第9話 赤毛の記憶

 お父さんは、ヒナミの話をゆっくりと訊いてくれた。

 昨夜、突然見知らぬ部屋へいったこと。

 そこに、イチカちゃんがいたこと。

 イチカちゃんが、酷い目に遭っているということ。

 イチカちゃんが閉じ込められているのはスケッチブックに描かれた場所に閉じ込められているということ。

 お父さんは、ヒナミの話をさえぎることなく、真剣に聞いてくれた。

「だからね、イチカちゃんを助けに行きたいの」

 お父さんは、しばらく考えてから、口を開いた。

「その絵の場所がどこか、わかるかい?」

 そうだ。そうだった。肝心なことを、ヒナミは知らないのだ。どうして、イチカちゃんに会ったときに聞いておかなかったんだろう。

 ヒナミが黙っていると、お父さんは話を続けた。

「イチカちゃんのことは、確かに僕も気になってるし、ヒナミの話を信じないといってるわけでもないんだ」

 お父さんのいうことは、正しかった。

 だから、ヒナミは素直に引き下がるしかなかった。


 どうしよう。

 お昼前。窓から潮の匂いがする風が舞い込み、扇風機がそれをかき混ぜる。

 ここはミホの家。

「よし、できた」

 ミホは、手の中にあったものをテーブルの上に置いた。

 ヒマワリの飾りが付いたヘアゴム。切れたゴムが、新しいものに交換されている。修理してくれたのはミホだ。

「ありがと」

 ヒナミはヘアゴムを手に取ると、手首にとめた。

「こんぐらいお安い御用さ。でも、どうやって返す?」

 ミホはいった。

「わかんない。どうしたらいいと思う?」

 ヒナミは持ってきたスケッチブックを開き、絵を眺める。

「ヒナミにわからないこと、あたしにもわかんないよ」

 ミホの言葉を聞きながら、ヒナミは天井を見上げた。


 ミホのマンションを出て、家とは反対の方向、砂浜へむかう。

 少し、歩こう。

 坂を下って、踏切を渡ると、杖を伝って海水を含んだ砂の感触が伝わってくる。

 足跡と杖の後を残しながら砂浜を進む。今は引き潮の時間だ。波打ち際で遊ぶ人たちの声を聞きながら、海岸と並行にまっすぐ進む。

 やがて、砂浜の端っこまで来ると、階段を登り、踏切を渡る。すると、小学校の前に出る。

 そこから、緩やかな登り坂だ。

 セミが大合唱している。額に汗が流れる。

 坂を登り切ったところの交差点で、知っている人に出会った。足を捻挫して道でうずくまっていた女の人――アキコさんだ。

「あっ、ヒナミちゃん。お久しぶりね」

 女の人は両手にスーパーマーケットのビニール袋を持っている。

「お久しぶりです。一つ、持ちましょうか?」

 ヒナミはいった。ビニール袋は、中身がぎっしり詰まっていて重そうに見える。杖を持ったままでも、一つくらい運べるだろう。

「ありがとう。でも、大丈夫。もう足も治ったから」

 アキコさんは笑いながら袋を持つ腕を上げ下げした。

「イチカちゃんは一緒じゃないの?」

「実は、イチカちゃんは親戚の人に引き取られていったんです」

 アキコさんは、ヒナミの手首のヘアゴムを見た。

「そう……もし時間があったら、私の家でお茶でもどう? イチカちゃんのこと、詳しく聞かせてほしいな」

 ヒナミは首を縦に振った。


 ヒナミは歩きながら、イチカちゃんと出会って、お別れして、連絡が取れなくなっていること、それから、これは話そうかちょっと迷ったけど、不思議な力で昨夜イチカちゃんに会ったこと、絵の場所がどこかわからないことを話した。

 アキコさんは、うん、うん、とうなずきながら、ときおり何かを考え込むような仕草を交えながら、ヒナミの話を聞いた。

 そして、アキコさんの家までやって来た。

 リビングに入ると、ヒナミは椅子に座り、アキコさんが入れてくれたミルクティーを飲む。冷たくって、おいしい。

「ヒナミちゃん、そのスケッチブック、今持ってる?」

 アキコさんの言葉に、ヒナミはうなずき、肩に掛けていた鞄からスケッチブックを取り出した。

「ちょっと見せて」

 アキコさんはスケッチブックの頁をめくる。そして、あの絵が現れた。

「やっぱり、そうだったんだ」

 長い時間がたった。アキコさんはおもむろにそういった。そして、こう続ける。

「ここ、行ってみる?」

「へ?」

 突然のことで、ヒナミはなにをいわれたのかわからなかった。

「その絵に描かれている町、行ってみる?」

「わかるんですか?」

「うん。私の生まれた町だから。細かいところまでよく描けてる。懐かしいな」

 アキコさんは涼しい顔でいった。

「私ね、たぶん、イチカちゃんのお父さんとお母さんのこと、知ってるんだ」

 アキコさんはゆっくりと話しはじめた。


 アキコさんが生まれ育たのは、山奥の小さな町だった。

 アキコさんとイチカちゃんのお父さん――ハジメさんとは幼なじみで、物心ついた頃から毎日のように一緒に遊んでいたのだという。

 双方の両親も、大きくなったら結婚しろとしきりに繰り返していた。

 同じ小学校に入り、一つの学年に一クラスしかない学校だったからずっとクラスメートだった。周囲からはカップルなんて冷やかされることもあったけど、アキコさんは本当はそれが嬉しかったそうだ。

 四年生になったとき、転校生がやって来た。

 赤毛の女の子。それがイチカちゃんのお母さん、ハナさんだった。

 伏し目がちで内気な女の子。そんな印象だったそうだ。

 転校してきて少したった頃だ。ハナさんはいじめられるようになった。理由は、ハナさんが赤毛だったこと。

 偶然、いじめの現場に通りかかったアキコさんとハジメさんは、ハナさんを助けた。

 それ以来、三人は仲良くなり、いつも一緒にいるようになった。

 ハナさんはなにか訳ありのようで、どこから来たのか、なぜ引っ越してきたのか、なにも話してくれなかったそうだ。わかっていたのは、母子家庭だったこと、決して裕福ではなかったということだった。

 三人は同じ中学に行ってそれでも仲良しだった。三人で、キャンプに行ったこともあったそうだ。

 離れ離れになったのは、高校に進学したときだった。

 ハジメさんとハナさんは地元の学校へ進学したけど、アキコさんは全寮制の学校を選んだ。


「なんで、同じ学校に行かなかったんですか?」

 ヒナミが尋ねると、アキコさんは少し考えてから

「私ね、ハジメのことが好きだったの。でも、ハジメが好きになったのは、私じゃなかった。ハジメのことはなんでも知ってるつもりでいた。でも、ハジメとハナちゃんだけの秘密も、いろいろあったの。そういうこと」


 ここからは、アキコさんも人伝いに聞いた話だそうだ。

 高校に入ってすぐにハナさんのお母さんが病気で亡くなった。

 そして、ハナさんはアルバイトをはじめた。その場所は、ハジメさんの家だった。

 実はハジメさんの家は骨董屋をやっていたのだ。

 しかし、ハナさんがアルバイトをはじめてすぐにお店に泥棒が入った。

 夜の間に、店の鍵が開けられて、商品が根こそぎ無くなっていたそうだ。

 そして、ハナさんが犯人ではないかといいだす人が現れた。それは、ハジメさんの弟立った。

 もちろん、一女子高生であるハナさんが大量の骨董品を一夜で運び出すなんてできっこない。

 だけど、元々どこから来たのかもわからないこと、お金に困っていたこと、赤毛だったこと、ハナさんを犯人だという人は、そういった理由をあげて次第に周囲を納得させていった。


「赤毛って、関係あるんですか?」

 ヒナミはふと疑問に思った。

「ないよ。余所者って不信感をそこにぶつけていただけ」

 アキコさんはそういってから、一口ミルクティーを飲んだ。

 そして、話を続ける。


 骨董品を盗んだ犯人はハナさんだ。その噂は次第に独り歩きをはじめ、ハナさんが犯罪を犯した、という話ばかりが広がった。

 ハナさんは嫌がらせを受けるようになり、徐々に居場所を失っていった。

 嫌がらせはエスカレートしていき、ハナさんは笑顔を失った。

 ある日、ハジメさんとハナさんが町からいなくなった。

 どこへ行ったのか、誰も知らない。生きているのか、死んでいるのかもわからない。

 町の人たちも、警察も、それからアキコさんも、二人の行方を探したけど、見つからなかった。


「それから、どうなったんですか?」

「一年くらいした頃かな。突然、私の通っていた学校の寮に封筒が届いたの。差出人は書いてなくて、中にはイチカちゃんにあげたあのヘアゴムだけが入っていたの」

 ヒナミは自分の手首にとまっている、ヒマワリの飾りがついたヘアゴムを見た。

「それね、ハナちゃんのお気に入りだったの。きっと、生きているって伝えてくれたんだろうね」

 アキコさんはミルクティーを一口飲む。

「ハジメのお店は泥棒の被害から立ち直れなくてつぶれちゃったの。でも、お店だった建物はハジメの弟が家として使っているわ。その絵の建物よ」

「私を、連れていってくれませんか?」

 考えるよりはやく、ヒナミはそういっていた。

「だめ。こういうことは、大人にまかせてくれないかな?」

 ヒナミは無言で首を横に振った。

「わかった。お家に電話だけ、いれておいてね」

 アキコさんは、驚くほどすんなりと優しい声でいった。


 ヒナミは、家に電話をかけた。「今夜、ミホの家に泊まることになった」と。

 港にむかう途中で、ミホに出会った。大きなショルダーバッグを持っている。

「ヒナミ、どこいくの? アタシの家はそっちじゃないぞ」

 ミホは、ヒナミの前に立つ。

「ヒナミのお母さんから電話があった。ヒナミがお世話になります、ってね」

「ごめん、勝手に名前、使っちゃった。イチカちゃんの居場所がわかって……私はどうしても行きたいの」

 ミホは、ニコッと笑った。

「適当に、ごまかしといたよ。そのかわり、私も連れてってよ」

 ミホは、パンパンとショルダーバックを叩いた。

「ヒナミちゃんのお友達?」

 アキコさんが尋ねたので、ヒナミは首を横に振った。

「私と、イチカちゃんの友達です」

 ヒナミは、はっきりといった。


 アキコさんが買ってくれた乗船券を持って、高速船に乗った。

「ミホちゃん、お家は大丈夫なの?」

 座席についてから、アキコさんは尋ねた。

「はい。親父は仕事が忙しいとかで、何日か帰ってこないんです」

「お母さんは?」

 ミホは苦笑気味の笑顔を浮かべた。

「両親は、あたしが幼稚園のとき、離婚したんです」

「そう……ごめんなさい」

 アキコさんの声が小さくなった。

「あたしは、気にしてないです」

 そのとき、出港のアナウンスが入った。


 高速船で海を渡り、そこから新幹線と、何本かの列車を乗り継いだ。新幹線のデッキで、駅のホームで、アキコさんはスマートフォンを使って何度も電話をかけていた。ヒナミは、ミホに簡単に状況を説明した。

 目的地に到着したときには、もうすっかり日が暮れていた。

 プラットホームから、ゆっくりと階段を登って、陸橋を渡り、またゆっくりと時間をかけて階段を下りて改札を抜けた。

 四方を山に囲まれた、盆地にある町だった。

 品のある、古風な街並みが広がっている。観光地になっているようだ。

 ヒナミたちは、川辺の道を歩いていく。

「とりあえず、今夜は私の実家に泊まりましょう」

 アキコさんはそういった。


 アキコさんの実家は、縁側のある大きなお屋敷だった。時代劇にでも出てきてもおかしくない。

 玄関の前に、老夫婦が立っていた。この人たちが、アキコさんの両親のようだ。

「おかえり、アキコ。それからいらっしゃい、ヒナミちゃん」

 おじいさんがいった。

 広間には、豪華な夕食が並んでいた。

「お母さん、これ……」

 アキコさんは、驚きの表情を浮かべる。

「久しぶりに帰ってくるっていうんだから、張り切っちゃった」

 おばあさんがいった。

「もう、年なんだから無理しちゃだめよ」

 アキコさんは、そういいながらも、なんだか嬉しそうだった。


 ご飯を食べてから、ミホとお風呂に入り、それからパジャマを持ってきていない、というか荷物を何も持ってきていないヒナミは、アキコさんが子供のときに着ていたというパジャマを借りた。

 広間に、布団が三つ、川の字に敷いてあった。そして、真ん中の布団の上に、アキコさんが座っていた。テレビで天気予報を見ている。

「さて、明日は晴れ。作戦会議といきましょうか」

 アキコさんはヒナミたちに気付くと、そういった。ヒナミとミホは、それぞれ布団の上に座る。

「イチカちゃんがいるはずの家はね、裏に倉庫があるの。倉庫は、家の中からも出入りできるんだけど、もう一つ、直接外に出入りできる扉があるの。そのカギが、これ」

 アキコさんは、三人の真ん中に鍵を置いた。

「たぶん、普通にイチカちゃんに会わせて、っていってもなんだかんだで会わせてくれないだろうから、こっそり連れ出しちゃおうと思うの。私が、玄関で世間話でもして、時間を稼ぐから、ミホちゃん、扉を開けてイチカちゃんを連れ出して」

 ミホは、真剣な表情で鍵を手に取った。

「なんで、そんなもの持ってるんですか?」

 ミホは尋ねた。

「昔ね、よく倉庫に忍び込んで遊んでいたのよ。私と、イチカちゃんのお父さん、お母さんの三人で。でね、なんでだったか忘れたけど、倉庫の合鍵を預けてもらったことがあって、そのまま返すの忘れてた」

 アキコさんは子供のような笑顔を浮かべた。

「駅前に集合ね。十時四分の列車に乗って帰るから、もしも失敗しても、ちゃんと駅に来てね」

「私は、なにをすればいいですか?」

 ヒナミは尋ねた。

「ヒナミちゃんは駅前で待機。ミホちゃんとイチカちゃんが戻ってきたら、迎えてあげて」

 要するに、ヒナミには出来ることはなにもないということだ。

「わかりました」

 でも、ヒナミはうなずいた。


 そのとき、テレビで緊急速報の音が鳴った。

 ヒナミたちは一斉にテレビを見た。

 そこには、字幕スーパーでこんなニュースが流れていた。


『○○海岸で男女の遺体発見。先月のフェリー事故の行方不明者とみて警察捜査』


「これ、イチカちゃんの親父さんとおふくろさんだよね」

 ミホがいった。

「ハジメ、ハナちゃん……」

 アキコさんが小さな声でつぶやいた。

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