第一章 日常
第一話 日常
暑い夏が終わり、意地を張っていた残暑も日に日に落ち着いてきていた。
遠くで物売りの笛の音が耳に心地よく聴こえてきて、ひとときの安らぎを感じる。
「見て、イワシ雲だよ。お腹すいたね」
縁側に横になりながら紅色の着物を着た少女は、長座布団の上で寝ている二匹の猫にちょっかいをだした。
縁側からは庭が見渡せて、そろそろ役目を終えるであろう夏野菜達が水を浴びてきらりと光って滴を落とした。
「風が心地よくなってきたし、ほどよく体も疲れてるし、この時間って本当に眠くなるのよね」
ふあっとあくびをしながら白猫の頭をくしゃりと撫でると、背中を合わせて寝ていた黒猫がちら、とこちらを振り向いた。
しかし、尻尾を軽く揺らしてもう一度まどろみの中に落ちてく。
陽が西の空に傾き、やわらかな風がさわさわと庭の柳の葉を揺らし音を立てる。
少女は耳上の髪を髪紐でひとつにまとめていたが、風に吹かれた柔らかな毛先は少し乱れていた。
ふんわりとまどろみはじめた時、かすかな匂いが鼻につくと少女と二匹の猫は同時にハッと顔を起こした。お互いの顔を見てにやりと口角を上げる。
「さんまのにおいだ」
合図をするでもなく我先に飛び起き台所へ駆け込むと、台所に立つ母親が菜箸を持ったまま鋭い目つきで振り返った。
「夕飯の支度中にドタバタするんじゃないよ。若葉と双葉は毛が飛ぶんだからあっち行って遊んでな」
ぴしゃりと言い放たれた猫達、若葉と双葉は、言葉を理解したかのように顔を見合すと、つまらなそうに土間の隅に歩いて行く。
「あたし手伝うよ、何する?」
「そいじゃ、大根をおろしてちょうだい」
はーい、と返事をしながら土間に下りて、二匹の猫を開いている引き戸から庭に追い出すと、台所の端に置かれている野菜かごに目をやった。
かごの中には畑で採れたきゅうりや茄子、トマトなどの夏野菜が入れられていたが肝心の大根が見当たらない。
「大根ないけど、他の場所にあるの?」
「あれ、本当かい? かごに入れてなきゃ使っちゃったんだな。そんなら悪いけど、ちょいと買ってきてくれる?」
「わかった。若葉、双葉おいで、八百屋に行くよ」
いつものように二匹に声をかけると、茶の間に上がり茶箪笥の上に置かれた小ぶりの鏡で髪を整えた。
「あ、そうだ小春。ついでに回覧板を隣の家へ届けて来てくれる? 机の上に置いてあると思うんだけど」
軽い返事をしながら、小春は戸棚から御使い用の財布を取り出し帯の間にしまう。
回覧板を手に取り玄関に向かうと、ゆるい声が家に響く。
「いってきまーす」
小春の動きを目で追いながら、庭に追い出されていた二匹の猫も一歩遅れて庭から外へとついて出て行った。
玄関を出て、小春は隣の家の門から顔をのぞかせる。
ここの庭は、どの時期も色とりどりの花を満開に咲かせており、見るたびにうっとりしてしまう。
今の時期は縁側のそばに背筋を伸ばす菊が並んでいる。しかしまだ花は咲かせておらず、蕾も硬そうだった。きっと今年も郷の展示会に出展するのだろう。
あと半月もしないうちに、ふっくらした大きな花を咲かせると思うと楽しみだ。
花壇を見ると先ほどまで草取りをしていたようで、そばには雑草が小さく山をつくっていた。
その雑草がなくなり、風通しをよくした色とりどりの白粉花が、やさしく風に揺れている。夕方になると香りだす、そのやわやかな甘い香りを大きく吸い込んだ。
「あら、小春ちゃん。こんにちは」
庭の手入れをしていたおばさんがこちらに気づき腰を上げた。
「おばさん、こんにちは。回覧板をお届けに来ました」
小春が歩み寄って回覧板を差し出すと、おばさんは軍手をはずしてからそれを受け取った。
「ありがとうね。もしよかったらちょっとお茶でもしていくかい?」
「いえ、これから八百屋まで御使いを頼まれているんです。大根きらしちゃってて」
「そうなのね。草むしりしてて焼き魚の良いにおいがすると思ったら、小春ちゃん家からだったのかしら」
そうなんですよ、と小恥ずかしそうに微笑み、小春は家の方を向きながらにおいを嗅いでみると、確かに良い匂いがここまで届いている。
「うちも夕飯は焼き魚にしようかと思ってね。さっき、じいさんに大根おろすのを頼んだところなのよ」
おばさんもふふふっと笑って、作業用の前掛けを脱ぎ始めた。
「さて、うちも夕飯の準備を取り掛かりますかね。それじゃ、御使い気をつけてね。回覧板、どうもありがとう」
おばさんは軽く手を振ると縁側から家の中へ入っていった。
小春も小さくお辞儀をしてから門をでると、外で待っていた若葉と双葉の頭を軽く撫でて八百屋へ向かった。
烏の鳴く声が鐘のように響き渡り景色の中に溶け込んでいく。
堀を挟んだ二本の大通りに出ると、帰る人や物売りの人、奥様同士で立ち話に花を咲かせている人々で賑わっていた。
周りの人々を横目に見ながら足早に進んでいると、たまに小春を見てなにやら囁く声が聞こえてくることがある。
「ね、みてみて、あの女の子。猫を二匹連れて歩いてる。どこかの劇団の子かしら」
「賢そうな猫ね、白と黒の対だし、そうかもしれないわね」
「待って、あの子って橘さん家の子じゃない? ほら、郷長のお孫さん。私も詳しくは知らないけど、母からあんまりあの家の人には近づくなって言われたことあるわ。なんでも**の家系らしくて……」
聞きなれたそんな声には目もくれずに、小春は黙々と歩き去った。
確かに初めて目にする人には、猫を連れて歩いている光景はいささか奇妙で滑稽な場面なのかも知れない。
しかし、小春にとってこれは幼い頃からの日常であるからして、今となっても別に変だと思うことはこれっぽちもないのであった。
それとは別に不可解な噂もあるようだったが、小春が知る限り自分の家は平凡な家庭であったし、仲の良い友達もいるのでさほど気にしないでいた。
昔、小春がもっと幼い頃に、気になって母親に尋ねてみたこともあったが
「動物がずっとくっついて来るのって珍しいから、妬ましくてそういうことを言われるのかもしれないわね。人っていうものは、時に羨ましいという感情を悪意に変えてしまうから」
そう諭されたことがあった。
この二匹の猫とは物心ついたときから一緒にいた。
いろんな場所について来ては、邪魔をするでもなく、ただそばにいるのである。
祖母がまだ健在だった頃は、祖母が軸となり猫と一緒に小春もくっついて駆け回っていたものだ。
いま思い返してみても祖母は不思議な雰囲気をもっていた。
言葉にするには難しいのだが、陽だまりのようなその雰囲気が心地よくて、猫二匹と一緒に読書中の祖母を取り囲んでは縁側で昼寝をしたものだった。
「おや、小春ちゃん。二匹の家来を連れて御使いかい?」
八百屋につくと店の前で椅子に座っている元店主のおじいさんが話しかけてきた。
以前は声を張り上げて体を張るような人だと聞いたことがあるが、若旦那に店主の座を譲ってからは見るからにご老人を営んでいる。
「こんにちは。大根欲しいんだけど辛そうなやつあるかしら? さんまに合せるやつなんだけど」
トウモロコシのもじゃもじゃした毛に手を出そうと、身構える黒猫の双葉の頭を小突きながら聞いてみる。よっこらせ、とおじいさんは重たい腰を上げて大根の前に立ちふさがった。
目を細めながら一つずつまじまじと大根を見つめる。
「ふーむ、よく目が見えんがこれじゃろう。他のよりひげ根が曲がってついておるからの、きっと辛めだぞ」
小春が尊敬のまなざしを向けながらお礼を言うとへっへっへー、とおかしな笑顔を浮かべながらおじいさんはまた特等席へと戻って行った。
すると、ちょうど店の奥から暖簾を手でよけて店主の奥さんが顔を出してきた。
小春は財布から小銭を取り出すと、奥さんに代金を手渡す。
「いつもありがとね。これ貰い物なんだけど、よかったら食べて」
小春の手のひらに、おつりと金平糖の包みがのせられた。
甘味が好きだった小春は笑顔でお礼を言うと嬉しそうに家路についた。
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