第7話 さよならイチカ

 ヒナミの家の前に、見なれない車が止まっていた。

 ナンバープレートを見ると、本州から来た車だってわかる。

 玄関にも、知らない人の靴があった。やっぱり、誰か来ている。

 そう思いながら、リビングに入ったときだ。

「あー。思い出したー。病院に来てた人だー」

 イチカちゃんは叫んだ。さっきの男の人が、リビングにいた。ヒナミのお父さんと一緒に、コーヒーを飲んで、くつろいでいた。

「おかえり」

 男の人は、笑顔で挨拶をした。

「こんにち……は」

 ヒナミは、首を曲げてお辞儀をしてから、お父さんを見た。

「この人はイチカちゃんの遠い親戚だよ」

 お父さんはそういった。どことなく、機嫌がよさそうに見える。

「ごめんね。急に予定が空いたから、イチカに会いに来たんだよ。そしたら、学校に行ったって聞いたから、見に行ったんだけど……ビックリしたよ。急に走り出すんだもん」

 男の人は苦笑いのような笑みを浮かべた。

「ごめんなさい。ずっとこっちを見てたから、不審者かと思って……」

 ヒナミは男の人から目をそらしていった。

「元気があっていいよ」

 男の人は笑いながらいった。

「ヒナミちゃんだね。お父さんから話は聞いているよ。イチカが世話になったね。ありがとう」

「イチカちゃんを、迎えに来たんですか?」

 ヒナミは、落ち着いた口調で尋ねた。

「それをどうしようかって、話しに来たんだ」

 ヒナミは小さく「そうですか」といった。

「そういうことなんだ。イチカちゃん。どうだろう、家に来て見ないかな?」

 男の人の視線は、イチカちゃんに向く。

「えっと……」

 イチカちゃんは困ったような表情を浮かべた。

「もちろん、今すぐに答えを出してほしいわけじゃないよ。ゆっくりと考えるといい」

 男の人はそういってから、視線をヒナミの脚にむかった。

「かわいそうに。子供なのに」

「べつに。これが、私の普通ですから」

 ヒナミは少しいら立っている自分を感じた。

「ごめんね。俺にもヒナミちゃんたちと同い年くらいの子供がいるから、ついね」

 男の人はヒナミの様子に気付いたようだ。

 いら立ちを感じた理由が、ヒナミにはわからなかった。

「ヒナミちゃん、ミホちゃん、ちょっとだけ、この人とお話したいの」

 イチカちゃんはつぶやくように、小さな声でいった。


 イチカちゃんをリビングに残して、ヒナミとミホはヒナミの自室へ移動した。

 リビングで、イチカちゃんと、お父さんと、男の人が話す声がする。でも、会話の内容まではわからない。

「あの人、イチカを見てたんだね」

 ミホはいった。

「うん」

 ヒナミは

「これから、どうする? ヒナミ」

 ミホが尋ねる。

 ヒナミはドアのところまで這っていくと、ちょっとだけ開けた。リビングから、お父さんと、男の人と、たまにイチカちゃんの声も聞こえる。

「二人で、見に行こうか。イチカちゃんの水着」

 ヒナミはミホを見ながらいった。


 イチカちゃんの邪魔をしないよう、そっと、お母さんに事情を話すと「いっておいで」といってもらえた。交通費と水着代に使いなさいといって、おこずかいももらえた。

 ヒナミはミホと駅へ行くと、やって来た電車に乗り込んだ。適当な空席を見つけ、二人並んで座る。

 カタリ、コトリ。電車は軽い足取りで走る。

 地元の駅から電車に乗って二十分ほど。松山市駅に到着だ。

 駅の上は大きなデパートになっている。小学校に入る前、お父さんがデパートの上の観覧車に乗せてくれたのを覚えている。

「イチカって、身長どれくらいかな?」

 子供服売場。ずらりと並んだ水着を見ながら、ミホはいった。

 ヒナミより高くて、ミホより低い身長。それは病死した友達、チサトちゃんと同じくらいだ。生前、チサトちゃんはいっていた。自分の身長は一三〇センチちょっとだと。

「一三〇センチってとこじゃないかな? 勘だけど」

 ヒナミは、あえてチサトちゃんの名前を出さないでいった。

「そうだね。チサトと、同じくらいだもんね」

 ミホが、チサトの名前を出したことで、ヒナミは安心感を覚えた。チサトちゃんのことを忘れられないのは、自分だけじゃないんだと。

「うん」

 ヒナミは、うなずいた。

「これなんてどうかな?」

 ヒナミは適当に近くにあったものを指差す。値段も、サイズも、ちょうどいい感じだ。

「う~ん。もうちょっといいのない?」

 しかし、ミホは不満げだ。

「でも、学校行事だから、あんまり派手なのは……」

「それにしても、プレゼントなんだから、かわいいのにしなきゃ。これとか」

 ミホが手に取ったのは、ミニスカートのような飾り布のついた水着だった。

 そうだ。ミホの意見ももっともだ。

「うん。そうだね。いいと思う」

 ヒナミは素直に感想をいった。

 その水着は、お母さんからおこずかいではちょっと高かった。だから、ヒナミとミホは前から貯めていたおこずかいも少しずつ出し合った。


 話は、結論ありきで進んでいきました。

 私は、この男の人の家で暮らすことになりそうです。

 私の中では、大きな不安がありました。

 本当は、ヒナミちゃんの家に居続けたかった。

 でも、それを口に出すことはできませんでした。

 ヒナミちゃんのパパには、もうすでに返しきれないくらいの恩があります。これ以上、迷惑をかける訳にはいきません。

 私は、この男の人のところで暮らすことを、承諾しました。

 しかし、ここから予想外の展開となりました。

 今日、このまま引っ越そうといい出したのです。

 ヒナミちゃんのパパは、反対しました。でも、男の人(おじさんと呼ぶのが適当なのかな? ここからそうします。)は、仕事の都合とか、いろいろな理由をいっていました。

 そして、私は今日、これからおじさんの家へいくことになったのです。それが出来るほど、私の持ち物は少なかったのです。

 私は、ヒナミちゃんや、ミホちゃんにさようならをいいたいと思いました。でも、私がおじさんと話している

 もしも、パパとママが生きていたら。

 もしも、帰ってきてくれたら。

 それが、最も幸せなのに。


 ヒナミたちは駅のホームで電車を待つ。

「イチカ、喜んでくれるかな?」

 ミホの手には、デパートの袋が握られている。

「うん。大丈夫」

 ヒナミはいった。きっと、似合うはずだ。

 踏切の音が鳴り、電車はゆっくり、ホームへ滑り込む。

 帰りの電車は、部活帰りの学生で混んでいた。でも、ドアの近くに座っていた人が席を譲ってくれた。ヒナミは大丈夫といったけど、強く勧められたのでご厚意に甘えさせてもらうことにした。

 やがて線路は、緩やかな曲線を描く。そこを抜けると、車窓に海が広がる。沈みかけの夕日に、オレンジ色に照らされている海だ。

 電車は弱いブレーキをかけて減速する。

『梅津寺、梅津寺です。ありがとうございました』

 アナウンスが入る。ヒナミとミホの降りる駅だ。

 駅に止まり、ドアが開いてから立ち上がり、電車を降りた。

 駅員さんに切符を渡し、駅の外へ。

 そこから、家にむかって歩く。イチカちゃん、喜んでくれるかな?

 家の前の車が、無くなっていた。男の人、帰ったんだ。

「ただいま」

「再びお邪魔しまーす」

 ヒナミとミホは家に入った。

 あれ? イチカちゃんとお父さんの靴がない。ついでにあの男の人の靴も。

「おかあさーん。イチカちゃんとお父さん、どこかいったのー」

 ヒナミは、玄関から大きな声でいった。


 ミホは、ヒナミを背中に乗せて走る。


「イチカちゃんは、親戚のおじさんのところにいったのよ」


 お母さんは静かにそういった。今から船に乗って、海のむこうへ行くのだという。

「港にいこう」

 そういったのは、ミホだった。

 ミホはヒナミをおぶって、港への道をひた走る。

 はやい。はやい。

 でも、港まではそこそこの距離がある。

 だんだん、ミホの息が切れてくる。

「大丈夫? ミホ」

 ヒナミは声をかけた。

「ごめん……ちょっと……休憩……。ヒナミ、先いって」

 ミホは、息も絶え絶えにそういって、その場にしゃがむ。

「わかった。ありがと」

 ヒナミは、ミホの背中から降りると、全速力で港にむかって歩き出す。それでもゆっくりだ。

 急いで、急いで。

 でも、ゆっくりだ。

 あと少し。もう少しで港に着くのに、とっても遠く感じる。


 船に乗るくらい、大丈夫だろうと思っていました。

 でも、いざそのときになると、怖くて、怖くて、たまらなくなりました。

 海に落ちた時のことを思い出したのではありません。

 ただ、ただ『怖い』という思いで心がいっぱいになったのです。

 おじさんが乗船手続きをしている間、私はヒナミちゃんのパパと喋っていました。

 私は、ヒナミちゃんのパパに遠回しに船に乗りたくないことを伝えました。でも、心配させたくない気持ちも働いて、明るく、冗談ぽっくいったのがいけなかったのです。

「大丈夫。なにかあったら、また助けにいくから」

 ヒナミちゃんのパパはそういって笑っていました。私は、本当は「ずっとこの街で暮らしていい」って、「船になんか乗らなくていい」って、そういってほしかった。

 でも、出港の時間はやってきます。

 おじさんは、車に乗るようにいいました。船には、車ごと乗り込むのです。

 私は、バクバクと高鳴る胸に手をあて、何度も後ろを振り返りました。

「怖くない」「怖くない」「怖くない」

 何度も何度も心の中で繰り返しましたが、まるで意味がありません出hした。

 私がゆっくりと歩くものだから、おじさんは私の腕をつかみ、引っ張りました。乗り遅れることはあってはならないとわかっていました。それでもお別れは辛いものでした。

 そのとき、頭部に違和感を感じました。

 ヘアゴムが切れて、髪が解けたのです。

 私は、ヘアゴムを拾おうとしました。あれは、おばちゃんからもらった、大切で、お気に入りのものなのです。

 でも、それは叶いませんでした。

 おじさんが強く腕を引っ張るから、立ち止まることができませんでした。

 車に乗せられ、そして、船へ。

 私たちが乗り込むと、すぐに船は出港しました。

 ヘアゴムを失ったことはとっても悲しかったです。

 おじさんは、出港時間が迫っていたから私の腕を強く引っ張ったんだ。そう思って、納得しておきました。


 港に着くと、ちょうど、カーフェリーが出港したところだった。

「イチカちゃん……」

 ヒナミは荒い呼吸の合間につぶやく。

 ロビーを見渡しても、イチカちゃんの姿は見当たらない。

 ヒナミは展望デッキに移動した。

 夕日に照らされた瀬戸内海を、カーフェリーが進んでいく。さっき、この港を出たばかりの船のようだ。

 船を見送る人の中に、知っている人がいた。お父さんだ。

「お父さん」

 ヒナミは、声をかけた。

「ああ、ヒナミか。来たんだ」

 お父さんは、カーフェリーから視線をそらさないでいった。

「イチカちゃんは?」

 ヒナミは尋ねた。なんとなく、答えの予想はついていたけど。

「あの船だよ。イチカちゃん、広島にいったんだ」

 広島。ヒナミの街から海をはさんだむこうがわ。

「ごめんな、ヒナミ。こんなお別れのさせ方しちゃって」

 ヒナミはなにかいおうとした。でも、言葉が出てこなかった。

「ヒナミ、イチカちゃんは?」

 そこに、ミホが追いついてきた。汗だくで、呼吸が荒い。

「いっちゃった。追いつけなかった」

 ヒナミは、カーフェリーを見ながらいった。もう、水平線上の点になっている。

「アイスでも、食べるか? ミホちゃんも」

 お父さんは、静かにいった。

「……うん」

 ヒナミは、小さくうなずいた。

 そのとき、手になにか冷たいものが触れた。

「へ?」

 顔をむけると、ウミだった。ヒナミの手を握っている。

「どうか……したの?」

 ウミは、ヒナミになにかを握らせようとしているみたいだ。ヒナミは杖から手を放し、受け取った。

 それは、ヘアゴムだった。ヒマワリの飾りがついたヘアゴムだ。でも、ゴムの部分が切れている。

 そう。イチカちゃんのヘアゴムだ。

 ヒナミはまた、海を見た。もう、カーフェリーは見えない。

「イチカちゃん……」

 瀬戸内の波は、穏やかだった。

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