第2話 赤毛の
緩いカーブを描く県道は、緩やかな下り坂になっている。坂を下りきったところが、ヒナミが通う小学校だ。
ヒナミがいるのが、県道のこっち側。そんでもって、学校はあっち側。道路をまたぐ歩道橋はある。でもヒナミはその前を通り過ぎて、一番近くの横断歩道へむかった。
校舎に入ると、まっすぐに職員室へむかう。
一番はじめに来た人が、教室の鍵を開けることになっている。この時間なら、ヒナミが一番はやいだろう。
職員室に入ったところ、すぐ横の壁に各教室の鍵がかかっている。でも、四年二組の鍵は無くなっていた。誰かが、ヒナミより先に来た人がいるということだ。
ヒナミは職員室を出て、廊下を進み、全速力でゆっくりと階段を登る。
なんだろう。ドキドキしている。階段を上がったからじゃなくて、なにかを楽しみにしている。ヒナミより先に来たのが、教室の鍵を開けたのが誰なのか、一刻もはやく知りたいと思っている。
教室のドアは、開けっ放しになっていた。
教室の中をのぞくと、一人だけ、女の子がいるのだ。長い髪をサイドテールにした女の子だ。
彼女は、難しそうな本を、一生懸命読んでいるのだけど、ヒナミが来ると必ず、本を閉じて、優しい笑顔をむけてくれる。
そしていうのだ。
「おはようございます、ヒナミさん。今朝もはやいですね」
自分の方が先に来ているくせに、とヒナミは笑顔を浮かべながら、教室に入る。
それから、他の誰かが登校してくるまで二人でずっとおしゃべりをする。宿題を教えてもらって、たまに教えてあげて。
そうだったら、いいのにな。
いや。ありえない空想はよくないな。ヒナミは首を左右に振った。
ヒナミは、教室に入る。
「あら、おはようございます」
教室にいたのは、女の人だった。うつむきがちなのと、前髪が長いので、顔が暗く見える。
ヒナミのクラスの担任、立花先生だ。教卓に広げた書類に目を通している。
「おはようございます」
ヒナミは自分がちょっぴり残念に思っていることに気が付いた。なにを、期待していたんだろう。
ヒナミは自分の席についた。一番前の席だ。席替えしてもここだ。ここじゃないと黒板が見えない。
「今日で、終業式ですね。一学期は、いかがでしたか?」
先生は顔を上げて、ヒナミを見た。
「たのし……かっただけじゃなかったです。色々ありすぎて……なんていうか」
ヒナミは、椅子に座ったまま振り返る。ヒナミの斜め後ろの席。空席だ。
「そうですか」
立花先生の声が聞こえた。いつもより、静かな。
「ところでヒナミさん。こんなの、いかがですか?」
立花先生が差し出したのは、一枚のパンフレットだった。
『学校に泊まろう』
「なんですか?」
ヒナミは首をかしげた。まあ、タイトルから大方の予想はつくけど。
「その名の通りです。夏休みの間、学校でキャンプをするんです。この学校の伝統行事です」
ヒナミは春に転校してきた。だから知らなかった。
「どうしようかな?」
ヒナミはそうつぶやきながら、パンフレットを受け取った。
あくびをしながら校長先生の話を聞く終業式と、恐怖の通知簿配りがあって、最後に夏休みの注意事項、怪我をしないようにしましょうとか、早寝早起きしましょうとか、不審者に気を付けましょうとか、そんな話を聞いて、学校はおしまい。
家に帰っても、ヒナミはソワソワと落ち着かない。
「ねーちゃん、気持ち悪い」
昼ごはんのとき、ヨウタはヒナミの顔を見ていった。ヨウタは電車で私立の小学校に通っている。こちらも、今日は終業式だけだったらしく、午前中で返って来た。
「姉にむかって気持ち悪いとは失礼な」
ヒナミはすすっていたそうめんを飲み込んでからいった。
「だってねーちゃん、にやけっぱなしだし」
ヨウタはそういうと、そうめんをつゆに漬けた。
「そんなに成績よかったの? 楽しみだわ」
お母さんはヒナミを見ながら、ニヤリと笑った。
「まあ、それもあるけどね」
確かに、今学期の成績は、ヒナミにしてはかなりいい方だった。算数以外は。でも、それだけじゃない。
カレンダーを見た。間違いない。今日だ。
ヒナミはそうめんをすすった。
ちなみに、昼食の後、お母さんに通知簿を見せたところ「悪くないんじゃない。算数以外は」とのコメントが帰って来た。
ヨウタの通知簿を見ると、ヒナミよりずっといい成績だった。算数以外もだ。同じ四年生なのに、なのに。
チキショウめ。
昼下がり、玄関のドアが開く音がした。
ヒナミは急いで、といっても動きはゆっくりだけど、とにかく気持ちだけ急いで、勉強机に掴まって立ち上がり、自室を出た。
部屋を出てすぐのところが玄関で、そこにはお父さんがいた。
「やあ、ただいま。ヒナミ」
「おかえり、お父さん」
ヒナミは大きな声でいった。自然と、笑顔になっていた。だって嬉しいもん。お父さんが帰ってくるの、三カ月ぶりだし。
「おかえり」
ヒナミの後ろから、お母さんも顔をのぞかせる。
「ただいま」
お父さんはお母さんから目をそらした。あれ、なんだか緊張しているように見える。どうしたんだろう。
「お父さん、どうしたの」
「え、いや、その」
お父さんはずっと玄関に立っていて、家に入ってこようとしない。
「どうしたの、入らないの」
お母さんも、心配そうに声をかける。
「落ち着いて聞いてほしいんだけどね」
「うん」
ヒナミとお母さんは同時にうなずく。
「ちゃんとさ、話そうと思ったんだよ」
「うん」
ヒナミとお母さんは同時にうなずく。
「ただ、いろいろと忙しかったんだ」
お父さんは、横によける。お父さんの後ろに、女の子がいた。
ヒナミより高くて、ヨウタより少しだけ低いであろう身長。小学校四年生くらいだろうか。リボンが巻かれた登山帽の下からのびる髪は、赤毛だった。
「高園イチカです」
女の子――イチカちゃんはいった。聞き取りやすい、声量のある声だった。
「今日から、お世話になります」
イチカちゃんは、深々と頭を下げた。
ヘ?
お父さんはリビングのソファーに座っている。というか、座らされている。
お父さんの前には、仁王立ちのお母さん。
「ヒナミ、ちょっと、イチカちゃんを部屋へ案内したげなさい」
お母さんはいった。笑顔が、引きつっていた。
「はーい」
ヒナミはイチカを見た。イチカちゃんも、ヒナミを見ていた。
「行こうか」
「うん」
ヒナミの声に、イチカちゃんは大きくうなずいた。
リビングから廊下に出て、玄関の方へ。壁に体重を預けながら歩く。
「大丈夫?」
イチカちゃんは心配そうにヒナミの体を支えてくれようとしてくれている。
なんだかよくわかんないけど、悪い人じゃないみたいだ。
ドアを開ける。そこはヒナミの部屋だ。
「ふう」
息を吐いて、ヒナミはベットに座った。
「荷物、その辺に置いていいよ」
ヒナミがいうと、イチカちゃんは遠慮がちに床に座る。その目線は部屋のすみへむかっている。
そこにあったのは、ヒナミの杖だった。
「私ね、あれがないと生活できないんだ。事故に遭っちゃって」
ヒナミは笑ってみせた。
「痛くないの? イチカにできることあったらいってね」
あ、イチカちゃんのこの顔。本気で心配してくれてるやつだ。うれしいな。
「大丈夫。怪我したのは、二年くらい前だから」
ヒナミは答えた。
イチカちゃんの視線はヒナミを外れ、部屋のすみに置かれた水槽で止まった。
「なに飼ってるの?」
「亀。見ていいよ」
ヒナミがいうと、イチカちゃんは水槽をのぞき込む。
「亀さん、かわいいね」
ヒナミも、水槽を見る。亀は、水槽の中の石に登って、ぼんやりとイチカちゃんを見上げていた。
「そうだ」
おもむろにイチカちゃんはそういうと、リュックサックからスケッチブックと鉛筆を取り出し、すごいはやさで手を動かしはじめた。
またたくまに、スケッチブックの上には鉛筆で描かれた亀の姿が現れた。
「すごい。イチカちゃん、絵が上手なんだ」
ヒナミは感心の声を上げた。
「うん。大好きなんだ」
イチカちゃんは笑顔でうなずいた。
「あなたね、なんの相談もなしにあの子連れて来て」
お母さんの声が聞こえた。リビングでお父さんと話しているようだ。というか、お父さんにお説教しているようだ。
イチカちゃんの表情がこわばる。お母さんの声が気になるんだ。
「いや、その、思わずかわいそうになっちゃって」
お父さんは、お母さんの勢いに押され気味だ。これはいつも通り。
「だから、相談ぐらいしてっていってるの」
お母さんは大きな声でいった。
「ヒナミちゃん。私、ここにいていいの?」
イチカちゃんはとても不安そうな顔をヒナミにむける。
「大丈夫。イチカちゃんはここにいていいよ」
ヒナミはサラリといった。だって、
「前もっていっといてくれたら、イチカちゃんの部屋だって用意しておいたし、晩ご飯だって、もっと豪華なもの、用意したのに。」
お母さんがそういうの、わかってたもん。
テーブルの上には、いつも通りの洋食。テーブルの上がいつもより狭く感じるのは、お父さんの分と、それから、イチカちゃんの分もあるから。
「――それでね、イチカの家の近くはね、富士山なの」
イチカちゃんはさっきからずっと喋ってる。でも、うるさくっていやだ、なんてことはない。むしろ楽しい気分になる。こんなににぎやかな晩ご飯、いつ以来かな。
「ねえねえ、ヒナミちゃん」
イチカちゃんはヒナミを見ていた。
「ん? なあに?」
ヒナミは笑顔で応えた。
夕食の後、お風呂に入って、それから寝る準備。
ヒナミは自分のベットで。イチカちゃんはヒナミのベットの横に布団を敷いて寝ることになった。
ブーン。扇風機が回っている。
「ねえねえ、ヒナミちゃん。聞いてくれる?」
布団とベットでは高さが違うから、イチカちゃんの顔は見えない。
「なに?」
「あのね、イチカね、今度、富士山に登るの」
そういえば、イチカちゃんはさっきも山登りの話をしていた。
「イチカちゃん、山登りが好きなの?」
「うん、大好き。イチカも、パパも、ママも。だからね、三人で登る富士山、とっても楽しみなの」
ヒナミが言い切るかどうかで、イチカちゃんは応えた。
ヒナミは富士山を見たことがない。そもそも、本州へ行ったのも、一度か二度だ。
「てっぺんまで、登れそう?」
ヒナミは尋ねた。きっと、ヒナミは一生、富士山の頂上に行くことはないのだろう。
「うん。イチカだもん」
イチカちゃんの自信にあふれた声。ああ、きっと、イチカちゃんは本当に行けてしまうんだろうな。
「パパとママはイチカをいっぱいお出かけに連れていってくれた。でもね、必ず、家に帰ると、帰る場所があるのが一番だっていうの」
イチカちゃんが小さく息を吸った音が聞こえた。それから、歌を口ずさむ。
兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢はいまもめぐりて
忘れがたき故郷
一音一音、丁寧に、繊細な模様の布を編み上げるようなイチカちゃんの歌は、とても優しい。
「眠れない夜、ママがよく歌ってくれた。あんまり上手じゃなかったし、ママは二番の歌詞を知らなかったから、何回も何回も同じ歌詞を繰り返すの」
なんだろう。眠くなってきた。ヒナミはまぶたを閉じた。
「でもね、ママの歌も大好きだった」
イチカちゃんの声を聞きながら、ヒナミは眠りに落ちていくのを感じた。
「ヒナミちゃん、寝ちゃった? そっか。おやすみなさい」
うん、おやすみ。
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