第4話

 彼が次に気が付いたときには、まだ海のなかにいた。まず彼はいつの間にか眠ってしまっていたことに驚き、そしてちょうど首の出ているあたりの甲羅を掴んで亀にひかれて海にいる自分に驚いて、ようやく夢からはじまった今朝の不思議な出来事を思い出した。それこそ夢と信じて疑わなかったのに、肌をなでゆく波の手のありありとした感じようは、夢とはとても思えなかった。

 彼は亀の行く手に目を凝らした。そこにはなにか異様な気配があった。彼ははじめて、潮流と潮流のぶつかり合う狭間を目にした。そこだけ海の色が濃くなり、二つの流れが内側へと曲げられて、なにかを覆い隠しているようだった。ちょうど、ちいさな虫が我が身を包み込むという繭のように。

 亀は躊躇わずに突き進んで行った。のみこまれるかと思った二つの流れは、その間際に帳を開くかのごとく、すっと色を失くして消えてしまった。そのとき彼は眼下に、光も届かないはずの海底に、輝く高い甍と細やかな金銀と漆の細工がほどこされた目にも鮮やかな朱塗の柱を持つ、巨大な宮城を見ていた。彼は驚嘆の息を漏らしたが、その口からもはや銀色の泡が生まれることはなく、それどころか吸いこめば花々の蜜や高貴な香を含んだかぐわしい風が肺へと流れ込んできた。

 いま彼は、千尋のわだつみの底に悠々と広がる綿津見神の居城、竜宮を目にしているのだった。それは海辺に住まう人々にとってあまりにも遥かな憧れと夢の園であり、無残に玉の緒を引きちぎる怒りの荒波を沈め、日々を潤わせる豊かなる恩恵を、という祈りの向かう先だった。それはそのまま、彼の夢であり、祈りであった。その場所が、手も触れられるほど近くにある。

 亀は波に乗って行った頃と変わらず、今度は風の流れに乗ってゆっくりと宮へ下りて行った。はてしない広さを持つ宮は、上空から見下ろしたのでも一目にはおさまらず、彼にはいまどのあたりにいるのか、少なくともずいぶんと奥まったところへと降りているらしい、ということしかわからなかった。

 ようよう庭々に植えられた庭木の少しばかり上あたりの高さにまで下りてきたときに、彼の耳に、すべらかな絹を乳雲が形を留めたと見紛うような白玉のすべってゆくような、乙女の妙なる歌声が聴こえてきた。


 鯨魚取り、浜辺を清み、うち靡き、生ふる玉藻に、朝なぎに、千重波寄せ、夕なぎに、五百重波寄す、辺つ波の、いやしくしくに……


 風の運ぶ声はか細くよく耳を澄ませなければいまにも見失いそうではあったが、辿って行けないほど遠くでもないようだった。そしてその声は、ひとたび耳にした者の心を捕らえて離さず、瞼の裏に歌う乙女の姿をおぼろに浮かび上がらせた。これほどの声を持つには間違いなく、この世の至高の宝に匹敵する類まれなる美を湛えているであろう乙女の姿を。

 彼の心は耳から流れ込む歌で満たされ、その姿を一目でも見ずにはおけなくなった。彼は甲羅を撫でて、はやる思いを押さえた声で囁いた。

「ここまで連れて来てくれて、ありがとうよ。十分すぎる恩返しだ。達者でな」

 亀が振り返る暇もなく、彼は甲羅を掴んでいた手を離した。途端に落ちるものと身構えていたがそうはならず、吹き上げる風に乗って鳥のように空を滑ることが出来た。


 ……月に異に、日に日に見とも、今のみに、飽き足らめやも、白波の、咲き廻れる、住吉の浜


 声の源へと彼は飛んで行き、広々とした庭園の池のほとりに生えて立派な幹を持つ桂の木の枝にそっと降りていった。なるべく音をたてないように枝葉をかき分け、下の方をうかがい見た。

 そこには、たった一人の乙女がいた。竜宮の深奥の庭園という場所柄といい、彼には見たことのない絹織の見事な衣といい、まちがってもただ人ではない、やんごとなき姫と見受けられるのだが、人払いをしているのか、侍女の姿などはどこにも見当たらなかった。

 かの姫は微笑みながら花びらの唇で歌を口ずさみ、そのまま天つ風に乗って空の彼方へ消えてしまいそうなほどかろやかに舞っていた。花模様の紋の浮かんだ紅梅色の衣に葡萄染めを重ねて黄色の帯を締め、紫の裳を履いた姫は、春の訪れを告げる女神か、山を霞ませるほどに咲いた春の花の化身に見えた。

 姫が舞足を踏みながら体を返すと、衣は翻り、裳はわずかに膨らんで流れた。そして、また別の歌を歌い始めた。


 おしてる、難波を過ぎて、うち靡く、草香の山を、夕ぐれに、我が越え来れば、山も狭に、咲ける馬酔木の、悪しからぬ、君をいつしか、行きて早見む


 葉陰から見守る彼は、あの姫は歌の意味をわかっているのだろうかと、小さく笑みをこぼした。彼女はわかっているつもりだろうが、きっと本当にはわかっていないのだ。何故なら、姫の横顔はあまりにもあどけなかったから。姫は腕の半ばにかけた衣が透けるほどの白の薄絹の領巾を風と戯れながら、ゆらゆらと遊ばせて楽しんでいた。その瞳ひとつをとっても、巌に叩きつける荒波や、身を引き裂く大風を知らず、己の紡ぐ美しい夢だけを映してきたのだとわかる。そんな無垢な姫だから、知るはずがないのだ。互いの腕の長さよりも遠く離れることすら耐え難く、何を見ても目に浮かぶのはただ一人の姿、聞こえてくるのはあの囁き、我が身を強く抱きしめてもなおやり過ごせない懐かしいぬくもり、そんな身の内を焦がすようにたぎる恋の物思いなど。

 彼女はようやく咲きほころび始めた花の蕾であった。けれども、ほどなく眠りから覚めるように、花弁を広げそうな蕾である。もし、かの花にほんの少しでも触れて優しく愛撫する手があれば、それに応えて花開くであろう。その予感がまた、彼の目を引きつけていた。


悪しからぬ、君をいつしか、行きて早見む


 姫は、恋に憧れる若い娘らしく、夢を見る瞳でその部分だけを幾度も繰り返していた。彼は飽くことなくその愛らしい舞を眺めていたが、強い風が吹き付けて姫の髪を飾っていた花の簪が滑り落ちたことで舞は終わりを告げた。姫は簪を拾い上げると、池のほとりに近寄った。水鏡に姿を映して、簪を挿し直そうと無邪気に思いついたらしい。


悪しからぬ、君をいつしか、行きて早見む


 姫はまだ明るい声で歌っていた。そして、簪を手に澄んだ水を見下ろしてそのたおやかな姿を映したときに、思いもよらないものを目にして息をのんだ。そこには、見知らぬ男の影も一緒に映っていた。しなやかな髪を無造作に一つにくくり、意思の強さを表すかのようなゆるぎのない直線を描く眉、そして闇夜の塗り込めたような漆黒の涼しげな瞳に、よく日に焼けた肌としなやかな若竹のような肉体を持つ青年の姿が。彼にも姫の驚きは後姿の姫の肩が強張ったのを見たので伝わった。彼が水面に自分の姿も映っていることに気が付いたときには、姫はもう振り返り、樹上を見上げていよいよ水の悪戯の幻影などではなく、見知らぬ男がすぐ近くにいると知って、小鳥が飛び立つような仕草で駆け去ろうとした。しかし、これきり見失うにはあまりに惜しかったので、彼は高さをものともせずに枝から飛び降りて、姫のほっそりとした手を取った。

「待ってくれ。逃げないでくれ」

 振り向いた姫の美しいかんばせには、ありありと恐怖が浮かんでいるのを見て、これはまずい、と彼は思った。姫は彼から手を振りほどき、再び逃げようとした。人を呼ぶこともできるのに、あまりに驚き恐れているので、声も出ない様子だった。彼はすかさず姫の手を掴みなおした。今度は力をこめず、かなうかぎり優しくやんわりと。そうでもなければ、彼の手の中で彼女の体は音をたてて崩れそうなほど頼りなくはかなげに見えた。

「乱暴をするつもりはないんだ。頼むから、逃げずに話を聞いてほしい」

 彼が急く心を押しとどめて、できるだけ静かで穏やかな声でささやきかけたのが功を奏したのか、少しは姫の耳に届いたようだった。けれども怯えは去らず、姫はわけもなく首を横に振りながら後ずさり、彼の手の内から自分の手を引きぬいて、みたび身を翻して逃れようとした。それをまた、彼も諦めずに手を取った。

「怖がらなくていい。大丈夫だから、逃げないでここにいてくれ」

 彼はそれだけ言うと、その声が、言葉が、姫にゆっくりと染みわたり、彼女のなかで意味を成すまで辛抱強く待った。最初のうち、姫は慎ましく袖の裏に顔を隠して弾いた弦のように体を震わせていたが、彼がじっと待っていると、そろそろと腕を下ろして、その澄んだ瞳を見せた。それから姫は、おずおずと彼のことを見上げた。彼は息すらひそませて、たいそう静かにしていた。その間に姫はこの若者が、容易には立ち入れないはずの姫の宮にいつの間にか入り込んでいたとはいえ、乱暴をはたらくつもりがないらしいということをゆっくりとのみこんだ。そのうちに姫の目から怯えの色は薄まってゆき、体の震えもおさまっていった。頃合いを見計らって、彼は微笑んでみた。すると姫はまぶしげにまた顔を袖に隠してしまったが、もう怯えてはいないのだとわかったので、彼は優しく話しかけた。

「驚かせたことは悪かった。怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ、この前ちょっと亀を助けてやったら、今朝方その亀がまた現れて、自分でも信じられないが、その亀の背につかまって海を深いところまで行ったら、いつのまにか竜宮にまで来ていて、そしたら綺麗な声が聞こえてきたものだから、つい気になって見にきてしまったんだ」

 衣の袖の向こうで、「亀?」と姫がつぶやいた。初めての反応に、彼は勢い込んで頷いた。

「そうだ。珍しい亀だったもので、浜の男連中がこぞって虐めにかかっていたんだ。それがどうにも見ていられなくなってね」

 姫は腕を下ろして顔をあらわにすると、注意深く彼を眺めた。

「まあ。それはお姉さまに違いないわ。お姉さまは夢で助けて下さった殿方のことはお話しにはならなかったけれど、それでは貴方はお姉さまにとっては大変ご恩のある御方なのですね?」

 いきなり熱のこもった姫の様子に、彼は少々面食らった。

「姉? 俺が助けたのは亀で、あんたのような女の子ではないんだが……」

「それでもその亀は、見たことがないほどに美しかったのではないですか?」

 彼は思い出して、確かに、と頷いた。すると姫は、ふいに息をついて愛らしく微笑んだ。

「ひどい夢をご覧になられたと、わたくしも悲しく思っておりましたけれど、お姉さまは貴方のような御方に助けて頂いていらしたのですね」

 先ほどから姫のいう夢のことがさっぱりわけのわからない彼は「夢ってなんだ?」とぜひとも問うてみたかったが、この姫の微笑みを見ると瞬く間にどうでもよくなってしまった。

「お姉さまがお連れになったということは、お姉さまのお客さまであらせられますのね。まあ、わたくし、なんて失礼をしてしまったのでしょう。どうかお許しくださいませ。心ばかりではありますが、精一杯おもてなしをさせて頂きますわ。さあ、どうぞこちらへ」

 浮き立つ声音で姫は宮の内へと誘ったが、庭から上がる段に足をかけたところで彼は気が付いて尋ねた。

「ところで、あんたはいったい誰なんだい? ずいぶん高貴なお姫さまと見たが」

 姫は振り向くと、「失礼を致しました」と居住まいを正した。

「わだつみの宮の主、海を統べる神、綿津見神の末の娘です。名は、オトヒメと申します」

 彼は思わず、今まで惜しくて握り続けていた姫の手を離した。日々の祈りを捧げてきた海の神の娘だと知って、その驚きは雷に打たれてもこれほどではあるまい、と思えた。

 彼は、驚嘆の息とともにつぶやいた。

「なるほど、どうりでべっぴんなわけだ……」

 若者のこのなんの飾りもないありのままの率直な賛美は、オトヒメの頬を着ている衣と同じ色に染め、「おたわむれを」と返しながらもその声はいまにも消え入りそうで、両の袖で顔を覆い隠してしまった。

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