがとても不憫に見えたから、コンビニで買ってきたてきとうな食糧をテーブルに放置して気晴らしの声を掛けた。


 犬吠埼にとっては、とても長い一週間だったことだろう。

 そうして、耐え忍ぶ一週間が経過した。






「犬吠埼。起きろ」


 一週間が経過して、ぼくは再び犬吠埼の部屋までやってきた。ぼくの長い通い妻二重生活にもとうとう終止符を打つときがきた。当たり前のように部屋に入ると、彼女はいつものようにベッドに丸くなっていた。背中はこちらを向いているので、表情はわからない。


「ん。んん……」


 犬吠埼は気だるげな声を発した。起きていると欲求を駆り立てられてしかたないから、眠る以外にすることがないのだ。


 ぼくは滔々と告げる。

「一週間たったよ」


「そう。もう、一週間……」

 虚ろに言った。瞼は重い。


「これで、本当に人間に戻れたの……」

 不安な表情を浮かべて、僕の方を窺う。ゆっくりと上半身を起こして、自身の姿を見る。銀色のロングヘアに手櫛を通して、その色を観察する。しかし、それは依然として銀色のままだ。犬歯を触ってみても、鋭いことに変わりはない。


「姿は、吸血鬼のままみたいだけど」

「いや、犬吠埼はまだ吸血鬼もどきのままだよ」

犬吠埼は懐疑的な表情を浮かべる。


「そう心配する必要はない。現状は、君の吸血鬼性を取り除く準備を整えたに過ぎないんだ。つまり、人間に戻るために手筈が用意できたということだ。これから、あとひとつ、することが残っている。それをしたら、君は晴れて、ただの女子高生に戻ることができる」

「それって?」


「太陽を浴びることだ」


「え……」


 犬吠埼は怯える。それはそうだろう。いままでずっと、犬吠埼にとって、太陽光は忌避すべきものの象徴だった。日光に対する恐怖心は、この二年間でこれ以上ないくらいに成長したことだろう。それを今、太陽の下を歩けと言われたら、誰だって慄く。


「太陽を浴びても、ほんとうに、大丈夫なの、よね……」

「もちろん、保証しよう。犬吠埼は日の光を受けても、灰になることはない」

 犬吠埼はしばらくその場に硬直して熟考していた。


「いまから、日の出を見に行こう」

「え?」


「岬の近くの砂浜で、日が昇るのを見届けに行こう。いまから行けば、頃合いだ」

「でも」

「犬吠埼はこの一週間を耐え抜いた。それは称賛に値する。あとは、もう少しの勇気があるだけで、すべてが元に戻る。君は人間に戻れる」急かすようだが、僕は言う。「さあ、出かける準備をして」

「わかったわ」不安げな顔はそのままに、犬吠埼はクローゼットを開けた。


 犬吠埼が着替えている間、ぼくは廊下で待っていた。


「終わった」

 扉越しに声が聞こえて、犬吠埼が姿を現した。


「え。その恰好は一体……」

 彼女は真冬のような着こなしをしていた。ブラウンのトレンチコートにロングスカート、手元を見れば手袋をはめていて、首にはマフラー。顔にはなんと白いマスクとサングラス。頭はいつものキャスケットを深くかぶり、灰色の髪が隙間から垂れている。徹底的に肌の露出を避けているようだった。さらには日傘まで持っている。


「やっぱりちょっと、不安、だから」

「まあ、いいか。杞憂に終わるだろうけどね」

 思わず苦笑する。


 それでも、犬吠埼にとってみれば真剣なのだ。約一年半の間、外を普通に出歩くことさえ、彼女からしてみれば異常なことだった。彼女にとっての常識は、まるで一新されてしまっている。それを今日で終わらせてしまおう。



 ぼくらは屋外に出た。

 日の出にうってつけの場所をぼくは知っている。さいわい、その場所はここからそう遠くない位置にある。自転車で難なく向かえるところだ。深夜だから交通機関はまったく眠っているし、かといって運転免許は持っていない。ぼくとてまだまだ青い高校生だ。自転車を使うしか足がない。


 二人乗りをすることについては神様に目を瞑ってもらうことにしよう。


 犬吠埼を後ろに乗せて、ぼくは目的地まで必死に自転車を漕いだ。二人乗りには慣れていなかったので、ずいぶんと不安定な走行だった。目的地に着くまで、犬吠埼は終始緊張した面持ちで体をこわばらせていた。


 目的地に近づくと、潮の香りが濃くなってきた。

 耳を澄ませば、波の寄せる音がする。

 たどり着いた時にはまだ、真っ暗で何も見えなかった。ひたすらに黒が続いていた。夜の海はなんだか恐ろしい。


 僕らは砂浜を前にして、コンクリートの段差に腰を下ろした。


「ここで日の出まで待とう」

 犬吠埼は素直に従ってちょこんと三角座りになった。膝を抱えて小さくなっている。


 外に出てから、彼女はずっと無口だ。

 待っているとすぐに、東の空、つまりは海の先の空がオレンジ色にうっすらと白んじてきた。陸続きの岬には、大きな白い灯台が望める。

 やがて、水平線の先から、より鮮明な光が見え始めた。いよいよ、日の出の時間だ。


「わたし、やっぱり……」


 震えた声で、犬吠埼が地面に手をついて、立ち上がろうという動作をした。太陽への恐怖心は、長い間の昼夜逆転生活で十分すぎるほどに募ってきたはずだ。ここでもなお、犬吠埼はあと一歩を踏み出せずにいる。その葛藤は表に見えている以上に複雑に違いない。ほかの年ごとの女の子のように青春を送りたいという願望、吸血鬼のままでもいいという諦観。色々な感情が混ざり合っている。


 僕は犬吠埼の手を取った。

 その白い手を強く握りしめる。


「安心しろ。君ははじめから、人間だったんだよ」 

 そう、すべては思い込みから始まったんだ。


「太陽を浴びて灰になることなんて、ありえない」

 そうやって彼女を説得して、少しの間見つめ合っていた。


 すると、犬吠埼の顔の半分が影を作った。


「ほら、もう日は顔を出した」

 水平線の向こうに、大きな太陽の輪郭が姿を現した。犬吠埼もサングラス越しにその姿を確認したはずだ。

「あ……」

 犬吠埼はその場に立ち尽くして、光に釘付けになった。彼女が太陽を拝むのは、実にどれくらいぶりなのだろうか。


 僕は犬吠埼の背後に回り込んだ。

「もう、サングラスも帽子もマフラーもいらないよ」

 そう言って、日光を遮るものを取っ払ってやる。すると、犬吠埼の表情がはっきりと見えるようになった。瞬きは少なく、彼女はゆっくりと双眸に太陽を映した。


 口を結びなおす。

 犬吠埼はおもむろにコンクリートの段差を一歩ずつ下って、砂浜に足を突いた。分厚いコートをかなぐり捨てて、靴もどこかへ放り出してしまう。歩みは次第に速くなり、白く波立つ海に足が触れた。彼女はそのまま足首まで海に浸かる。


 さざなみの音が鮮明に聞こえる。


 犬吠埼は腕を水平線に掲げて、手のひらを透かして見る。鮮やかな臙脂色が見えた。それから、手をくるりと翻して観察する。


 僕はゆっくりと犬吠埼のほうへ歩いて行って、その隣に立った。

 彼女は僕の顔を窺う。

 僕は微笑みかけた。

 すると、犬吠埼は再び水平線の日の出に向き直って、こう言った。


「おはよう。淀町くん」

 何度も噛み締めるような言い方だった。


「ああ。おはよう。犬吠埼」

 日の光に照らされて、犬吠埼はもはや吸血鬼でも吸血鬼もどきでもなくなった。犬吠埼ひのでは紛れもない人間だった。光の中に包まれて、消えてしまいそうな幽霊のような儚さは、とうに消え去っていた。まったく違った美しさをもった鮮明な少女が、ここには立っている。


 犬吠埼は空を仰ぐ。

 瞳を閉じて、世界の夜明けを堪能しているのだろうか。その口元は少し綻んでいる。

 計り知れない暗闇からの脱出を見届けることができて、僕は感慨深く思う。

 犬吠埼はしばらくの間、太陽を味わっていた。その途中で、「あったかい」と言葉を漏らした。ぼくは「だろう」と答える。


 そのうち、僕は砂浜に腰を下ろした。

 少し離れたところで犬吠埼を眺めていた。日の出の光を浴びる彼女は、まるで妖精のようだった。自由な羽を取り戻した妖精。そんな場面が思い浮かんだ。


「そっちの方が似合っているよ」

 僕は犬吠埼の髪の毛を指さす。

「え?」

 いつの間にか、吸血鬼の銀色の頭髪はぬばたまの黒に戻っていた。犬吠埼は僕に指摘されて初めてそのことに気が付いたようだった。


「ほんとだ。黒に戻っている。それじゃあ」

 口を指でいっーっ、と広げて、鋭かった犬歯を触って確信した。

「安心していい。誰がどうみても、普通の女子高生だよ」

 心なしか、白かった肌も、いまは健康的な素肌に戻って見える。


「そう……」

 犬吠埼は僕の後方、つまりはまだ夜が残っている西の空を望んだ。そこには、深い群青がのっぺりと広がっている。彼女は少しの間それを見つめて、なにを思ったのだろうか。吸血鬼だった夜中の自分にさよならを告げたのではないだろうか。


「そうだ」

 なにかを思い出したように、犬吠埼はぼくに目を向けた。

「淀町くん」

「なに?」


「ありがとう。ほんとうに」

 その言葉から伝わってきたのは、誠心誠意の感謝の想いだった。

 ぼくは微笑みで返した。

「あなたがいなかったら、わたしは今もその先も、ずっと吸血鬼もどきのままだったわ」

「かもね。でも、君は晴れて人間にもどった。吸血鬼であることには、もう懲りたんじゃないかな。美しくなりたいからって吸血鬼になりたいと望むなんて、短絡的にもほどがあるよ。人間が一番だ」

「そうね」

 犬吠埼は笑った。

 なにより、そもそも、犬吠埼は吸血鬼になるまえから傾国の美貌をもっていたのだから。吸血鬼に願わなくても、犬吠埼はそのままで十分きれいだ。


「犬吠埼。明日から新学期が始まるけど、また学校に通うようになるだろ?」

「うん。吸血鬼はもう治ったから、学校生活に戻りたい。でも、久しぶりすぎて、ちょっと緊張する」

「だいじょうぶだろ。一年の不登校のクラスメイトなんて、誰も覚えてないだろうさ」

「そ、それはそうなんだけれど。棘のある言い方ね」

「ごめんごめん」


「でも、よかった。ほんとうに」

 犬吠埼は風でなびく髪を耳に掛けた。










 でも、ぼくはそのとき気付いていなかった。

 犬吠埼の黒い瞳の奥底に、暗い暗い感情が眠っていたことに。


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