第8話 夢であるように
港に着くまでは、ただただ苦痛だった。
私はまた海に落ちてしまうのではないか。そんなイメージが脳裏に焼き付いて離れません。
出来るだけ、海を見ないように。船の真ん中で小さくなっていた。
怖い、怖い、怖い。
港に着いたとき、思わず涙が出てきた。
船を降りてから、自動車でおじさんの家へむかう。
おじさんはずっと無口で、不機嫌だということが伝わってきました。
私は、おじさんが不機嫌な理由は私がメソメソしているからだと思い、明るく振舞おうとしました。
まるで、明るい気分ではありませんでした。
だけど、あれやこれやと、無理に明るく振舞いました。
それでも、おじさんはずっと黙ったままでした。
車は、市街地から山間の道へと進んで行きます。
途中、道の駅で休憩をとったときです。
おじさんは、人目につかないところへいくと、突然、私を突き飛ばしたのです。
なにが起こったのか、わかりませんでした。
それから、何度か蹴られて、罵倒されました。
うるさい、と。うっとうしい、と。
私はただ「ごめんなさい」といいつづけていました。
おしゃべりが、いけなかったのかな。
どうして、どうして……。
イチカちゃんとの突然のお別れから数日がたった。
あんなお別れのしかた、したくなかったな。
ううん。っていうか、そもそも、お別れしたくなかったな。
ヒナミはリビングでソファーに座り、ため息をついた。
「ねーちゃん、十七回目」
弟のヨウタは部屋のすみで携帯ゲーム機をいじくりながらいった。
「そんなに宿題進まないの?」
ヨウタは画面から目を放さない。
「わかんないとこあったら、教えるよ」
同じ学年といえども、学業成績はヨウタの方が上だといえども、どう考えてもヨウタの方が優秀だとしても、お前は弟なんだぞ。生意気な。
「そんなことない。やろうと思えばいつでも」
ヒナミはツンッとした感じでいいかえした。
「でも、やる気おきないんでしょ?」
ヨウタの一言がグサリと突き刺さる。はい、その通りでございます。
「郡中さんのこと、気になんの?」
さらに、ヨウタはいった。
ああ、見透かされてる。お前はよくできるやつだよ。弟。
「……」
沈黙。ヨウタの手の中のゲーム機の音だけが響く。
やがて、ヨウタの声が聞こえた。
「お父さんに聞いたら、連絡先わかると思うよ」
「ありがと」
ヒナミはソファーのひじ掛けを支えに立ち上がった。ヨウタのゲーム機から、ステージクリアの音楽が流れた。
お父さんは、書斎の扉をいつも開けっ放しにしている。
「あのね、お父さん」
ヒナミが入ると、お父さんはニコリと笑った。
「イチカちゃんの電話番号だろ。まっててね」
ヒナミは小さくうなずく。
「聞いてたんだ」
「子供の声を聞くのが父親だ」
お父さんはそういってから、照れたように笑った。
お父さんに教えてもらった電話番号にかけてみる。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
あれ? ダイヤル押し間違えたかな?
もう一度。
『おかけになった……』
ゆっくりと、受話器をおろす。
「お父さん、繋がらないよ」
横にいたお父さんは「おかしいな」といいながら、電話をかける。しかし、すぐに受話器をおいた。
「なんでだろう。つながらない」
首をかしげるお父さんとヒナミ。
お父さんが調べてくれてた。
イチカちゃんが暮らしているはずの住所は、存在しないものだった。
「もう少ししらべてみるよ」お父さんはそういった。
まるでやる気のない宿題を、無理やり消化した。
やる気がないわりに、たくさん終わらせることができた。
そして、あっという間に日が暮れて、夜になった。
ベットに入ると、また、イチカちゃんの顔が浮かんできた。
元気かな? 元気だといいな。
眠っていたことに気付いたのは、目を覚ました後だった。机に、伏せて寝ていた。
時計は、深夜。
部屋の照明、点けっぱなしだった。
トイレ行こ。
机に立てかけた杖を掴んで、立ち上がる。背中から、タオルケットが床に落ちた。誰かがかけてくれていたみたいだ。お母さんかな?
部屋を出て、廊下をはさんでむかいのドアがトイレだ。
用を足して、トイレを出ると、ウミがいた。ピンク色のパジャマを着ている。
「なに? アンタも行くの? 電気は消しといてね」
ヒナミはそういってから、大きなあくびをする。眠気のせいで、不機嫌ないい方になってしまった。ごめんね、ウミ。
ウミは首を横に振った。
「じゃあ、どうしたのよ?」
ヒナミはそういいながら、ドアを開け、部屋に入った。
「へ?」
間抜けな声が出た。一発で、目が覚めた。
素足に伝わってくる感覚は、どう考えてもヒナミの部屋に敷かれている絨毯のものではなかった。もっと、もっと硬くて、冷たくて、ざらざらしている。そう。コンクリートのような。
気が付くと、周囲は真っ暗だ。なんにも見えない。
ヒナミはゆっくりとしゃがむと、手で周囲をさぐる。やっぱり、コンクリートだ。
とりあえず、引き返そう。
ヒナミは四つ這いで、百八十度むきを変え進む。
なのに、おかしい。どう考えても、この部屋に入ってきてから進んだ量よりも、引き返そうと進んでいる量の方が多いのにドアの感触がない。
「ウミ、ウミ。どうなってるの?」
ヒナミはそういいながら、進み続ける。さっきまで、近くにいたはずだ。
そのとき、手がなにかに触れた。すべすべしていて、軟らかくて、あったかい。
ヒナミはそのなにかを手でなぞっていく。これは、人だ。誰かがここにいる。慌てて手を引っ込めた。
人は、もごもごと動く気配がする。
「ご、ごめんなさい」
ヒナミの前にいる人は、そういった。か弱い、小さな声だった。
でも、この声をヒナミは知っていた。
「イチカちゃん?」
答え合わせ。
「そうだけど……もしかして……ヒナミちゃん?」
正解。
「ちょっと待ってね。電気点けるから」
そういってから、イチカちゃんらしき人はモゴモゴと動く。
そして、灯りが点いた。
そこは、六畳ほどの部屋だった。床はコンクリート。壁には一切窓がなく、同じく窓のないドアが二か所ある。天井には、電球が一個ぶら下がっている。
そして、イチカちゃんがいた。
頬、手、足。いたるところに細かい傷がある。顔はやつれていて、髪には緑色のペンキのようなものがべっとりとついている。
だけど、イチカちゃんだった。
ヒナミは壁にもたれかかって座った。
「ヒナミちゃん。なんでここにいるの?」
「わかんない。気が付いたらここにいた。ここってどこなの?」
ヒナミはいった。
「ここ、おじさんの家だよ」
イチカちゃんは二つのドアを交互に、何度もガチャガチャとやっていたが、鍵がかかっているのか開かない。やがてあきらめたようにヒナミの横に座った。
「その傷、どうしたの?」
ヒナミが尋ねると、イチカちゃんは隠すように頬の傷に手をあてた。
「これは……これはね……おじさんに殴られたり、蹴られたりしたの」
イチカちゃんの声は、だんだんと小さくなっていった。
「警察にいこうよ、イチカちゃん。こんなの、だめだよ」
ヒナミはいった。それしか、解決法が思いつかなかった。
「どうやって?」
でも、イチカちゃんは冷静な口調で返事をした。
そうだ。ここのドアは全部鍵がかかっているんだった。
「なんで、こんなことに?」
ヒナミは尋ねた。
「パパとママはね、私のためにたくさんお金を貯めておいてくれたの。それに、イチカが海に落ちた事故も、フェリーの会社が悪いってことになったら、イチカはたくさんお金がもらえるんだって」
イチカちゃんは最後に「それが目的」と付け加えた。
「お金って、そんなに大事なものなのかな?」
ヒナミは、静かにいった。
「おじさんにも、子供がいるの。マコトくんっていって、六年生の男の子。その子の夢をかなえるために、お金がいるって、おじさんはいってた」
「だからって、イチカちゃんがこんな目に遭う必要なんてないよ。おかしいよ」
ヒナミは思わず叫んだ。
イチカちゃんは自分の口に指をあてた。静かに、ということだ。
「おじさんに気付かれちゃう」
ヒナミは気持ちを落ち着かせるために、深呼吸した。
「もう、お金とかそんなのどうでもいいよ。全部、全部あげるから、帰りたいよ」
イチカちゃんは、お腹に手をあてた。
「また、ヒナミちゃんのママのごはん、食べたいな」
そっか、イチカちゃんお腹空いてるんだ。ヒナミはお菓子でも持っていないかとポケットを探った。でも、あったのはお守りの勾玉だけだった。
いや、お守りの勾玉があるのだ。
「イチカちゃん。ちょっとだけ、待っててくれる?」
イチカちゃんは不思議そうにヒナミを見た。
「必ず、助ける。だから、ちょっと待ってて」
「助けて……くれるの? どうやって?」
ヒナミははっきりとうなずいた。
「どうするかはこれから考える。でも、信じて」
ヒナミは勾玉を強く握ると、心の中で唱える。
ウミ、イチカちゃんを助けて、と。
「ギュルルルオー」
轟音が、響いた。
「わかった。信じてみる」
かすかに、でもはっきりと、イチカちゃんの声が聞こえた。
その夜、不思議な夢を見ました。
ヒナミちゃんが、私のところにやって来たのです。
びっくりしました。
ヒナミちゃんの声も、匂いも、はっきりとしていて、夢ではないみたいです。でも、残念ながらこれは夢です。
だって、この部屋の二か所ある出入り口は、どちらも鍵がかかっていたのです。いくらヒナミちゃんが小柄でも、入ってこられるわけがありません。
そもそも、ヒナミちゃんがここを知っているというのも不思議な話です。
だから、あれは夢だったのです。
でも、もしも夢じゃなかったらいいなって、思うのです。
気が付くと私は、いつも通り壁にもたれ眠っていました。当たり前ですが、ヒナミちゃんはいません。
いつも眠る前に消している電球が、今日は点けっぱなしになっていました。
「イチカちゃんっ!」
そういいながら起きた。
バサッ、と音がした。目をむけると、床にスケッチブックが落ちていた。それは、間違いなくイチカちゃんのものだった。
そのとき、窓から風が吹き込み、スケッチブックの頁がめくられていく。
新品のはずのスケッチブックなのに、それなのに、最後の頁にそれはあった。
色あざやかな絵の具で、どこかの山奥の集落の風景、そこに建つなにかのお店のような建物が描かれている。
ヒナミはスケッチブックを拾い上げ、見つめる。
見覚えのない景色だ。でも、
「ここに、イチカちゃんがいるんだ」
ヒナミは部屋のすみを見た。そこにはウミが立っていて、目が合うと小さくうなずいた。
「行かなきゃ」
ヒナミは部屋を飛び出すと、お父さんの書斎へいった。
「お父さん、イチカちゃんが」
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