第3話 イチカの秘密

 そこは、暗かったのです。

 真っ暗で、何も見えません。

 ただひたすら、一定の周期で、体が上下に揺られているのです。そして、その度に海水が私の顔に殴りかかってくるのです。

 自分が、おかしくなってしまいそうです。

 腕が痛い。ずっと、流木に掴まっているから。もう、放しちゃおうか。ふと、そんな考えが頭をよぎります。そしたら、楽になれるのかな。

 パパに会いたい。

 ママに会いたい。

 いつまで、こうしていたらいいんだろう。どうしたら抜け出せるんだろう。

 もう、嫌だ。

 嫌だ。


 体が、左右に揺れている。

 誰かが、ヒナミの体を揺らしている。

 ゆっくり寝させてよ。

 大丈夫、学校には、間に合うようにおきるから。

 体が、左右に揺れる。

 もう、しかたないなあ。

 ヒナミは目を開けて、上半身を起こす。

 そっか。夏休みになったんだっけ。学校、お休みだ。

 部屋を見回す。ベットの横に、ウミが立っていた。セーラー服を着ている。

「もう、こんな夜中にどうしたのよ」

 ヒナミは口をとがらせるが、ウミはそんなことお構いなしにヒナミの腕を引っ張る。

「なに?」

 珍しく、ウミが慌てているように見える。

「もう、だからなに?」

 ヒナミはベットから顔をのぞかせる。

 ちょうど、月明かりが窓から差し込む。

「イチカちゃんっ!」

 ヒナミは叫びながら、ベットから転がり落ちるように降りる。

「イチカちゃん、大丈夫?」

 ヒナミはイチカちゃんの枕元に座る。

 イチカちゃんは、枕に顔をうずめて、苦しそうなうめき声をあげていた。手が、震えている。

「イチカちゃん、イチカちゃん」

 ヒナミはイチカちゃんの体を揺さぶる。

「どこ? どこなの? ママ、パパ」

 イチカちゃんは、ヒナミに抱きつく。

「うん。大丈夫。だいじょーぶ」

 ヒナミはそういいながら、イチカちゃんの頭をなでた。


 イチカちゃんは、コップに入った牛乳を見つめている。

 とりあえず、リビングへ移動した。

「ごめんね。ヒナミちゃん」

 イチカちゃんは小さな声でいった。

「牛乳、気持ちが落ち着くよ」

 ヒナミはいった。イチカちゃんとは、テーブルをはさんで正面に座っている。

「どうしたの?」

 ヒナミは、優しい口調を心掛けた。

「ごめんね。怖い夢を見ただけ。それだけ。イチカは、いつも通り元気だから」

 イチカちゃんはうつむいて「でもね」と続けます。

「ときどき、とっても寂しくなっちゃうの。でも大丈夫、大丈夫だから、心配しないで、イチカは、我慢できるから。ヒナミちゃん。じゃあ、おやすみ」

 イチカちゃんは早口でそういうと、リビングを出ていった。

 コップには、まだ牛乳が残っていた。

 イチカちゃんが出ていったのとは別の扉から、お父さんが入ってきた。

「ありがとう、ヒナミ」

 お父さんは、さっきまでイチカちゃんが座っていた席に座った。

「なあ、ヒナミ。この前、フェリーの事故があったの知ってるか?」

 ヒナミは小さくうなずいた。

「あれでしょ? 柵が折れて、一家三人が海に落ちたってやつ」

 お父さんはうなずく。

「あれの被害者、海に落ちた子供っていうのは、イチカちゃんなんだ」

 ヒナミの頭に、イチカちゃんの笑顔が浮かんだ。あのイチカちゃんが、テレビで報道されるくらいの事故に巻き込まれてたなんて。

「どうして、お父さんがイチカちゃんと一緒にいたの?」

「僕が見つけて、救助したんだ」

「だから、帰ってくるのが遅くなったんだ」

 お父さんは、うなずいた。

「なあ、ヒナミ。イチカちゃんがこの家にいる間、仲よくしてくれないか?」

 ヒナミは、テーブルを支えにして立ち上がる。

「いわれなくても、そうする。おやすみ」

 ヒナミは、リビングを出た。


 とはいったものの、事情を知ってしまうと、どう接していいのかわからない。普通に、出いいのだけれど、普通ってどんなのだったっけ。

 翌朝。

 ヒナミはママレードを塗った食パンを口に運ぶ。甘酸っぱいオレンジの味が口の中に広がる。

「イチカの顔になにかついてるかな?」

 ヒナミとテーブルをはさんで正面に座るイチカちゃんは、首をかしげる。

「ううん。なんでもないよ」

 ヒナミはそういってから、もう一口、食パンを食べる。

 イチカちゃんは、テーブルの上のママレードの瓶に手を伸ばして、一度引っ込めて、ママレードの横のブルベリージャムの瓶をつかんだ。

 うーん。ヒナミはなにをするべきなんだろう。イチカちゃんのこと、気になるしな。

 どうしようかな。


 どうすればいいのかな。

「ねえ、ヒナミ」

 どうすればいいのかな。

「ヒナミ?」

 どうすればいいんだろうな。

「もしもーし。ヒナミさーん」

 ミホの声で、我に返った。

「あ、ごめん。なんだった?」

 今、ヒナミがいるのはマンションの一室。ミホの家だ。

 若草色のカーペット、ピンク色のカーテンには熊の模様が入っている。ベットのシーツも薄いピンク色で、部屋のすみにはトカゲやらイカやらのぬいぐるみが山積みになっている。あ、ミツクリザメもいる。

「え、いや、この問題がわかんなくて」

 ミホはテーブルの上に広げたプリントの一点を指でつつく。夏休みの宿題、社会のプリントだ。


問 次の愛媛県の地名を漢字で書きなさい。

1、昔から山岳信仰の対象になっている西日本最高峰の山。


 うん。これは簡単だ。ヒナミは社会が得意だからね。

「それはね、石鎚山」

 ミホは「ありがと」といいながら解答欄に『いしずちさん』と書いた。

「石鎚山の『づ』は『つ』に点々だよ」

 ヒナミがいうと、ミホは黙って消しゴムを持ち、書いたばかりの字を消しはじめる。

「っていうか、漢字で書きなさいって書いてあるよ」

 ミホの手が止まった。

「石手川の『石』とかねへんに追いかけるで『鎚』だよ」

 石手川というのは、松山市の中心を流れる川だ。以前、ヒナミが私立の小学校に通っていた頃、わざと遠まわりして川辺を歩いて家に帰ることがあったっけ。

「ヒナミ~」

 情けない声を出しながら、すがるような目でヒナミを見るミホ。

 まったく、もう。ヒナミは自分のノートのはしっこに『石鎚山』と書いて、ミホに見せた。

「ありがと~」

 ミホは鉛筆を走らせる。

「ねえ、ヒナミ。なんか悩んでる?」

 ミホは手元のプリントを見ながらいった。さっきの情けない声とはまるで違う、真面目な声だ。

「うーん。悩みごとってほどじゃないけど、考えごと。かな」

「ほれ、いってみなさい」

 ミホは、顔を上げて、まっすぐヒナミを見つめる。

 ヒナミは息を吐いた。なんだろう。ちょっと、気持ちが軽くなった。

「実はさ、家に女の子がいるんだ。昨日から」

「ヒナミ……その子に惚れたの?」

「あほ」

 まったく。ミホはふざけているのか、バカなのか。

 ヒナミは、大まかにイチカちゃんのことをミホに話した。

「で、どう接していいかわからなくなったと」

 ミホの言葉に、ヒナミはうなずいた。

「ヒナミ、今夜、星を見に行こうよ」

 すると、おもむろにミホがいった。

「星?」

「うん。今朝の新聞に載ってた。今夜、流星群が見られるかもって。その女の子も海岸に連れておいで。三人で、女子トークしよ」

 ヒナミは小さくうなずいた。

「ところでさ、ここんとこもおせーて」

 ミホはプリントの一か所を、コツコツと指でつついた。


 日の出の頃、貨物船に助けてもらいました。

 甲板に引き上げられると、男の人は英語で話しかけてきました。

 確かにママは外国の人ですが、私に英語を教えてくれることはありませんでした。だから、男の人がなにをいっているのか、全くわかりませんでした。

 私は外国の船に助けてもらっただと思い、どうしようと思いました。

 私に言葉が通じていないことに気付いたのか、日本語に切り替えてこういいました。

「よく頑張ったね」

 冷静に考えてみれば、男の人の胸には『高浜』と書かれた名札がついていました。

 海で漂っていた私を見つけてくれたのも、この高浜さんだったそうです。

 医務室へ連れて行ってもらった私は、ベットに横になりました。

 高浜さんは、私に痛いところはないか、気分は悪くないか、尋ねてきました。私はのどが渇いていたので水をもらいましたが、それ以外ではなにも不調はありませんでした。

 船は、間もなく愛媛県の宇和島市の港に着きました。

 港には、救急車が待機していました。私はそれで病院へ搬送されました。

 高浜さんも、病院まで付き添ってくれることになりました。

 私は申し訳ないなと思いつつ、多少なりとも知っている人がそばにいることに安心感を覚えたのでした。


 ミホは、階段を下りるのを手伝うといってくれたけど、ヒナミは断った。一人で出来ることは、一人でやりたいから。ミホも「そっか」とだけいって、玄関で見送ってくれた。

 マンションの階段を、ゆっくりと時間をかけて降りる。外は夕日でオレンジ色になっていた。額を、汗が流れる。

 家にむかって歩きはじめる。

 コツ、コツ、コツ。

 杖が、アスファルトに当たる音がする。

 コツ、コツ、コツ。

 コツ、コツ。

 コツ。

 ヒナミが足を止めたのは、曲がり道の手前だった。ここを曲がれば、海が見えてくるってところだ。

 道の真ん中で、うずくまっている人がいる。ヒナミからは、背中しか見えないけど、あれ、うずくまってる人だよね。

 ヒナミはゆっくりと近付く。

「あの、大丈夫ですか?」

 うずくまっていた人は、女の人だった。ヒナミのお母さんと同い年くらいだ。

「足を、くじいてしまったみたいで……」

 女の人は、足首を手で押さえている。

「動けそうに、ないですか?」

 ヒナミの声に、女の人はうなずいてから、苦しそうにいう。

「とりあえず、道のはしっこに移動したいの。悪いんだけど手を貸して……」

 女の人は顔を上げてヒナミを見た。そして、気付いたようだ。ヒナミの手に握られている杖に。

「……ごめんなさい」

 ヒナミは小さな声でそういった。

 どうしたら、いいんだろう。ヒナミにはわからなかった。

「誰か、呼んできてくれないかな?」

 女の人の声が、耳に飛び込んできた。

「おねがい、していい?」

「……はい。すぐに誰か呼んできます」

 ヒナミは振り返ると、今、歩いて来た道を歩きはじめる。

 それしかできなかった。

 ちょっぴりくやしかった。ちょっぴりじゃなく、くやしかった。

 自動車にひかれませんように。そう祈るしかない。

 大きな、無力感。

 いつの間にか、うつむいて歩いていた。

 駄目駄目。うつむいていたら、助けてくれそうな人を見つけられないじゃないか。

 ヒナミは、顔を上げた。

 そこには、ウミが立っていた。Tシャツに、長ズボンという格好だ。

 ウミは、自分の胸を叩いた。まかせて、とでもいわんばかりに。

「ウミ……」

 そして、大きく息を吸い込む。

 吸って、吸って、吸って。

 ウミは頬をふくらませて、息を止めた、のも一瞬のこと。


「ギュルルルオー」


 次の瞬間、とてつもない大音量が響いた。

 ウミが、吠えていた。大きく口を開けて。

 風が吹く。ウミから、ヒナミへ。

 やがて、ウミは吸い込んだ空気を吐ききり、音は消えた。

 耳が、キーンってなる。

 ウミは、ニコリと微笑みを投げかける。

 草の生い茂っている脇道。そこがゴソゴソと音をたてる。

 ゴソゴソ。

 ゴソゴソ。

 ゴソ。

 出てきたのは、イチカちゃんだった。昨日と同く、リボンが巻かれた登山帽をかぶっている。

「やっと、出られたー。って、え、あ、ヒナミちゃん!?」

「イチカちゃん、助けて!」

 思わずヒナミは叫んだ。

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