第2話
亀は深くふかく海を行く。サンゴの生ゆる岩肌の盛り上がった海中の山並みや、海底に穿たれた底知れない闇を湛えた谷を見送り、行く手をふさぐ波に揺られてたなびく常葉色の原を抜けて、なおも深く。魚の群れが泳ぎ来て、わずかに差し込むばかりとなった陽光を腹に受けて光る銀のきらめきの帳を分かつと、豊かな海に抱かれて秘め隠された楽園が姿を現した。亀の姿が海のやわらかな青に溶けると、わだつみの底に人は夢と思い描く竜宮の深奥で、一人の姫がゆるるかに目を覚ました。
コウヒメは音もなく床の上で瞼を開き、その目に映るのが見慣れた天井であることをゆっくりとのみこむと、手をかざして己の指とその動きを握ったり開いたりして、また何度か手のひらを翻した。長い夢から醒めたとき、彼女はいつでもこうして我と我が身を確かめる。そうでないと、まだ夢を見続けているような気がして、いつまでも戻ってはこられないのだ。
生まれ落ちたそのときから、コウヒメの体は病弱で、綿津見神の娘というのに華美な物事からは隔てられてほとんどを床の上で過ごさなければならなかった。髪はもうずっと長い間肩に流されたままで、久しく結われて飾りを挿したことがない。色とりどりの織も優美な衣や帯や裳は、櫃に入れられたまま眠りにつき、身にまとうのは白一色の夜着ばかり。それでも姫には、夢があった。コウヒメは病床で眠りに漂うとき、夢を見る。その夢では、煩わしく自由を妨げるものなどなにひとつなかった。微熱を帯びて歩くことさえもままならない我が身を捨て置き、変幻自在に潮流にのり、水を掻いて、どこまでも行くことができる。
コウヒメは頬に触れた。そしてそこを撫でた、熱い大きな手のひらを思い、かすかな深く長い吐息を漏らした。
そのとき、帳が揺れて「お姉さま、入ってもよろしい?」と声がした。もしかしたら寝ているかもしれない病人を気遣った、ひそやかな声だった。コウヒメはゆるやかに身を起こして、どうぞ、と促した。するとほどなく、可憐な姫が現れた。コウヒメは微笑んで出迎える。
「よく来てくれましたね、オトヒメ」
姫の妹にあたるオトヒメは、姫の寝台の傍らに腰かけると小首を傾げて姉を見た。すると彼女の髪の玉飾りが揺れてさらさらと音をたてた。
「お姉さま、お加減はいかが?」
「ええ。今日はだいぶよいのです。ありがとう」
それでも、コウヒメは長年の病のせいでずいぶんとやせ細り、肌も青く透き通って見えるほどで、いまにもはかなく消えてしまいそうに見える。それが、オトヒメの眉をくもらせた。するとコウヒメは何も言わずにオトヒメの手を取り、微笑んだ。そんな姉に、オトヒメも笑みを返した。
綿津見神には二人の姫がいた。姉をコウヒメ、妹をオトヒメと名付けられたこの二人の姫は、たいそうよく似ていた。残念ながらコウヒメの体は病がちで痩せて肌も青く透き通るほどではあったけれど、オトヒメは練り絹の肌にほのかな花色を頬に宿し、その微笑みを見て心奪われない者は、心が石で出来ているのだと海の都の誰もが言う姫だった。姿形ばかりか、心映えもまたオトヒメは優れていた。病床を離れられない姉のコウヒメをいつも気遣い、見舞いを欠かさなかった。コウヒメもまた、この愛らしい妹姫の訪れの折には微笑んで迎え、体調がよいときには、二人の姉妹はとめどなく語り交わすのだった。
「お姉さま、今日はどんな夢見をなさったの」
健やかな体の代わりのように、妹のオトヒメが夢を見ることはなく、コウヒメのもとを訪れるときには、必ず夢の話を聞きたがった。寝台に手をついて身を乗り出し、期待に目を輝かせて見上げる妹の肩を撫で、コウヒメはつと遠い目をした。
「それはそれは怖い目にあいましたのよ……」
オトヒメは乱暴な男たちに耳を傾けながら、姉を痛ましく思って握る手に力を込めた。
「なんてひどい。外へご自由に出ることもままならないお姉さまのせっかくの夢ですのに、そんな悪夢だなんて、なんということでしょう」
我が事のように嘆くオトヒメの己のそれに重ねられた手を撫でながら、けれども恐ろしいばかりではなかった、とコウヒメは浜で出会った青年のことを思い出した。彼のことを話せば、このオトヒメの嘆きはいくらか癒されるだろう。そして、娘らしく目を輝かせて彼のくわしい話をねだるのだ。しかしコウヒメは、彼のことは語らずに胸の中に秘めておくことにした。あの夢は、たった一つのコウヒメだけが知る美しくよきものとして、そのまま留めておきたかった。青年の夢は、コウヒメにとってほたるの光のようだった。ささやかに輝くもの。それをそっと手の中に包み込み、押し隠しておこうと決めた。
「ありがとう、オトヒメ。お優しいのね。でもどうか悲しまないで。わたくしはちっとも不幸せなどではないのですから」
すると、いいえ、とオトヒメは首を横に振った。そして涙に潤む目で姉姫を見つめながら、心からの声を発した。
「かわいそうなお姉さま」
コウヒメはそんな妹にやんわりと微笑み、髪を撫でた。
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