青い瞳のウミ2 ~しおかぜにゆれる花~

千曲 春生

第1話 海難事故と日常

 私がパパやママについて語るとき、一番はじめに思うのは、二人とも登山が好きだったということでした。

 小学校に上る前から、全国、色々な山に連れて行ってもらい、疲れにくい歩き方や、怪我をしたときの応急処置、道に迷ったときの対応などを教わりました。

 私自身も、山に登ることは楽しんでいました。山頂から見えた景色をスケッチブックに描くのが楽しみでした。両親も、私にスケッチブックや画材を買い与えてくれました。

 小学四年生になったある日、泊りがけで山へ出かけることになりました。それ自体は珍しいことではなかったのですが、一つ普段と異なることがありました。

 私の住んでいた町からは遠く離れた山であり、そこに行くためにフェリーで一泊することになりました。

 船で夜を明かしたことのない私にとっては、登山そのものもさることながら、そこへむかう道中も楽しみとなったのでした。


 夜の海。

 それは、思っていたより暗いものでした。

 ディーゼルエンジンの音と、潮の匂いがする風が、フェリーが進んでいるよ、と教えてくれています。

 海との境目がわからない空を見上げました。金銀赤青黄。見たことのないくらい、たくさんの星が輝いています。黒い画用紙に、絵の具を吹き付けたようです。

「あっ」

 思わず声が出ました。

 夜空の暗闇の中に、銀色の線が走ったのです。そう、流れ星です。

 甲板を走って行きます。ドンドンドンと、足音が響いていました。

 パパとママは、船の一番後ろにいました。

「パパ、ママ」

「どうしたの? そんなに騒いで」

 ママが、私をそっと抱きしめてくれました。ちょっと気持ちが落ち着きます。

「流れ星、流れ星なんだよ」

 私は、ママの腕に抱かれながら、顔を上げました。

「お、どこだい」

 パパは柵にもたれて、空を見上げます。

「さっき、確かに見たんだよ」

 ママの腕を抜け出して、もう一度、夜空を見上げます。さっきと変わらない、綺麗な星空です。でも、そこに流れる星はありません。

「気長に待とうか」

 ママも、お父さんと同じように柵にもたれかかります。

「おいで」

 ママが手招きしました。

 パパとママの間にすき間があったので、私はそこに入って柵にもたれました。

 その途端、フワリとした浮遊感。なにがどうなったのかわかりませんが、落ちているということだけは間違いありませんでした。

 直後に全身に強い衝撃を感じました。

 そして、わかったのです。私は、海に落ちました。

 なんとかしようともがきますが、どんどん体が沈んでいきます。

 海底から、なにかに引っ張られているんじゃないか。そう思ってしまうような感覚でした。

 息ができない。苦しい。

 食べられる。飲み込まれる。

 恐い。

 助けて。

 死にたくない。

 伸ばした手を、誰かがつかみました。その手が、マメだらけの手だったことは、はっきりと覚えています。


 重い。

 体が重い。

 いや、体自体が重いんじゃないな。体の上に何かが乗っているんだ。

 ヒナミは目を開けて、頭を動かし、自分の体を見た。

 ベットの上で仰向けに横たわるヒナミの体。その上に、銀色のモジャモジャが乗っていた。

 なにこれ。

 ヒナミはまばたきをした。

 銀色のもじゃもじゃは女の子の髪の毛だった。銀色の髪をおかっぱにした、五、六歳くらいの女の子が、ヒナミの上で寝ていた。なんともまあ、気持ちよさそうな寝顔だ。

 ヒナミの上はそんなに寝心地がいいんだろうか。

「重いんだけど」

 ヒナミがいうと、女の子は目を覚まし、ゆっくりと体を起こすと、ヒナミの体に馬乗りになって座る。

「重いんだけど」

 ヒナミがいうと、女の子はその青い瞳で、抗議するような視線をむけてくる。

「重いんだけど」

 ヒナミがいうと、女の子は観念したように、ゆっくりとヒナミから降りる。未練がましい、ゆっくりとした動きだ。

 この女の子の名前はウミ。瞳が海のように青いから、ウミ。ヒナミが名付けた。

 適当だって声が聞こえてきそう。でも、ウミが気に入ってるみたいだからいいの。

 ウミはときどき、ヒナミの前に現れ、不思議な力で助けてくれる。動物としゃべれるようにしてくれたり、悩みごとを解決する方法をさり気なく教えてくれたり。

 竜宮城の出身らしいけど、ヒナミも詳しいことは知らない。まあ、悪い子ではないからそれでいいかなって、思ってる。

 ウミがよけてくれて、やっと動けるようになった。

 ベットに腰掛け、昨日の夜から枕元に用意しておいた服に着替える。朝から慌てたくないから。

 お気に入りの青いワンピースだ。それから、白いタイツを、タイツを……あ、しまった。用意するのを忘れてた。

 しかたない。タンスから出すか。ちょっと面倒だけど。

 ヒナミがベットから降りようとすると、目の前に白い物が現れた。ウミが、タイツをヒナミに差し出していた。頬をふくらませて、ふてくされた顔で。

「ありがと」

 ヒナミは笑顔でタイツを受け取った。ウミは一瞬、とても嬉しそうな顔をして、すぐにまた不機嫌そうな顔に戻した。わざとやってるんだ。その顔。

 ヒナミの足にはまっすぐ、大きな傷跡が残っている。右足と左足、合わせて三本だ。

 ヒナミはタイツをはいた。

 それから、お守りの勾玉を首から下げる。赤い勾玉だ。


『航行中のフェリーの柵が折れ、乗客が海に転落した事故をうけて、安全管理に問題があったなどとして……』


 自宅のダイニング。ヒナミは椅子に座って大きくのびをした。テレビのニュースは、ここ数日同じ話題ばかりだ。平和なのか平和じゃないのかよくわからない。

「ふあ~」

 自然と、あくびが出てくる。

「寝不足?」

 お母さんはそう尋ねながら、朝食のサラダをテーブルの上に置く。おいしそうなのはいつものこと。

「うん、変な夢見ちゃって」

 ヒナミは自分のコップに牛乳を注ぐ。

「どんなの?」

 お母さんが尋ねる。ヒナミは牛乳を一口、飲んだ。

「高いところから落ちる夢。久しぶりに、ちょっと怖かった」

 あのストンとくる感覚はどうも苦手だ。

「高いところから落ちる夢を見ると、背が伸びるらしいよ」

 ヒナミの横に座っているのは、弟のヨウタだ。

「えっ、ホント?」

 ヒナミが思わず大きな声で尋ねると、ヨウタはヒナミを見ないでうなずいた。

 ヒナミは誕生日が来てなくて十一歳。ヨウタは誕生日が来て十歳。背が高いのは、ヨウタの方だ。ちなみにヨウタは年相応の身の丈で、ずば抜けて高いわけではない。

 ヒナミはコップをつかみ、一気に牛乳を飲み干した。

 視界のすみに入ったのは、壁にかけたカレンダー。今日の日付に丸がしてある。

 本当は、もっとはやいはずだったのに、急用ができたとかで二週間も遅れて今日になった。


 ヒナミは玄関に座って、靴を履く。マジックテープのスニーカーだ。紐靴はほどけたとき面倒くさい。ちょうちょう結びができないわけじゃないからね。念のため。

 壁に付いている手すりを持って立ち上がる。

 こけないように気を付けながら、左右に一本ずつ杖を持つ。バンドが付いていて、腕のところに固定できるようになっている杖だ。

「いってきまーす」

 大きな声でそういうと、片方の杖に体重を預けて、もう片方の杖からは手を放す。バンドで腕に固定されているから、手を放したところで杖は床に落ちるわけではない。

 空いた手で、ドアノブを握りながら、ドアにもたれかかるように体重をかける。

 ドアが開き、ヒナミは表に出た。


 海辺の道を、ゆっくりと歩く。その一歩ごとに、長い髪が揺れる。空気の匂いも、気温も、すっかり夏のものだ。腕と杖のバンドの間に汗がたまって気持ち悪い。あせもになっちゃいそうだ。

 マンションの横を通り、電車の線路を越える橋を渡る。

 そのとき、後ろから近づく足音に気が付いた。

 ヒナミは、はしっこによって、ふり返る。

 女の子が、走ってくる。短髪で、大柄で、ジャージを着ている。

「おはよっ、ヒナミ」

 女の子はヒナミの横で足を止め、呼吸を整える。

 横河原ミホ。ヒナミのクラスメイトで、友達。ケンカしたこともあったけど、友達。ヒナミはそう思っている。

「うん。おはよ」

 ヒナミは、短くこたえた。

「ヒナミ、はやいね」

 ヒナミはうなずく。いつもこの時間に登校している。一学期からずっと。

「うん。いつも通りにね。ミホはトレーニング?」

「うん。いつも通りね」

 二両編成の電車が、カタコトと通過してゆく。

「お茶、飲む?」

 ヒナミは肩から斜めに下げた水筒を見せる。最近、お母さんが買ってくれたおっきいやつだ。ちょっと重い。

「飲む」

 ミホは手を伸ばしてヒナミの水筒を手に取ると、フタを外す。フタは、そのままコップとしても使えるようになっているから、そこにお茶を注ぎ、一気に飲み干した。

「ありがと」

 ミホは、水筒を元に戻すと「じゃあね」といって、走って行った。

「がーんばれっ」

 見る見るはなれてゆくミホの背中に、ヒナミはつぶやいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る