第5話

 もてなしは盛大だった。彼の目にはどのような作りをしているのかとんとわからなかったが、夜の暗き海を波の白もそのままに固めたかのような石が、どれも寸分違わない大きさで床に敷き詰められてある回廊を行き、一つの扉を開けるとそこは彼の住む村がそのまま入ってしまいそうな大広間だった。廊下と同じ顔が映るほどつややかでひんやりとした床の上に、海驢の皮である美智皮を八重に敷き、その上にさらに織模様が見事な綾錦が八重に敷かれ、そこへ置かれた百の机に酒宴の用意がされていた。

 目を奪われて立ち尽くした彼を中へ引いて行って座らせたオトヒメは、はしゃいだ様子も隠さずにさっそく提子を持って酌をした。綿津見神の姫宮に、と彼は思ったが、オトヒメは一向にかまわず、むしろ彼が盃を引いたときには怪訝な表情を浮かべて、せっかく示した好意を受け入れてはもらえないのかと少し悲しげな目をした。その目に負けて盃を差し出すと、オトヒメは心の底から嬉しそうに酒を注いだ。この微笑みを前にしては、どうしてこの姫の望みを叶えず喜びを妨げるような真似が出来るだろうか。

 気が付けば、彼らの目の前には楽人たちが音合わせもすませて並びおり、見目麗しい舞姫たちが佇んでいた。舞姫たちは目が洗われるほどに美しいのを除いては特段変わったところなどなかったが、背筋を伸ばして楽器をかまえる楽人たちが獣頭に獣体の見るからに恐ろしい異形であることには肝を冷やされたが、彼に襲い掛かる素振りなど見せず、奏でる音色は見事なものであったので、彼も気にしないことにした。

 舞姫たちの舞に見とれていると、ふいに彼女たちが横に退き、空けた道の真ん中を通って誰かがこちらにやって来た。その堂々とした足取りにもしやと思っていると、隣のオトヒメが弾んだ声で「お父さま」と言ったので、もう間違いがなかった。綿津見神がそこに立っていた。

 大慌てで礼をとった彼に、海神はにこやかに無礼講を許して彼の傍らに腰を落ち着けた。彼は、ぼうっとして都合のいい夢を見ているのでは思いながら、海の大神じきじきの愛娘に対する親切の礼と、盃に酒を受けた。気丈でたいていのことは笑い飛ばせる度胸の持ち主ではあったが、神を前にしてはさすがに盃を持つ手が震えた。それをさも可笑しそうにオトヒメは笑い、どうか気をお楽に、と声をかけた。その優しく撫でる手のような声音に、ようやく彼は少し落ち着くことができた。

 にぎやかな宴のなか、一人の侍女が音もなくオトヒメに進み出て何事かを耳打ちした。侍女の話を聞いたオトヒメが途端に顔を曇らせるのを、彼は見ていた。侍女が下がったあとで、どうしたのかと尋ねてみる。

「お姉さまにお加減を聞きに参らせましたの。お姉さまにとって大恩のある、なによりお手ずからお連れになった御方ですもの。お会いになりたいはずですし、お会いになればどれほどお喜びになることか。けれども、ご気分が悪くていらっしゃるとのお返事で」

 まるで自分の気分が優れないかのように辛そうなオトヒメに、彼は「その姉君は病気かなにかなのかい」と訊くと、オトヒメは小さく頷いた。

「生まれた頃から御身体が弱くいらして、ずっとお床に伏せっきりでいらっしゃるのです。本当は、それはそれはお美しい方であられるのに、長いお病気のせいでずいぶんと痩せてしまわれて、最近では陽の光に透けて消えておしまいになりそうなほどはかなげでいらっしゃいますの」

 オトヒメは「かわいそうなお姉さま」とつぶやいて、しばらく目を伏せていたが、彼がじっと見つめている気配を感じて不思議に思い、顔をそちらに向けた。オトヒメの無言の問いに、彼はややためらいがちに答えた。

「たしかにかわいそうなお姫さまだが、あんたのほうがきっと綺麗なんだろうと思ってさ」

 なぜいきなりそういう話が出てくるのか、オトヒメは驚き呆れたが、諌めたり詰ったりする言葉は声にならず、両手で口元を覆って顔を背けた。そんな様子をも、彼は見つめていた。広間で繰り広げられている舞などよりも、よっぽど見つめていたかったのだ。どうにか恥じらいを押さえてオトヒメが顔を戻すと、すぐに彼の眼差しに出会い、彼が嬉しそうに微笑んだので、せっかくの努力も甲斐なく、またオトヒメは目を背けてしまった。それでもまだ彼の視線を感じた。そこでオトヒメは精一杯の思いつきから、ふいに父神に許しを請うた。

「お父さま。せっかくでございますから、こちらの御方にお父さまのご自慢のお庭を見せて差し上げたいと思うのですが、お許しを願えますか」

 海神は娘の願いを聞き入れた。それでオトヒメは立ち上がり、彼を「こちらへ」とうながした。


 オトヒメ自らが先立って、彼を案内した。そこは綿津見神の私室にほど近く、竜宮のなかでも特別奥まった、宮の中庭へ通ずる回廊であった。彼にとっては仰々しいと思えるほどの供の者が付いてきたが、回廊の途中で足をとめて彼らを見送った。何故かと尋ねると、オトヒメはここから先は海神と、その許しを得たもの以外は立ち入ることが出来ないのだと教えた。

 回廊が途切れると、中庭へ通じているらしい門が東西南北に四つ置かれた小部屋に出た。門はどれも長身の彼よりは丈が高く、いかにも重そうな木に漆が塗られ、きらめく螺鈿で装飾がほどこされていた。見ると、四つの門にはそれぞれ春夏秋冬の絵が描かれていた。

 オトヒメは彼に振り返り、微笑みかけた。

「ひんがしに春、南に夏、西に秋、北に冬、四方に四季を置いて一つし、ときの流れをとめてここに留めて永遠を成す、わだつみを治め竜宮に住まう神の庭、どうぞご覧くださいませ」

 オトヒメが言い終わると同時に、何処からともなく風が巻き起こり、東に配された門が誰の手によるでもなく開いた。オトヒメはふわりと風に乗り、開け放たれた門の方に吸い込まれてゆく。そのまま消えてしまいそうな姫に慌てて手を差し伸べた彼は、自分の体もまた浮き上がるのを感じて驚いた。オトヒメの鈴を転がすよりもなお澄んでこころよい笑い声が耳に届き、門の外のまぶしさにいっとき目を閉じた。

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