感情要素
感情を分解したら、どんなふうになるんだろう。
感情が薄れゆく日々の中の、ふとした思いつきだった。喜怒哀楽、尊敬や失望、共感、それに嫉妬。あらゆる感情は、ただブレンドされているだけで、分解すればいくつかの要素が一定の割合で出てくるんじゃないだろうか。つまり、感情は分解可能なものなんじゃないか。紫色なら赤と青、スポドリなら甘みと塩味と少しの酸味に分けられるように。
「基本の感情は、喜怒哀楽の四種類かな。尊敬は喜に近そうな気がする。失望は哀で、興味は楽っぽい。共感は、まあ場合によるか。あとは嫉妬……嫉妬ってどんな感情だっけ」
日々感情が薄れゆく自分は、記憶もまた薄れゆくようだった。もう少し前にこのことを思いついていたら、もっとちゃんと考えられただろうにな。暇潰しをするにも、感情や記憶は意外と重要な役割を果たしていたらしいと学んだ。
ソファーにぐでりともたれかかったままで、時計の針をぼーっと見る。一秒刻みにたしかに進んでいるはずの時計も、進むのが非常に遅く見える。コク、コク、と鈍い音を耳が規則的に拾う。最近耳が良くなったかもしれない。いや、それは錯覚だと知っている。
ああ、暇だ。何も感じなくなっていくのに、なぜか暇だという感覚だけは消えないまま残り続けている。喜怒哀楽より、こっちの方が先になくなればよかったんだ。暇だ。けどなんか動きたくない。けど思考の種もない。テレビは見れば見るほど視力が落ちる。音楽はとっくに聞き飽きた。
仕方がない。さっきのことを考えるしかないだろう。
「感情を分解、けど自分の感情はほとんどないから、分解もできない。感情をまだ持ってるやつっていたかな。インテリくんとか、頑固なやつだから……連絡先残してたかな」
スマホの連絡先一覧から、割と上位にあった彼の名前を探して電話をかけた。発信音が複数回繰り返す。そういえばさっきまで1ミリも動きたくなかったのに、今動けてるなとふと気付いた。
「あ、もしもし」
「もしもし。インテリくん、久しぶり」
久しぶりに聴く彼の声は、以前の透明感に少しノイズがかかっていて、彼の成長を感じさせた。控えめな応答をいくつか交わして、彼とちょっとした世間話をした。彼はたびたび電話口で笑った。やはり、彼には感情が残っていた。
「そういえば、今日電話をかけた理由なんだけど」
「うん」
「インテリくんに、ちょっと実験に手伝ってもらいたくてさ」
彼は少し間をあけて、いいよと答えた。随分あっさりしていた。その上、実験内容を説明するとすぐに興味を示して、ああだこうだと実験方法まで考えてくれた。その雰囲気を、なんとなく懐かしく思った。
「じゃあ、俺が実験して結果を報告すればいいんだね。えっと、期限はいつまでとか」
「いや、うち来てやって。結果次第では追加実験もしたいし。最近暇してるから」
言い終えてから、しまったと思った。もう少し相手のことを考えて言えばよかった。だが、インテリくんは特に気にならなかったようで、
「わかった」
と、すぐに家に来てくれることになった。まもなく、チャイムがお客の訪問を伝えた。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ、適当にくつろいで。トイレはそこ。飲み物はセルフでよろしく」
久しぶりに見たインテリくんは、声と身長こそ多少変わったが、雰囲気は当時とまるっきり一緒だった。殺風景な部屋に驚いたり、自分の様子や生活や別れてからのことを聞いて笑ったりした。そして、お前は前にもまして表情が乏しくなったと悲しそうに言った。
感情の分解について、話し合った実験方法を再確認し、彼は実験を始めた。実験方法は簡単だ。一般におもしろいと言われる動画を見たり、癒されるストレッチをしたり、泣けると評判のドラマで泣いたりして感情を作る。そして、その感情を喜怒哀楽になんとなくで分けて、それをなんとなくで記録する。喜怒哀楽に分けられない感情、別感情なのに喜怒哀楽の比率が同じものがあれば、感情は喜怒哀楽に分解できないと結論づけられる。
その日、インテリくんはひたすらに感情を作っては分解していた。俺はソファーの上からそれを眺めて、ただひたすらに記録した。インテリくんは感情豊かな人間で、共感力も強く、また分析力に長けていた。彼は着々と実験を進めて、笑ったり泣いたり怒ったりを繰り返した。彼が大事にしているらしいボールペンが割れた時の、彼の絶望した顔は見ものだった。彼はしばらく怒っていたが、根が理系だからか、いいデータが取れたならこいつも本望だろうと、折れたボールペンを愛おしげに眺めていた。
実に有意義な一日だった。最高にヒマが潰れて、満足していた。
時計の針がぐるりと回って18時を指す頃、彼は急に帰ると言った。
「夕飯、彼女が作ってくれるんだ。冷めないうちに帰らないと」
荷物をまとめて、じゃあねと言って、あっという間に出て行った。実験は全て終わっていた。彼はまたねとは言わなかった。部屋の中は彼が来る前と同様に整頓されていて、静けさが漂っていた。なんとなく、薄暗い部屋になったと思った。
静かな部屋の中で、一人で携帯栄養食を食べた。なんとなくテレビをつけてみたが、少ししてから消した。ぼーっと時計だけを見ていようにも、そわそわして、落ち着かなかった。
ふと、机の上に目をやった。携帯栄養食の包装が無造作に捨ててある、その下にB5のノートがあった。今日の実験結果を記したものだ。手に取って、ぱらぱらとめくって、えんぴつでさらに書き込んだ。結果まとめ、考察、提言。まるで小学生の感想文みたいな、幼稚な仕上がりだった。全てを書き終えてから、実験データ書き込みのページに戻って、実験データを一つ書き足した。それからノートを閉じた。
このノートを彼に見せる機会は、もう2度と訪れないだろう。ノートを両手に持ったまま、ソファーに体を投げ出した。感情、記憶に次いで、感覚もまた薄れていたようだ。体はゆっくりと、軽くなっていった。
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