第4話 星に願いを

 イチカちゃんが肩を貸して、女の人は道路のはしっこに移動した。

「ちょっとごめんね」

 イチカちゃんは女の人の靴と靴下を脱がせる。女の人の足首は、真っ赤になって腫れていた。

「捻挫かな? おばちゃん、家は近くなの?」

 イチカちゃんは女の人に靴下と靴を履かせる。

「うん、すぐ近くだよ」

 その返事を聞いた途端、イチカちゃんは笑った。

「じゃあ、とりあえず帰ろっか。それがいいよ」

 イチカちゃんは帽子のリボンを解くと、女の人の足に、靴の上からまいてゆく。

「やめて、リボンが汚れちゃう」

 女の人はそういったけど、イチカちゃんは手を止めない。

「いいの、いいの。足首を固定しちゃったら、歩けるはずだから。ちょっと窮屈かもしれないけど、我慢してね」

 イチカちゃんは、リボンをくくった。女の人の足は、しっかりと固定されているように見える。鮮やかな手際だった。

「さ、帰ろっか」

 イチカちゃんはいった。


 歩きながら、女の人の名前が郡中アキコということを知った。

 アキコさんの家は、ヒナミの家の近くだった。 家にはいると、所狭しと並べられたキャンバスと、絵の具のにおいに出迎えられた。

「おばちゃん、絵を描くんだ」

 イチカちゃんはうれしそうにいった。

「うん。そうなの」

「イチカも、お絵かき大好きなの」

 和室の畳の上にアキコさんを座らせた。

「そこの戸棚に救急箱があるの。出してくれる?」

「冷蔵庫に保冷剤があるの。出してくれる?」

 すると、アキコさんはてきぱきと指示を出しはじめる。そして、慣れた手つきで包帯を巻いてから、保冷剤で冷やす。

 ヒナミはその様子を座って見ていた。

「おばちゃん、お医者さんかなにか?」

 イチカちゃんが尋ねた。

「正解。私ね、救急隊なの」

 アキコさんはそうこたえてから、ちょっと恥ずかしそうにはにかみ、「そのわりに情けないところ、見せちゃったな」といいました。

「さっきの応急処置、とってもよかったわ。イチカちゃん、ヒナミちゃんありがとう」

 アキコさんがいうと、イチカちゃんがすかさずこたえる。

「パパとママに教えてもらったんだ」

「そうなんだ……。綺麗な赤毛ね。お父さんかお母さん、外国の人?」

「ママのママがね、外国の人なの」

 イチカちゃんがこたえると、アキコさんは、少し考える。

「イチカちゃん、そこのタンスの一番上の引き出し、開けてくれる?」

 アキコさんは部屋の隅のタンスを指さす。

 イチカちゃんは小さくうなずくと、立ち上がり引き出しをあける。

「そこにね、髪留めが入ってるでしょ?」

 取り出したのは、一個のヘアゴムだった。大きなヒマワリの飾りが付いている。

「それ、使ってくれないかしら?」

「いいの?」

 イチカちゃんは顔を上げる。

 アキコさんはうなずいた。

「昔、友達にもらったんだけど私は使わないから。もしよかったら、使ってくれないかしら?」

 イチカちゃんは、手の中のヘアゴムを見つめる。

「ねえ、おばちゃん。イチカっていうのはね、一輪の花だから、パパとママの間に最多一輪だけの花だから、イチカっていうんだって。ママがいってた。ありがとう。これ、使うね」

「そう。いい名前ね。大切にしてね」

 アキコさんがいうと、イチカちゃんは「へへっ」と笑った。


 ヒナミとイチカちゃんは女の人の家を出た。

「フンフン フンフ フフッフフーン」

 ヒナミの数歩前を歩くイチカちゃんはご機嫌だ。鼻歌を歌っている。

「ありがとね」

 ヒナミはいった。

「ううん。たぶん、ヒナミちゃんに会わなかったら、イチカはね、あの道を通らなかったと思うんだ。イチカは、なにもしてないよ」

 そんなことはない。今回、一番の活躍は間違いなくイチカちゃんだ。

 そのとき、やや強い風がヒナミの髪を揺らし、イチカちゃんの帽子をさらった。

「あっ」

 帽子は、ふわりと宙を滑空してから、海面に降り立ち、波紋を作る。

「拾えそうにないね」

 イチカちゃんは残念そうにいった。

「あの帽子ね、パパとママに誕生日にもらったものなんだ。赤いリボンはね、イチカが迷子になったとき、見つけてもらえるようにって」

 イチカちゃんはヘアゴムの飾りをなでる。

「まっ、仕方ないね」

 イチカちゃんは、ヘアゴムで髪をくくった。その姿は、夕日に照らされていた。


 家に帰って、夕食を食べて、また出発する。

 海辺の道を道なりに進む。日は暮れていて、遠くに、フェリーの灯りが見える。

「ねえ、ねえ、ヒナミちゃん」

 横を歩くのは、イチカちゃんだ。

「なあに?」

 ヒナミは歩きながら答える。

「ヒナミちゃん、泳げる?」

「うん。泳げる」

 ヒナミは走ることはできない。でも、泳ぐことはできる。腕が動くから。体育の時間に記録をはかったときはクラスで三番目だった。なかなかの記録だ。

「今度、教えてほしいな。私は、泳げないから」

 イチカちゃんが持っている懐中電灯の光が止まった。イチカちゃんは、立ち止まっていた。

「どうしたの?」

 ヒナミも足を止める。イチカちゃんは、けわしい表情で海を見つめていた。

「ヒナミちゃん、夜の海って恐くない?」

 それは、ヒナミの感じたことがない感覚た。

「恐い?」

 イチカちゃんは、うなずく。

「うん。真っ黒で、空との境目もわかんなくて。落ちたら、二度と戻ってこられない気がする」

「帰る?」

 イチカちゃんを連れ出したのはヒナミだ。悪いことしちゃったかな。昨夜のこともあるし。

「ううん。行く」

 イチカちゃんは、頭を横に振った。ヒマワリの飾りが、揺れていた。

 緩やかな曲線を描く坂を下り、小学校の前を通り過ぎて、路地に入り、公民館の前を通り過ぎ、踏切を渡る。そこが、砂浜。

「おーい。」

 むこうで、手を振っている人が見えた。ミホだ。

「いこっか」

 ヒナミがいうと、イチカちゃんは大きくうなずく。

「来たね」

「来たよ」

 近くまでいくと、ミホとヒナミはお互いに笑いあう。

「そちらさんが?」

 ミホの視線は、チサトちゃんへむかう。

「そう、イチカちゃん」

 ヒナミはいった。

「私、郡中イチカ。四年生。よろしくね」

「うん、私は横河原ミホ。ヒナミとおんなじクラスなんだ。よろしくね」

 イチカちゃんは、ミホの横にある望遠鏡に顔をむける。大きな天体望遠鏡で、三脚に据え付けてある。

「これ、ミホちゃんの? お星さまが好きなの?」

「うん。友達にもらったんだ。星は……好きかどうかわかんないから勉強中、かな。イチカちゃん、のぞいてみ」

 ミホにうながされて、イチカちゃんは望遠鏡をのぞき込む。

「すごーい。土星の輪っかがみえる」

 はしゃぐイチカちゃん。得意げなミホ。ヒナミは空を見上げる。

 海原の上に広がる夜空に散らばる、銀色の星々。最後にゆっくりと星を見たのは、いつだっただろうか。

 そうか、思い出した。ミホと喧嘩したときだ。もう三カ月以上前なんだ。

 一瞬。夜空に銀色の線が光る。

「流れ星」

 ヒナミはつぶやくようにいった。

「え、どこどこ」

 イチカちゃんは慌てて空を見上げる。その横で、ミホも空を見上げていた。

 また、流れ星が見えた。

「見えたっ!」

 ミホが大きな声をあげた。

 一つ、二つ、三つ。流れ星が、次々とながれていく。

「ヒナミ、何かお願い事したら?」

 ミホがいった。

「やめとく。三回もいえそうにないし」

 そもそも、願い事が思いつかない。

「はやく、パパとママが帰ってきますように」

 そんな声が聞こえた。イチカちゃんだった。胸の前で手を組んで、祈っていた。

「イチカって、なんでこの街に来たの?」

 ミホは尋ねた。

「パパもママも今、遠くにいっているの。それでね、親戚の人のところで暮らすことになったの。でも、私はみんなから嫌われてるから、引き受けてくれないの」

 嫌われてるから。その一言には、イチカちゃんのあきらめが感じられた。

「なんで、嫌われてるの?」

 思わず、ヒナミは尋ねた。

 イチカちゃんは砂の上に座り、夜空を見上げる。

「パパには、許嫁がいたの」

「許嫁って?」

 ミホは、ヒナミを見た。

「親が決めた結婚相手」

 ヒナミがこたえると、イチカちゃんはうなずく。

「でもね、パパは許嫁さんとは別の人を好きになったんだって」

 ミホの言葉にイチカちゃんはうなずく。

「パパとママが結婚しようとしたときね、パパのパパ。私のおじいちゃんが大反対したんだ。よくわかんないけど、そのとき、おじいちゃんはなにかの商売をしていて、そのためにパパは許嫁さんと結婚しないといけなかったんだって」

 波の音が、聞こえる。二度、三度。

「でも、パパはママと無理やり結婚したんだって。どうしても、その許嫁さんを好きになれなくて、別の人を好きになって、駆け落ちしたっていってた。それでね、おじいちゃんの商売は上手くいかなくなって、パパも、ママも、私もみんなから嫌われているの」

 それから、イチカちゃんは大きく息を吸った。

「『生まれるはずじゃなかった子』みんな私のことをそう呼ぶ」

「そんなの酷いよ。イチカちゃん関係ないじゃない」

 ミホは叫んだ。ヒナミも、大きくうなずく。

「パパとママが帰ってきたら、元のお家に帰って、前と同じ生活ができる。それまでのことだから……」

 イチカちゃんは、声を小さくして「それにね」と続けた。

「ヒナミちゃんや、ミホちゃんに会えたことは、素直に嬉しいな」

 そして、小さな小さな声でつぶやいた。

「ありがとう」

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