浦島異聞伝
和泉瑠璃
第1話
耳慣れない者には海のさざ波の音はもの珍しく、絶え間なく流れる天然の音楽のように感じられるものではあるけれど、浜に住まいを持ち、潮風に身をさらして暮らす人々にとっては、そこにあるとも特別意識することのない常に傍らで響く音であり、生活の疲れで重い体を床に横たえてとろとろとまどろみに沈んでゆくときも家の壁を通して耳に届くので、幼い頃から馴染んだ母の子守唄のようなものである。
夏の海原は、どの四季よりも強く降り注ぐ陽射しを受けて波間に煌めきを孕み、海に漕ぎ出す漁り夫たちの目を射る。船上は耐え難く暑く、網を引く男たちの汗はぐっしょりと着物の色を変えてしとど落ちるほどだが、ひとたび銛を片手に素潜りをすれば、心地よい冷ややかさを秘めた海の水が迎えてくれることを知っている。海に抱かれて見上げた水面に儚く移ろいながら映る陽の光が、白玉や玻璃の輝きにも勝る、えも言われぬこの世の至高の輝きだということも。言葉に無知な男たちにはその美しさを語ることは出来ないけれど、気取って裾を濡らしただけで騒ぐ都の雅男には見ることさえかなわない。とはいえ、浜の男たちは純粋に目を奪われることはあっても、どれほど貴重なものを目にしているかは、まったく意識にないのだった。海と共に生きる男たちの気性は真っ直ぐ健やかで飾り気がなく、感情の起伏が激しくときおり荒れた。凪いだときは優しく、時化のときには厳しい、それこそ海に似ている。
熟れた果実のような陽が海の向こうに沈みゆき、あたり一面あでやかな薄紅に染まった夕べだった。夕日の光を受けて、足元に寄せる波さえも真朱の色合いに見えた。
海から上がって潮水を滴らせながら歩く海女たちは、海辺の騒ぎに振り返って眉をひそめた。しかし家路を急ぐ彼女たちは一瞥を送るだけで、足は止めずに通り過ぎてゆく。そんな女たちの横目にはちらとも気付かない騒ぎの一群れは、ますます声を高くしていった。
彼らは船を浜にあげたばかりの男たちで、輪を作り、その中心を見下ろしてさかんに言いたてながら意地の悪い笑いをあたりに響かせていた。彼らの足元には一匹の海亀がいた。人の住む浅瀬まで来るのは珍しく、それを見つけた男がふと悪戯心を起こし、罪もないものを弄ぶうちに彼の仲間がやってきて取り囲んだらしい。亀はいま甲羅を背に仰向けに寝かされて、海へ逃げ戻ろうと足をかいても虚しく空を掻くばかりで、それがまた男たちの笑いを引き起こしていた。
浜の子供たちはそれを遠巻きに見ていたが、亀を哀れに思っても興を削いだ代償に相手方からどんな報復があるかと思うと、どうすることもできない。しかしとうとう見るに堪えかねて一人の少年が駆け出そうとしたとき、その肩にそっと触れた手があった。驚いて振り仰いだ少年に、彼はにこりと笑いかけるとそのまま騒ぎの方へと歩いて行った。
彼は輪を作った一人を横へと押しのけ、中心に割って入って行った。首にほど近い腹を男の足に踏まれて、もはや諦めたようにぐったりと目を閉じて顔を背けた亀を見て、彼は少し眉をひそめた。
「浦島の太郎じゃないか。なんだよ、お前。どういうつもりだ」
まさにいま亀を踏みつけて笑っていた男が、彼を尖った声で詰問した。すると彼は、うっすらと笑って答えた。
「いやに騒いでいるなと思って、様子を見に来たのさ。いったい何が楽しいのかと思って見たら、呆れたよ。お前たちはまだまだケツの青いガキと変わらないらしいな」
出し抜けにぶしつけな言葉をぶつけられた男は、怒りに顔を赤くして唾も飛ばさん勢いで彼に食って掛かった。
「気に入らねえ野郎だな。ケツの青いガキとはなんだよ、そう年の変わらないくせに」
「言われなくても、俺は自分の年くらい数えられるさ。お前じゃあるまいし。亀を見つけたくらいではしゃいで、いじめているのがガキだと言われないとわからねえのか」
彼が言い終わる頃には、相手に胸ぐらを掴まれていた。掴まれたばかりかあともう少しで頭突きをされるというほどの勢いで引き寄せられて、間近で睨み合う格好となった。男と男がこの距離で向き合えば、事が穏便に済むはずがない。二人を取り囲む男たちは、誰もが楽しみに水を差した彼に憤り、激しくはやしたてた。それでも彼には、にやりと笑って彼を見返す余裕があった。男はずんぐりと恰幅がよく肩も腕も太く、獅子っ鼻にどんぐり眼が気の荒い気質をよく語っていたが、彼より頭一つも背が低かった。これは男が小さいのではなく、ひとえに彼の身の丈が高いせいだった。彼の手足はすらりと長く、華奢にも見えたが日々の漁の力仕事をこなすのに何の苦もなかった。今しがた自分の船を誰の手も借りずに一人で引いて海に上げたところである。その名残に、漁り夫らしい粗末な色あせた藍染の小袖の胸元は広く開いて、そこから覗いた黒く日開けした肌はまだ汗に濡れ、てらてらと光っている。
「腕にものを言わせようってんなら、受けて立つぜ。そんなにその不細工な顔に青あざを作りてえならな」
返答は拳だった。彼はさっと身を翻して間合いから飛び退くと、傍目には大暴れができる口実を得て嬉々としたようにも見える様子で、構え直して殴り掛かった。
二人は組んず解れずを何度か繰り返したが、男が砂に足を取られたところへ、彼の拳が小気味のよい音をたてて顔にねじ込まれた。男が倒れた拍子に、二人を囲んでいた人垣が崩れ、彼に向かって次々と男の仲間たちが踊りかかったが、ほどなく全員が砂の上で呻くことになった。
さすがの乱闘で彼は息も切らし、いつの間にか項で無造作に髪をくくっていた麻紐もなくしていたが、頬にかかる髪を邪険に払うと腕を組んで男たちを見下ろした。
「お前たち、海に出るのは誰よりも遅いくせして、上がるのは一番乗りだ。それで腕がいいっていうならまだしも、まともに漁もできやしないで、亀をいじめるだなんて、情けなくはないか。亀は綿津見神(ワタツミノカミ)の使いとも言うぜ。ますます恩恵から遠ざかるってもんだ。俺の言うことが納得できないなら、もうちょっと付き合ってやってもいいぞ。まだやるか?」
訓戒じみたことを言いながらも、彼の目は爛々と輝いていて言葉の上だけではなくもうひと暴れを歓迎しているのがありありと見てとれたが、砂まみれの男たちはこれ以上体に痣を作る気にはなれず、歯噛みしながらも後ずさって立ち去るしかなかった。これで彼が不出来な漁り夫であればまだ怒りも湧いてきたであろうが、このあたりの浜でいちばんの腕がよいのだから、そういうわけにもいかない。
負け惜しみを吐きながらすごすごと去って行く彼らを見送ったあとで、彼はふと思い出して足元を見下ろした。喧嘩騒ぎにすっかり夢中になって、亀のことを忘れていたのを思い出したのである。
亀は心もち首をあげ、じっと彼のことを見上げていた。その黒々とした目があまりに静かで一途だったので、彼は思わず亀にむかって微笑みかけた。
「ひどい目にあったな」
彼はしゃがみ込み、亀の甲羅の下に手を差し入れてひっくり返し、元に戻してやった。それから改めてよく亀を見た。甲羅は黒曜石のように深い色をして磨かれたようになめらかで、水を掻く手足は長くゆるやかな曲線を描き、普通ならそこに見られるはずの斑紋がなく、青白いつややかな肌をしていた。そして目を覗き込んでみれば、その瞳はまるで智の輝きを宿しているかのような深淵な黒だった。なるほど、と彼は思った。あの男たちが見過ごせずになぶったのもわからなくはない。つい触れてみずにはいられない気持ちにさせる、珍しく美しい亀だった。
彼は亀を優しい手つきで撫でると、穏やかな声で言い聞かせた。
「亀ってのは万年生きるらしいな。だったらもう迂闊に浅瀬に来るんじゃないぞ」
彼はかるく甲羅をたたいて、亀を海の方へと送り出した。それで彼も帰路につこうと背を向けたのだが、ふと何かを感じて振り返って見ると、海に体をなかば浸した亀がこちらを向いていた。彼は笑って、手を振ってやった。すると亀は海を進んで行ったのだが、また彼のほうを振り返った。別れを名残惜しんでいるように見えた。彼は、亀の気が済むまで付き合ってやろうと決めた。亀は振り返り振り返り、海へと帰って行った。そのたび彼は、手を振り返し、ついに海の波の狭間にその姿が見えなくなるまで、見送った。
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