第8話
僕の血液を犬吠埼に配達するという奇妙な関係性が出来上がってからすでに一週間が過ぎている。今日も今日とて彼女のマンションに足繁く通う。日中、僕は普通の男子高校生として学校に登校しているので、この二重生活は身体に来るものがある。血液を献上しているわけだから、気力だけじゃなく体力までからっきしだ。あんまり長くも続けてはいられまい。
三階ぶんの階段を一歩ずつ登って、ようやく扉の前までたどり着く。いったん呼吸を整えて、丸いインターホンを優しく押した。するとドアの向こうから足音が聞こえてきて扉が解錠される。顔を現すのは世にも奇妙な吸血鬼、絶世の美女犬吠埼ひので。太陽の名前をもらいながらも日光を浴びられないなんて、なんとも皮肉な話だ。しかし、それもまあ、もうじき終わるときが来る。
姿を現した吸血鬼は、笑顔で僕を迎えてくれた。唇から鋭い犬歯が覗いている。
「淀町くん、どうぞどうぞ」
「どうも」
彼女はすでに準備万端の様相である。犬吠埼にとってのインターホンは、パブロフの犬にとっての鈴だ。ちょうど苗字に犬が付いているし、なんともおあつらえ向き。
短い廊下を通って、ワンルームへとお邪魔する。
ぼくはローテーブルの前に腰を下ろして、ベッドにもたれかかった。
すると、犬吠埼はベッドに乗っかってもじもじしだす。
「ねえ、きょうも、いいかな」
はいはい、手短にしてくれ、と、今までなら言っていたところだが、今日はちょっと状況が異なる。吸血鬼の治し方が判明したので、これ以上吸血させるとことはできない。
「いいや、きょうはそのまえに、ちょっと、話したいことがある」
「え。わたしもう、我慢の限界なんだけど……」
「うちの犬の方がまだ忍耐力あるよ」
呆れてしまう。吸血鬼の吸血欲求というものは、人間の三大欲求を上回るほど強いものなのだろうか。
「わたしが犬以下だというの」
「そうは言わないけども」
おもむろに、犬吠埼は両手をぐーに握りしめて、首を傾けながら、上目遣いで、「わんわん」と言った。
「……!」
ぼくは慌てて視線を添わす。
いけないいけない。あと少しで落ちてしまうところだった。
「ふーん」
ぼくのそっけないリアクションに、犬吠埼はつまらなそうにしている。
見た目に限って言えば、彼女はとんでもない美少女だ。吸血鬼だということを抜きにしても、人間として滅多にいないほどの美貌を備えている。きっと、吸血鬼になる前から、たいそう可愛かったに違いない。そんな人物が、さらに美しくなるために吸血鬼になりたいと願うだなんて、欲深すぎやしないだろうか。もしクラスメイトに犬吠埼がいたら、ぼくなんかは講義内容を一切覚えられないだろ。黒板を見ている場合ではないからだ。
「で、話したいことなんだけど、実は、君の吸血鬼症を治す方法が分かった」
ぼくは簡単に伝える。
驚いて、犬吠埼は目を大きくした。
「ほんとうに!」
「ああ。そんなに難しいことでもなかったんだ。例の吸血鬼を探さずとも、状況証拠は十分に揃っていた」
「結論から言うと、君はこれから一週間の断食、ならぬ断血をする」
「一週間……」
本当なら、一週間でもまったく足りないくらいだ。体中の血液を交換するのに必要な期間は成人でおよそ4か月。しかし今回の場合、そもそもそんなことをする必要性は皆無だ。なぜなら犬吠埼の吸血鬼性は吸血行為のみによって保持されている。吸血を止めてしまえば、たちまち吸血鬼化が解け始めるのが感じられるはずだ。
しかし、これには大きな問題がある。吸血鬼にとっての吸血行為はいわば生き延びることに直結しているが、犬吠埼の場合はこれに漏れている。彼女にとってみれば、これはむしろアルコール中毒や喫煙者のそれと似ている。彼女は中毒者となっているのだ。吸血しなくとも生きてはいけるが、それをしなければ死んでしまうという一種の洗脳がかかっている。これをかけたのは紛れもなく彼女自身だ。
「そんなことしたら、吸血しなかったら、死んじゃうよ! 吸血鬼ではなくなるけど、人間ですらなくなっちゃうでしょ」
「いいや、吸血せずとも君は死なない。君はそもそも、吸血鬼ですらないんだ」
彼女は唖然としている。言わんとしていることは分かる。
「吸血鬼であることの証のひとつは、首に噛み跡があることだ。眷属にされた吸血鬼には、必ずその痕跡があるんだよ。傷は吸血鬼特有の治癒能力を獲得したあとにも決して癒えない。つまり、君はそもそも吸血鬼にしてもらっていないんだ」
「そんな。でも、あのときわたしは……」
犬吠埼は当時の様子を回想する。わたしを吸血鬼にしてください。彼女は誠心誠意そうお願いをして、吸血鬼は不敵に笑ったという。そうして首筋を噛みつかれたあと、「あなたも可哀そうな子だね」と言い残して、夜の闇に溶けていった。
吸血鬼の発言が何を意味するかは知らない。とにかく、事実として。
「犬吠埼は単に、餌として、もてあそばれただけなんだよ」
ただの食糧だ。
「だとしたら、この姿は? この髪は? 歯は。説明がつかないじゃない」
「君は吸血鬼になりたかったんだろう。きれいになりたかった、そう言っていたね。逆に言うと、吸血鬼にならなけらばならなかった。だから、ただ吸血鬼に血を吸ってもらっただけじゃあ駄目だったんだ。だから、吸血鬼にしてもらえたんだと、自分に言い聞かせたんだよ」
「思い込みというのは恐ろしい。不都合な記憶は奥の方へ葬ってしまうものだ。髪が白いのは、自分で脱色したんじゃないのかい。歯が鋭いのは、単に君が偏食家になって痩せこけたから。肌が白いのは太陽に当たらないから」
「どうして、いまさらそんなことを言い出すの」
犬吠埼は悲哀の表情を浮かべる。
「君は吸血鬼に噛まれた日から、一度でも太陽を浴びたことがあるか?」
彼女は顔をしかめた。僕が何を言っているのか、まるで理解できないようすだ。
「そんなことをしたら、灰になって死んでしまうじゃない」
「だろうね。ということはつまり、一度も試したことがないんだろう」
犬吠埼はなにも答えない。
「自分の存在が不安になってきたかな」
疑いは大事だ。
「まあ、今言ったことのすべてが真実である必要はないんだ。自作自演ではなく、本当に吸血鬼化しているのかもしれない。ただ、君は自分が本当の意味での吸血鬼ではないことを認めなくてはならない」
「吸血鬼、もどき」
「そうだ。きみはそもそも眷属にはされていなかった。吸血鬼になったと思い込んだ結果、この現状を生み出してしまったんだ。それを持続させている鍵は吸血行為だ。それがすべての根本だ。吸血鬼だから吸血しなくてはならない。その観念で人を襲う。吸血によって、その容姿が現れている。だから吸血を止めれば」
「人間に戻れる、のね」
「そうだ」
犬吠埼は20秒間黙っていた。その間、ぼくはひたすら待っていた。
そしてようやく。
「わかったわ」
と一言。
「そうか。それはよかった」
「一週間、吸血を我慢すればいいのね」
「今日がその記念すべき一日目だ」
「ええ」
犬吠埼は小さく答えた。本当は、今にも僕の首筋に噛みつきたくて仕方がないだろう。
「もちろん、ぼくも君の禁血生活に全力でサポートしよう。けっこうな忍耐力を必要とするものだ。でも、最終的には君自身の力に懸っている。人間に戻れるかどうかは、犬吠埼しだいだ」
「そうね」
「大丈夫、きみは必ず人間にもどれる。ぼくが保証する」
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