第18話 執拗

 side-楓


 その日の勤務は夕方の18時からだった。従業員用ロッカーで制服に着替えていた楓は、深い溜息をついていた。

 一点を見つめたまま、一つ一つシャツのボタンを止めていくその動作は、進まない気持ちの表れから、明らかに時間を要している。

 深い溜息の理由とは、葵の具合が悪くなった事や、葵が楓を避けている事とは別のものからだった。

 毎週水曜日の夜19時に来店する、ある常連客の事で近頃の楓は頭を悩ませていた。

( やっぱり今日もまた来るのかな… )

 重たい気持ちを抱えたまま、浮かない表情の楓はロッカーを後にした。

 *

 平日ともあり、ディナーの時間帯はホテルの宿泊客で埋め尽くされていた。店内にあるテーブル席は空きが一つも無かった。

 出張のために宿泊しているスーツ姿の男性や、旅行に訪れている老夫婦、中には小さな子どもを連れた家族の姿も見られる。

 楓はキッチンから慣れた足取りで、テーブルの合間を縫うように、窓際にある一番端の席に料理を運んで行った。

「 今日の君はいつもに増して綺麗だね。今夜こそ俺に付き合ってもらいたいな 」

 楓の姿を見るなり、テーブル席に座った男が呟いた。

「 …申し訳ありません 」

 楓は淡々とした表情でそれに答える。

「 つれないなぁ…いつになったら、うんって言ってくれるの? 」

 テーブルに料理を配膳しながら、何とかやり過ごそうとしたのも束の間、男は差し出した楓の手を握り、話し続けた。

「 俺は君が頷いてくれるまで諦めないよ。絶対に自分の物にしてみせるから 」

 耳に1つだけ光るピアスがギラギラと、男の野心を物語っているようだった。

 30代前半に見える北野と名乗るその男は、2ヶ月程前からの常連客だった。その容姿と若さからは想像も出来ないが、大手ゼネコン企業の代表取締役だと店長から聞かされていた。

 清潔感に溢れるブランド物のスーツを身に纏い、背は高く、端正な顔立ちをしている。

 北野は初来店以降、楓にアプローチし続け、決まって水曜日の夜19時に訪れるようになっていた。

「 勤務中です、離して下さい 」

 怪訝そうな顔をする楓を見た北野は、クスッと余裕の笑みを浮かべた。

「 勤務中じゃなければいいの? 」

 楓は掴まれた手を力強く振り払った。

「 そんな事、言ってません 」

「 …怒った顔も可愛いね。やっぱり君の色々な表情をもっと見てみたいよ 」

 楓にとっては、何故こんなにも自分に拘るのか、北野の気持ちが理解出来なかった。彼程の容姿や社会的地位があれば、そういった関係に不自由するとは思えなかったからだ。

「 何もすぐ取って食おうってんじゃないよ。これでも慎重派だからさ、俺。一緒にお酒を飲みに行くぐらい、いいだろ?素敵な店にエスコートするよ 」

 何時になく真剣な眼差しの北野を、楓は沈黙したまま見つめ返す。店内にいる他の客の目を一切気にする事もなく、北野は楓を誘い続ける姿勢を崩さなかった。

「 終わるの、待ってるから 」

 北野は微笑み、目の前のフォークを手に取って食事を始めた。

「 …失礼します 」

 楓は会釈をした後、その場からキッチンへと立ち去った。

 *

 仕事終わりの楓は酷く疲れていた。たった3時間だけの勤務も、今日はやけに長く感じられた。

 ロッカーを出た楓は、従業員出入口には向かわず、バックヤードから表に出た後、ホテルの正面玄関へと歩いた。

「 終わるの、待ってるから 」

 北野の言葉がどこまで本気なのか、楓には分からなかったが、待ち伏せするとなれば従業員出入口付近だろうと予想できた。

 ホテルから一刻も早く出たいという焦る気持ちばかりが先走り、マスクを付け忘れている事に楓は気付いていなかった。

 飛び出すように正面玄関から外へ出た瞬間、ハザードランプを点滅させたまま停車した黒い高級車が目に入った。その横に北野は立っていた。

( しまった…裏を読まれた )

 時すでに遅し-楓を見付けた北野は微笑み、小さく手を振っている。観念した楓は溜息を一つつき、ゆっくり近付いて行った。

「 ずっと待ってらしたんですか?何時に終わるかも分からないのに? 」

「 待ってるって言ったじゃん。それにこんなチャンス、逃すわけないでしょ 」

 呆れ顔をした楓の問いかけに、北野は当然のように答えた。

「 なんで俺なんですか?貴方くらいの方なら相手をしてくれる人なんて、他にたくさんいるでしょう? 」

 すると、北野は腕を組み、しばらく考え込むような仕草を見せた後、楓の目を真っ直ぐ見つめ直した。

「 好きだから 」

「 …え? 」

「 好きだからだよ。それ以外に理由なんてある? 」

 思わぬ返しに楓は呆気にとられている。その様子を見た北野は傍へと近付き、楓のシャツの襟を強引に引っ張って、首元を露わにした。

「 やっぱりね 」

 楓の首元には葵の跡がくっきりと残っていた。

「 妬けちゃうなぁ…どうりで近頃の君の色気が更に増したわけだ 」

「 …離して下さい 」

 北野はその跡をゆっくりと指先でなぞり、挑発的な目で楓を見ている。

「 女?…男? 」

 カッとなり、楓は北野の手を振り払った。彼の目には、何もかもを見透かす力があるように感じられた。

 逆らえなくさせる北野の目力に、彼の顔をまともに見る事ができず、身体が硬直しそうだった。返す言葉が見付からない。

 道行く人々が、通り過ぎる度に2人をジロジロと見ている。北野はそんな大衆を気にする素振りを全く見せなかった。

 やはり近付くべきではなかったと後悔し始めていた時、突然後ろから押されるような衝撃が腕に走った。固まっていた楓の身体は前へと仰け反っていた。

「 お待たせっ 」

 そこには由梨の姿があった。彼女は楓の腕に抱きついていた。

「 ごめん、待った? 」

 何かを合図するかのように、由梨は楓に向かってウインクをする。突然の状況に訳が分からず、由梨を見る楓の顔は驚きを隠せずにいた。

 重なり合わないそれぞれの思惑が交差する3人の間に、異様とも言える空気が漂った。知らない者同士の自己紹介を始める雰囲気には程遠かった。

 重たい沈黙を破り、北野の胸ポケットから着信音が鳴り響く。スマホを取り出し、着信元を確認した北野は小さく呟いた。

「 …残念。戻らなきゃ 」

 挑発的な表情を変えない北野は楓へ視線を戻し、続けた。

「 また水曜日に。次は絶対、付き合ってもらうから 」

 北野はさっそうと車に乗り込み、振り返る事なく2人の前から去って行った。

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