第3話

 夏の盛りとはいえ、夜にもなれば暑さもやわらぎ、家の中は熱がこもって寝苦しくとも、海から吹き付ける潮風に肌をさらせばたちまち汗もひいてゆく。

 夜の海は黒々と闇に沈んで、その姿は浜の終わりと境をなくしてひとつに溶け合う。変わらないのは潮騒ばかりだった。

 家を抜け出して浜に立った彼は、しばらくたたずんで寝汗がひくのを待つと、腰を下ろしたのでは飽き足らず、砂の上に大の字に身を投げ出した。頭上には青よりは濃くされども紺よりは淡い藍色に、玻璃を砕いた欠片か銀砂を豪勢にまき散らしたように星が瞬いている。そのなかでもひときわ、輝く星が集って流れるひとすじが見事であった。

 彼は目を閉じてふかく息をした。まだ胸の高鳴りがおさまっていない。

 季節を問わず、日の出とともに海へ漕ぎ出し、日没まで船上で力の限り漁をして働く彼の眠りはいつも深く、寝床に横になったと思えば、もう寝入っていて夢すら見ることもなく、次に目覚めたときには朝まだき、けれども漁り夫の一日がはじまる早い朝が訪れている。だから、このように寝苦しさに耐えかねて投げやりに砂に横たわることなど、彼にとっては初めてのことだった。

 それというのも、不思議な夢を見たせいだった。それは黎明のことと思われ、清らかな光が夜の闇を払いながら白々と昇りくるなか、洗われるような清々しい風が吹いていた。彼は、澄みきった空の青と、優しく豊かな海の青の出会うあわいをまっすぐに見つめている。すると、そこから影が滑るようにこちらにやってくるのだ。それは遠すぎて、海のなかでも遠くまで見通すよい目を持つ彼にもはっきりとは見えない。けれども待ち望んで高鳴る胸の鼓動に、彼はそれを知っているのだとわかる。

 海から影が上がってくる。その影は人の形をしていて、彼の耳にはその者の着ているものから滴り落ちる水音さえも聞こえる。か細い夜明けの光では、満足ゆくほど見ることが出来ない。彼は躊躇いながらも、その影に近づいてゆく。するとほどなく、その影がひとりの女人だと知るのだ。彼は我も知らず息を呑み、後ずさる。母を始め、彼のまわりには女が多くいた。闊達で笑い声の明るく、日々を暮らしに追われて働きまわる女たちである。海女として海に潜る彼女たちは、素肌をさらすことになんら抵抗がなく、見ずとしても目に入る。どの肌も長い陽の光に照らされ焼かれて色づいて、なめらかに煮詰めた飴色をしていた。もちろん、年頃の娘もいた。彼女たちは揃って彼に優しく、それが亀を虐げていた男たちには最高の不愉快の種となっているのだが、彼はかまうことなく、その親切を喜んで受け入れていた。――うら若き乙女が男へ贈り得る最も貴い果実の、その芳醇な甘い味も、幾度かは。

 けれども、いま彼の目の前に立つ女人は、彼の知る女たちとは程遠くかけ離れていて、まったく異質だった。彼はこれほどまでに白い肌を見たことがなかった。波をつかの間縁どるはかない泡の色合いだった。そしてその肌は、海女たちのようにしどけなくあらわにされているのではなく、色の無い生絹が水に濡れてしっとりと肌についているために微かに透けて、豊かな乳房の形がうっすらと覗えるくらいなのだが、なぜか恥じらいなく差し出された裸体よりも、ずっと艶やかで男の喉を鳴らす魅力があった。

 普段はしっかりと砂に足跡を残して歩みゆく確かな彼の脚も、このときばかりは頼りなく、ともすれば足を取られそうであった。そんな彼の眼前に、気が付けば彼女の白い顔があった。彼は、その夢のなかの、かぐわしい彼女の息遣いでさえもありありと覚えている。それは春雨の上がった朝に香る萌え出でたばかりの花の香のように透き通って甘かった。息も届くほど間近で、彼女がふと微笑んだ。彼女の髪にだけ、星を宿す夜の闇の名残りがあった。そのつややかな黒はたっぷりと水を含んだことでそのなめらかさと輝きをいっそう増して、透けるほどに白い彼女の頬にひとすじ、はりついていた。彼に不思議なのは、彼女自身は己がどれほど甘美な陶酔の誘いに満ちているか、ほんの少しも気付いていない様子であることだった。それは、彼女の瞳を覗き込めば明らかだった。彼女の微笑みはあまりに無垢だった。彼に出会えたという素直な喜びだけがそこにあった。

 そうして彼女は、彼の手を取る。頭を痺れさせるような疼きのなか彼の体は傾ぎ、彼女と海のうねりのなかへと倒れこんでゆく。

 そこで、目が覚めた。

 夢を思い返してまた胸の高まりを覚えた彼は、強く頭を振って立ち上がると、意味も無く波の際まで駆けて行った。そして、高ぶる己の内なる熱を憎むように、水平線の彼方が白々とほの明るくなってゆくのを睨みつけていた。それが夢の中の自分の振る舞いと同じであることに気が付いたのは、夢さながら海のなかにひとつの影を見出してからだった。

 彼はほとんど息をするのも忘れて、海中のおぼろな影を見つめた。人々の世迷い言にはとんと耳を貸さない性分ではあったが、このときばかりは半ば夢が現世に現れたかと見入った。しかし、そのうちすぐに人ひとりと見るには、影が小さすぎることに気付いた。それは、夢で見たのに違わず美しい朝の訪れであったが、揺れる波間から現れ出でたのは、一匹の亀だった。

 彼は思わず額に手のひらをあてて、自分に苦笑した。それから亀に歩み寄って話しかけた。

「なんだと思えば、この間のお前か。驚かせやがって。まったく、馬鹿な奴だな、お前は。またたちの悪い連中に見つかったらどうするんだ。みんなもうすぐ船を出す時間なんだぞ」

 安堵とひとかけらの失望を胸に、亀へと饒舌に話していた彼は、ふと言葉を途切れさせた。それというのは、亀がじっと彼のことを見つめていたからである。どういうわけか、彼にはそれが言葉を解さない生き物の目には見えなかった。亀は物言いたげに彼を見上げていた。気まぐれに目をそらすことなどせず。亀は語る目で彼を見ていた。そして、おもむろに背を向けて海の中へ戻って行き、半ばで彼の方へと振り返った。

 彼は亀から顔をあげて、海の彼方へ目を向けた。その空と海のひとつにとけあう、透明な境界へと。見慣れた浜のありふれた朝まだき、彼のいつもの一日のはじまり、そう思うにはこの日の朝はあまりにも美しすぎることに、彼は気付く。風は清らかに彼の背を押し、寄せては返す波はひろやかな海に誘う手だった。なにより、彼を待つ亀は、普通の亀ではあり得なかった。相変わらず背の甲羅は宝玉のような深い艶があり、手を差し伸べて撫でるうちにその黒はゆるりとほどけて、女人の髪を梳くようになるのではないかとすら思えた。

 そのとき、背後で海へと繰り出す男たちの声を聞いた。亀の白く皺ひとつのない足が砂を蹴る。その砂が水の中でゆらめき、また落ち着くまでのわずかない間に、彼は海へと泳ぎだした亀の背を掴んでいた。

 亀は、空を次第に明るくしながら昇り来る鏡のような朝の陽にむかって、泳いでゆく。彼が振り返ったとき、浜の人家がかすんで指先ほどの大きさにしか見えないほどの沖へ出てから、ふいに亀は海へもぐった。

 彼は浜の誰よりもずっと深く長く、海にもぐっていることができたが、亀が明け初めの光の届かない深さよりもなお深く沈んでいったときには、さすがに息が切れて苦しくなった。彼は耐えようと口元を抑えたが、その指と指の間からわずかに息が漏れ出でて、いくつもの輝く銀色の小さな泡玉となって、波を受けるたびに頼りなく形を変えながら、ゆらゆらと上っていった。

 苦しげな背の彼を見てとったのか、そのとき亀の泳ぎが速まり、彼の体はなお強く引かれた。銀の泡玉の消えていった海面ではなく、眠りのように静かなる深きわだつみの底へと。そこで、彼の意識は一度途切れた。

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