第10話 しおかぜにゆれる花

 夢だとわかっていても、期待してしまうことというのがあります。

 例えばそう、ヒナミちゃんが助けに来てくれるとか。

 でも、実際にそんなことはあるはずもなく、私の前にあるは現実的な現実だけです。

 いつもと同じ時間に起きたのに、寝坊したといって殴られ、朝ごはんも食べさせてもらえませんでした。

 家事を全てこなして、少しでも手を止めると、休むなと怒鳴られ、何度も頬を叩かれました。私は、ただ泣きながら「ごめんなさい」と繰り返していました。

 私がグズなのは赤毛だからだ、といって、髪にペンキをかけられました。

 おじさんの奥さん(おばさん)や、おじさんの息子マコトくんは、私に暴力を振るうことはありませんでした。だけど、助けてくれることもなく、少し離れたところから憐れむような目で私を見ていました。

 ああ。パパ、ママ。

 だれでもいい。

 私を助けに来てくれないかな?


 夜、ヒナミはふと目を覚ました。

 話し声がする。

 目を開けてみると、横の布団で寝ていたアキコさんがいない。

 頭を動かし、探してみる。

 薄暗い中、縁側に座る人影が見えた。話し声は、その人影のものだった。

「アキコ、帰ってくる気は無いのか?」

 この声は、おじいさんだ。

「ごめん。それはできない。今の仕事は、大変だけど気に入ってるし、暮らしてる街が好きなの」

 これは、アキコさんの声だ。

「そうか」

 おじいさんの、少しがっかりしたような声がした。

 それから、少し間があって、今度はお婆さんの

「明日には帰るんだってね。もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「やることがあって帰ってきたの。それをやりきるためには、ゆっくりしていられなくて……ごめん」

 アキコさんの声は、少しさみしそうだった。

「お前は昔からそうだ。おてんばで、後先考えず、無茶なことも平気でやる。俺や母さんがどれだけ沢山の人に頭を下げてきたことか」

 おじいさんは、怒ったような口調でそういって、最後に付け加えた。

「なにをしでかす気かは知らんが、思いっきりやってこい」

 さっきとは一転、優しい口調だった。

「ありがと」

 アキコさんは、ゆっくりとした口調でいった。

「それとね、もう一つ。まだどうなるかわかんないんだけどね、イチカちゃん……」

 そこからアキコさんはビックリするようなことを話しはじめた。


 翌朝。ヒナミは普段起きている時間よりもずっとはやい時間に目を覚ました。

 視線を動かすと、ミホはおへそを出して寝ていた。

 アキコさんはいなかった。布団もたたんである。

 なんだろう。音がする。

 ヒナミは四つ這いで布団を抜け出して、壁を支えに立ちあ上がり、廊下を歩く。この家の間取りを覚えていない。とりあえず、音のする方へ。

 たどり着いたのは、台所だった。一人で料理するアキコさんの背中が見える。

「おはようございます」

 ヒナミが声をかけると、アキコさんはゆっくりと振り返る。

「おはよう。もうちょっとゆっくり寝てていいのに」

 ヒナミは首を横に振った。

「夜、偶然聞いちゃったんです。縁側で話していたこと」

 アキコさんは「そう」といって、ちょっと考えるような仕草をした。

「イチカちゃんのことはね、そうなればいいなって私が思ってるだけ。だから、イチカちゃんにはなんにもいわないでね」

 ヒナミは、うなずいた。

「なにか手伝います」

 ヒナミはいった。でも、

「ありがとう。でも、ゆっくりしてて。私も、親孝行したいこともあるの」

 アキコさんは手伝わせてくれなかった。


 アキコさんの作ってくれた朝ごはんを食べて、それから、作戦開始となった。

 家を出たところで、ミホやアキコさんとは別れて、ヒナミは駅へむかう。作戦に邪魔だからと預かったミホのショルダーバックをさげて。

 川辺の土手の上を歩く。

 セミの声。強い日差し。

 暑いな。

 前方にイーゼルを立てて、絵を描く男の子がいた。ヒナミと同い年、つまり小学校高学年くらいの男の子だ。

 男の子の横を通り過ぎながらキャンバスを見た。精密な風景画が描かれていた。

 上手だ。

 ヒナミは視線を正面に戻した。

 すると、そこには青い瞳の女の子、ウミがいた。

 ウミは、ニコリと笑ったと思うと、大きく口を開いて息を吸い込んだ。

 すると突然、猛烈な突風が吹く。

 風にあおられて、男の子のキャンバスがヒナミにむかって飛んでくる。

「きゃっ」

 ビックリしたヒナミは声をあげながら、しりもちをついた。

「なにを……」

 顔を上げると、そこにウミはいなかった。

 まったく。なんなんだろう。

 とにかく、なにか掴まれるものを見つけないと。

「大丈夫?」

 そのとき、差し伸べられた手があった。さっきまで絵を描いていた男の子だ。


 今日は、朝からおじさんの機嫌がよかった。

 なんでだろう、と考えているとおじさんのほうから教えてくれた。

 リビングに呼ばれて、いってみるとおじさんは新聞を見るようにいいました。

 私はいわれた通り、新聞を読みました。

 血の気が引く、という感覚はこういうことだったんですね。私は、何度も何度も記事を読み返しました。でも、読み間違いなんてありません。

 それは、海岸で男女の遺体が発見されたというものでした。それは、フェリーの事故の被害者。すなわち、私のパパとママじゃないかということです。

 パパとママの遺産が、フェリーの会社からの賠償金が手に入ると、おじさんは喜んでいました。

 私は倉庫のような部屋で、膝を抱えて座っていました。掃除を、洗濯をしなければなりません。でないと、またおじさんに怒られます。でも、全く体が動きません。悲しいとか、寂しいとか、そんな気持ちもありません。だから、涙も出ませんでした。

 何も考えないように、現実を受け入れないように。


 ヒナミは、男の子に手伝ってもらって立ち上がると、河原の土手に座った。

「ありがと」

 ヒナミがいうと、男の子は少し照れたようにはにかみながら、横に座った。

「この街の人じゃないよね。学校で見た覚えないもん。どこから来たの?」

 男の子は尋ねます。

「松山から。愛媛県の」

 ヒナミが答えた途端、男の子は驚いたような表情になった。

「偶然だね。ボクの家にも、松山から来たって女の子がいるんだ」

 あれ? それってもしかして。ヒナミの中で、ある予感がした。この男の子の顔、よく見るとどことなく見覚えのある顔だ。

「それって、どんな人?」

 ヒナミの問いに男の子はうなずく。

「ちょっと前にお父さんが連れてきたんだ。ボクの親戚なんだって」

 男の子の表情が曇る。

「でも、とってもかわいそうなんだ。お父さんに、いじめられてて」

 ここまで聞いて、予感は確信になった。この男の子の父親は、イチカちゃんを連れていった男の人だ。

「かわいそうだよ。とってもかわいそう。でも……」

「でも?」

 ヒナミは尋ねた。男の子は絵筆をなでる。

「ボク、これが好きで、大好きで。中学校は美術コースの学校に通うはずだったんだ。でも、お父さんが会社をクビになっちゃって、その学校に通うお金がないんだって。その女の子が家にいれば、それだけでお金が手に入るんだって。そのお金を、ボクが学校にいくのに使うって」

 そういうことだったんだ。自分の子供ためにお金が欲しかったんだ。

「ボクは、どうしてもその学校に行きたいんだ」

 男の子は、自分に言い聞かせるようにいった。

「私ね、走るのが好きだった。足の速さなら、だれにも負けないと思ってた」

 でも、走れなくなった。ヒナミは、目を閉じて深呼吸する。

「もうちょっとだけ、見ていていい?」

 ヒナミはいった。

「うん。いいよ」

 男の子は嬉しそうに立ち上がると、再びイーゼルにむかう。うん。とっても上手だ。ヒナミは特別絵に詳しいわけじゃない。でも、わかる。これは上手だ。

 しばらくすると、見事な風景画が完成した。ヒナミは男の子に手を貸してもらって立ち上がった。そして「ありがと」といって別れた。

「ごめんね」なんて絶対にいわない。

 今日、これから、必ず、イチカちゃんを連れて帰る。


 なにも考えることができず、体を動かすこともできず、世界中で私だけ時間が止まってしまったようでした。

 どのくらい部屋のすみのうずくまっていたでしょうか。とっても長かったような、でもそうでもないような時間が流れました。

 ふと、扉の向こう側が騒がしいことに気が付いたのです。二つある扉のうち、家の中へつながっている方の扉です。

 私は、扉に耳をあてました。

 どうやら、誰かが来ているようです。おじさんの声は、少し緊張しているように感じます。

 そのときです、私が耳をあてていない方、直接外につながる扉の鍵が、ゆっくりと回りはじめました。

 今まで、この扉が開いているところを見たことがありません。

 その扉が今、ゆっくりと開きました。

「イチカ」

 そして、現れたのは短髪で大柄の女の子、ミホちゃんだった。

「ミホ……ちゃん」

 ああ。また、夢を見ているんだ。ヒナミちゃんの次はミホちゃんだ。夢じゃなかったら、嬉しいのに。

「イチカ、迎えに来たよ。帰ろ」

 ミホちゃんは、小さな声で、でも早口でいいました。

「なんで。どうして。これも、夢なの?」

 ミホちゃんは、一瞬微笑んで、すぐに真剣な表情になる。

「夢じゃない」

 ミホちゃんはそういって、私の手を掴むと走り出しました。とっても強い力で引張られます。私たちは裏庭に出ました。

 私は裸足だったので、砂利や小石が足の裏に刺さります。その痛みは、とても夢の中のものとは思えない、生々しさがあります。

 これって、もしかして。

 ミホちゃんは立ち止まると、しゃがんで周囲の様子をうかがいます。私も、身を低くしました。

「助けに来たんだ。ヒナミがさ、イチカがひどい目に遭ってるって、いいだして」

 そのとき、夢で会ったヒナミちゃんの声を思い出しました。「必ず助ける」といってくれた。

「夢じゃ、なかったの?」

「さあね。でも今は、夢じゃない。帰ろっか。イチカ」

 ミホちゃんがいいました。私は、大きくうなずきます。

 私とミホちゃんは、生垣を乗り越え道路にでました。

「駅でヒナミが待ってる。走るよ」

「うん」

 ミホちゃんに手を引かれながら、私は走りはじめました。

 足の裏が痛い。でも、止まるわけにはいかない。私は必死に足を動かしました。

 いくつか交差点を曲がったとき、とうとう私は痛みに耐えきれなくなり、立ち止まってしまいました。後ろから、おじさんが追いかけてきそうで、心臓がバクバク音を立てます。

「イチカ、どうしたの?」

 ミホちゃんは、私の異変に気付いたようです。

「大丈夫。はやく逃げようよ」

 ミホちゃんは、私の足を見ていました。

「そっか、イチカ。靴履いてないんだ」

 ミホちゃんは、私に背中をむけてしゃがみます。

「乗って」

「……うん」

 私は、ミホちゃんの背中につかまりました。

 ミホちゃんは立ち上がり、歩きはじめます。

「大丈夫。上手くいくよ」

 ミホちゃんはいいました。私の鼓動がミホちゃんに伝わったようです。だけど、ミホちゃんも、心臓がバクバクいっています。

「気持ちのいい街だね」

 おもむろに、ミホちゃんがいいました。

 私は息を吸いました。山間の澄んだ空気が体に入ってくる。

「パパと、ママが生まれたこの街を、好きになりたかった」

 私は、小さくつぶやきました。

 そのとき、私は前から男の子が歩いて来るのが見えました。片手にイーゼルとカンバス、もう片方の手に絵の道具を持っている男の子。そう、おじさんの息子のマコトくんです。

 駄目だ。ここで見つかったら、連れ戻される。

 私を怒鳴りつけるおじさんの声が頭の中で響きます。

「イチカ、どした?」

 ミホちゃんが尋ねます。でも、ここで声を出したら気付かれてしまう気がして、私はあえて何も答えませんでした。

 お願い。気が付かないで。

 私は祈るような気持ちでマコトくんから顔をそむけました。絶対に、目を合わせてはいけない。

 お願い。お願い。お願い。

 マコトくんとすれ違うその瞬間。

「イチカちゃん」

 マコトくんがいった途端、私の心臓は一瞬止まったようなに感じました。

 ああ、なにもかもおしまいだ。

「走るよ」

 ミホちゃんは私の手を掴み、走り出します。

 その途端、足の裏に電撃のような鋭い痛みが走ります。

「うゎっ!」

 思わず私はうずくまってしまいました。足の裏に、小石が刺さっています。私は指先で小石を引き抜きました。ちょっとだけ、血が出ています。

 それでも、進まなきゃ。

「イチカ……ごめん。靴、履いてなかったんだ」

 ミホちゃんがいいました。

「大丈夫、このぐらい」

 私が立ち上がろうとした瞬間、後ろから肩を掴まれた。掴んだのは、もちろんマコトくんだ。

「こ、これは、その違うんです。おじさんが買い物にいってくるようにいったから……その」

 私は、必死に出まかせをいいました。とにかく必死に、なんでもいいからとにかくこの場を切り抜けないと。そう思いました。

「帰るの?」

 マコトくんは、予想外に優しい口調でいいました。

「それは……その」

 なんて答えよう。なんて答えたら、この場を乗り切れるんだろう。私が口ごもっていると、マコトくんは突然その場で靴を脱ぎ、私の足元に置きました。

「家遠いんでしょ。靴、履いていってよ」

「……いいの?」

 マコトくんはうなずきます。

「酷い目に遭わせてごめんね。元気で」

 私は、ゆっくりと靴に足を入れました。マコトくんの靴は、私にはぶかぶかです。

「元気で」

 そういい残して、マコトくんは裸足で走って行きました。

「いこう、イチカ」

 ミホちゃんの言葉に、私はうなずきました。


 ヒナミは駅前のベンチに腰掛けた。

 時折、自動車が通過する以外は静かなものだ。

 駅の時計を見る。集合時間まであと少し。大丈夫。ミホも、アキコさんも上手くやってるはずだ。

 そのとき、道路を歩いて来る人が見えた。

 ミホともう一人、イチカちゃんだ。

「ヒナミちゃん」

 イチカちゃんは、嬉しそうに駆け寄ってくる。

「お待たせ。迎えに来たよ」

 ヒナミはいった。

「待ってた。とっても待ってたんだよ」

 イチカちゃんは笑顔を浮かべた。

「でも、よくここがわかったね」

 イチカちゃんがいうと、ヒナミは一度うなずいた。

「うん。手伝ってくれた人がいたから」

「手伝ってくれた人?」

 ちょうどそのとき、アキコさんがやってくるのが見えた。


 駅の改札を通って、ホームのベンチで列車を待つ。もうすぐ、来るはずだ。

「おばちゃん、パパとママの知り合いだったんだ」

 イチカちゃんが驚いたようにいうと、アキコさんはうなずきます。

「そう。イチカちゃんを見てると色々思いだすわ。イチカちゃん、パパにもママにもそっくりだから」

 そのとき、列車がやってくるとのアナウンスがあった。

 ヒナミたちは立ち上がる。

 そのとき、男の人の声がした。

「待て」

 瞬間、イチカちゃんの体がこわばる。

 息を切らして、男の人が線路またぐ陸橋を降りてくる。イチカちゃんを連れていったあの男の人だ。

「待て、アキコ。急に来るからおかしいと思ったら、こういうことだったか」

 男の人はそういいながらイチカちゃんに歩み寄る。

「そいつを返してもらうぞ」

 アキコさんは「そりゃこっちのセリフだっつーの」とつぶやいた。ヒナミにははっきり聞こえた。

 イチカちゃんは恐怖で顔が引きつっている。足が震えている。ヒナミはなんとかしたかったけど、見守るしかなかった。

「さあ、帰るぞ」

 男の人がイチカちゃんに腕を伸ばす。アキコさんはイチカちゃんを抱き寄せた。男の人の腕は空を切った。

「アキコ、これは誘拐だ。警察に通報するぞ」

 男の人はスマートフォンを取り出す。イチカちゃんは、さらに顔をこわばらせる。

「大丈夫。守ってあげるから」

 アキコさんはイチカちゃんの耳元でささやいてから、男の人をにらみつける。

「いいよ」

 アキコさんは、そういった。はっきりと。

「いいよ。警察でもなんでも、通報したかったらしなさい。でも、そうしたらあなたがイチカちゃんを虐待していたことが公けになるわよ」

 イチカちゃんの腕や足、頬に小さな傷あとやあざがたくさんある。きっと見えないところにはもっとたくさんあるんだろう。

「私は誘拐犯になってもいい。チカちゃんを、あなたから引き離せるなら、私はそのくらい構わないわ」

 男の人は、スマートフォンを持ったまま、立ちすくむ。

 列車がホームに入り、扉が開いた。

「乗って」

 アキコさんがいったので、ヒナミは列車に乗り込む。扉のところに段差がある。ミホが体を支えてくれた。

「マコトのためなんだ。アイツには、貧乏で、ひもじい思いをさせたくないんだ。俺みたいな思いは、させちゃいけないんだ」

 男の人の、つぶやくような声が聞こえた。

「たとえ、金銭目的でイチカちゃんを引き取ろうとしたとしても、暴力を振るう必要はなかったでしょ」

 アキコさんはとっても冷たい口調でいった。

「さ、帰りましょ」

 アキコさんはイチカちゃんと手をつないで列車に乗り込んだ。


 駅に到着するたびに、イチカちゃんは扉に目をやり、乗り降りする人を見ている。

 なにをしているんだろう。ヒナミは不思議に思ったけれど、イチカちゃんの真剣な表情を見ると、尋ねられなかった。

「大丈夫。あの人は追いかけてこないわ」

 三つ目の駅を発車した後、アキコさんは優しい口調でそういった。

 そっか。イチカちゃん、男の人が追いかけてこないか気にしてたんだ。

「うん。でも……」

 イチカちゃんは口ごもった。

 その後も、ずっとイチカちゃんは周囲の様子をうかがって、ずっと落ち着きがなかった。

「汚れちゃったね」

 アキコさんはイチカちゃん、べっとりとペンキの付いた髪をなでる。

 イチカちゃんは小さくうなずいた。


 そして、列車は終点の駅に到着する。

 駅の近くには、理髪店があった。

 アキコさんはヒナミとミホに待っているようにいった。

 三十分ほどして、理髪店から出て来たとき、イチカちゃんは短髪になっていた。ペンキがついた部分を、全て切り落としたのだった。

 イチカちゃんは照れたように、そして少し寂しそうに、自分の髪をなでていた。


「ここから、どうやって帰るの?」

 駅の切符売り場の前で、イチカちゃんがいった。

「新幹線で広島にいって、そっからフェリー、だよね」

 ミホがアキコさんの顔を見ながらいった。

「フェリー……」

 イチカちゃんは小さな声でつぶやいた。

「そうね……ちょっと遠まわりしましょっか。せっかくここまで来たんだし」

 アキコさんは一瞬イチカちゃんを見てからいった。

「遠まわり?」

 イチカちゃんは首をかしげた。

「そう。岡山までいってみよ」

 アキコさんはウインクした。


 新幹線に乗り込む。

 二列の座席をグルリと回し、四人で使う。

 扉が閉まり、列車はスルリと駅を離れる。

 案内の放送が終わった頃だ、グルルル、と音が鳴った。ミホのお腹が鳴った

音だった。

「えへへ、お腹すいたね」

 ミホは恥ずかしそうにはにかみ、お腹をさする。

「そうね。岡山駅に着いたらごはんにしましょっか」

 アキコさんがいうと、ヒナミ、ミホ、イチカちゃん、三人ともうなずいた。もうそろそろお昼時だ。実は、ヒナミもお腹が空いていた。

 岡山駅に到着すると、売店に直行した。お昼ご飯は、駅弁だ。アキコさんは、お菓子と、あとトランプを買ってくれた。

 そして、在来線の特急列車に乗り換えた。松山行きの特急『しおかぜ』号だ。

 座席についてまもなく、列車は走り出す。

「ねえねえ。この電車、どうやって海を渡るの?」

 イチカちゃんは首をかしげた。

「ふふ。それは見てのお楽しみ。あ、でも安心してね。船じゃないから」

 アキコさんは意地悪な笑顔を浮かべた。実は、ヒナミは答えを知っている。でも、だまっていることにした。

「ご飯にしようよ」

 そういいながら、ミホはもうお弁当のふたを開けていた。

「うん」

 ヒナミ、イチカちゃん、アキコさんもミホに続いた。


 特急列車が最初の停車駅、児島駅に到着した頃。全員がお弁当を食べ終わった。

「ゴミ、捨ててくるよ」

 イチカちゃんが立ち上がる。

「いいわよ。私が行ってくるから」

 アキコさんが立ち上がろうとしたけど、イチカちゃんは首を横に振る。

「いいの。私が行ってくるから。ヒナミちゃん、一緒に行こ」

 イチカちゃんはヒナミの手を掴む。

「わかった。行こっか」

 ヒナミがゆっくりと立ち上がったとき、列車が動きはじめた。

 フワリ、フワリと揺れる車内をイチカちゃんに支えてもらいながら歩き、デッキへやって来た。

「ごめんね。付き合ってもらって」

 イチカちゃんはお弁当の容器をまとめて入れたビニール袋をゴミ箱に入れた。

「あのね、ヒナミちゃん。聞きたいことがあるんだけど」

 ヒナミは、デッキの手すりを掴み壁にもたれかかる。

「うん。なに?」

 イチカちゃんは一度深呼吸をする。

 列車は、トンネルに入った。ゴーっと、大きな音がする。


「パパとママ、死んじゃったの?」


 イチカちゃんは、トンネルを走る列車の音に負けないくらい、はっきりといった。

 ヒナミは、目を閉じて。考えた。ウソをつこうかとも思った。あいまいなこたえでごまかそうかとも思った。

「うん。テレビでいってた。浜に遺体が打ち上げられて、恐らくイチカちゃんのお父さんとお母さんだろうって」

 イチカちゃんはうつむく。

「イチカちゃん……あのね」

 ヒナミは、なにか声をかけようとした。でも、なにをいえばいいのかわからない。

 そのとき、突然視界が明るくなった。列車は、トンネルを抜けた。

 そして、

「うわぁ」

 声をあげたのは、イチカちゃんだった。

 眼下に青い海面が広がっている。瀬戸内の島々と、点のようにしか見えない漁船。

 列車は、瀬戸大橋を渡る。

 案内のアナウンスが入る。

『瀬戸大橋は、九年六カ月の歳月をかけて一九八八年四月に完成した三つのつり橋、二つの斜張橋、一つのトラス橋の六つの橋の総称であり、橋の下に広がる海は日本で初めて国立公園に指定された瀬戸内海国立公園です。しばらくの間、瀬戸大橋からの美しい景色をご覧ください』

 いい天気だ。列車はゴトゴトと音をたてながら、橋を渡る。

「空を、飛んでるみたい」

 イチカちゃんはじっと窓の外を見ながらいった。

「うん。空を飛んでるみたいだね」

 ヒナミは、静かにいった。


 やがて、大橋を渡り終えた列車は、宇田津駅に停まった。この駅は停車時間がながいらしい。

「戻ろっか。きっと、これから忙しくなるんだろうな。なにをしたらいいのか?」

 イチカちゃんは笑顔でそういった。そこでヒナミは思いだした。

「イチカちゃん」

 ヒナミはポケットから取り出したそれを、イチカちゃんに渡した。

「わぁ、治してくれたんだ。ありがとう」

 イチカちゃんはそれを受け取った。それは、ヘアゴムだ。大きなヒマワリの飾りが付いたヘアゴム。

「治したのはミホだけどね」

「うん。ミホちゃんにもお礼いっとく」

 イチカちゃんはゴムで髪をとめようとして、手を止めた。

「えへへ。髪切っちゃったんだった」

 ああ、今渡すべきではなかったかもしれないな。ヒナミは後悔の念に襲われた。

「ごめん」

「謝ることなんてないよ。」

 イチカちゃんはゴムを手首にとめる。

「髪は、また伸びてくるから。きっと、これからいろいろ、忙しいんだろうな。なにしたらいいかわかんないけど、イチカ、頑張るからね」

 列車は再び、走りはじめた。


 それからずっと、イチカちゃんはずっと楽しそうにしゃべり続けていた。

「ねえねえ……」

「あのね……」

「それでね……」

「きっとね……」

「そのときね……」

「それからね……」

「だからね……」

 そして、松山駅に到着した。そこでは、お父さんが迎えに来てくれていた。

 実は、アキコさんはヒナミの家にこまめに連絡を入れていたのだ。

 ヒナミは、いっぱい怒られた。でも、イチカちゃんを連れて帰ってきたことはほめられた。

 それから、ヒナミたちは家に帰った。

「ただいま」

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