#3

 カオスフィールドの内部は、『カオス』という侵襲性の物質で満たされている。カオスは人格と虚構に対して侵襲し、その内部構造を汚染。汚染された人格と虚構は、新たなカオスを放出し、カオスフィールドをさらに拡大させる。

 特に問題となるのは、人格が汚染されるケースだ。仮想世界上の人格が汚染された場合、現実世界の脳が破壊されてしまう。そうなってしまうと、もう救うことはできない。


 ***


 アメツチに続き、白い家を覆う光のベールの内側へと足を踏み入れる。コンプフィールドの光のベールはカオスを防ぐ一方、人や物に対しては透過性がある。

「ココ、現在のレシオは?」

「1:1.68だよ。一週間くらいそこで寝泊まりしても問題ないくらい余裕だね」

「それは遠慮するよ。出来れば日帰りでお願いしたいな」


 放置すると際限なく拡大していくカオスフィールド。コンプフィールドはそれが拡大しようとする力自体を止めるわけじゃない。だから、車のタイヤのように、内部で圧力が少しずつ高まっていく。それを数値化したのが『レシオ』だ。

 通常時を1として、内部でどれだけの圧力が蓄積されているかを右辺で表している。例えば、レシオ1:2であれば、通常時の二倍、内部で圧力が高まっていることになる。

 コンプフィールドには使用者の練度によって耐えられる圧力の限界(クリップ)があり、一般的な使用者であればレシオ1:5程度で圧力限界クリップが来る。

 つまり、1:10まで耐えられるココのコンプフィールドは本人の言う通りかなり強力だ。

 圧力限界クリップが来ると、コンプフィールドが崩壊し、カオスフィールドは蓄積していた圧力の分、爆発的に拡大する。そのため、調律師は常にレシオを気にしながらも、出来るだけ早く調律を済ませる必要がある。


 周囲に警戒しつつ、白い家のポーチへ続く階段を上る。あえてそう創ったんだろうけど、建物は海からの風で大分風化が進んでいるようだった。

 こういう風に風化や汚れを加えることで、あえて現実味を持たせるのが、虚構創りにおける最近の流行りだ。

 見ると、外壁の塗装は所々剥げ落ちていて、階段の手すりに至っては半ば腐りかけていた。玄関ドアの前には、年季の入った白いロッキングチェアが置いてあり、その上には色あせたクッションが重ねられている。

 こうして見ると、本当に現実と区別がつかない。リアルな虚構にいると、時々自分が現実と仮想どちらの世界にいるのかわからなくなる事がある。

「よく出来た虚構だ……」

 僕が玄関の前に立つと、アメツチがロッキングチェアを指でつついて揺らした。

「こんな物まであえてボロく作る意味あんのか?」

「アメツチ、必要以外あまり触らない方がいい。どこにカオスが蓄積されているかわからないからね」

「へーい」

 気の抜けた返事をするアメツチへ僕は苦笑を向けた。


 カオスフィールド内では常に神経を尖らせておかないといけない。特に、物に触れる事は極力避けるのがベターだ。

 カオスは基本的にカオスフィールド内の大気中に均一に存在しているけど、しばしばそこに存在する物や人格に大量に蓄積されていることもある。

 カオスが蓄積された物に触れれば、たちまちその侵襲を受けてしまう。

 シールドも、その許容範囲を超える濃度のカオスに対しては効果が無い。


「アメツチ、『ノイズゲート』を」

「了解、ご主人様」

 淡々と返し、アメツチが玄関のドアに手をかざす。


 こと建造物が汚染されている場合、その出入り口をむやみに開けるのはタブーとされる。内部でカオスの濃度が高まっている事が多いからだ。

 カオスは、濃度が高い所から低い所へと流れる性質がある。それを知らずに開けてしまい、汚染が一気に外部へと拡がってしまったという話はざらだ。

 今回はココの強力なコンプフィールドがあるから、あの光のベールを超えてカオスが流出する事はまず無いだろうけど、慎重にやるに越したことはない。


「エフェクト使用許可申請。目録番号EFT012――」

〝――申請が受理されました。『エフェクト』使用を許可します〟

「――ノイズゲート!」

 アメツチが声を上げると、彼女の手のひらを中心にシールドの時より一回り大きい光の円が出現し、玄関のドアへと前進。そこに人が屈んで入れる位の大きさの穴を開けた。


 『ノイズゲート』は人格と物体のみを通すフィルターのようなエフェクトだ。コンプフィールドの光のベールと同じ原理だけど、こちらは虚構に存在する物に対して物理的な穴を強制的に開ける事ができる。

 ドアに開いた穴から僕達は中に入る事が出来るけど、内部に存在するカオスはフィルターによって遮られ、外に出ることができない。


「……よし、入ろう」

「慎重だよな、ご主人様は」

「怖がっているだけだよ。アメツチは怖くないのかい?」

「あんたがあたしにそう望むなら、あたしは怖がるぜ。あたしが怖がってないってのは、あんたがあたしにそれを望んでないって事だ」

 アメツチが両手を広げて見せる。

 僕はどういう表情をすればいいかわからなかったので、とりあえず唇を引き結んでみた。


 タルパは本当に不思議だ。自我も感情も持つらしいけど、実際の所、それを確かめる術は無い。

 でももしそれが本当だとしたら、僕達人間と同じように自我や感情を持つ彼女達は、もはや生命体と呼んでも過言では無いだろう。

 彼女は僕の想像によって生み出された人格だ。自我と感情が本当にあるのなら、想像が生命を生み出したということになる。

 信じられないような話だけど、人の脳と同じ有機的アルゴリズムで構築されたこの世界でなら、不可能とは言い切れない。


 僕達人間はいつも、非現実的な願望を求めながらも、虚構をより現実らしく創造しようとする。

 実際には起こりえない出来事を、より本物らしく創ろうとするんだ。非現実が現実的であればあるほど、その体験の重みが増すからだろう。

 タルパ作りについても同じだ。

 人は皆、理想のパートナーを思い描き、それをタルパとして顕現させる。欲望の具現化と言ってもいい。

 でも、彼女は違う。

 彼女はあくまで非現実であろうとする。

 自分がかくあるのは、僕の脳がそれを望んだからだと。

 彼女は、自分が自我と感情を持つ生命体であるという事を、否定しようとしているのだろうか……?

 だとすればまるで、彼女の存在それ自体が、この世界のあらゆるミームに対する反証のようだ。

 でもよく考えると、そのあり方すらも、僕の深層意識の表れなのかもしれない。

 

 アメツチは本当に不思議だ。


 ノイズゲートをくぐり、建物の中へ侵入する。

 玄関を入ってすぐ、湿った空気が首にじわりと纏わりつくのを感じた。

 不穏な雰囲気に思わず唾を飲み込む。

 短い廊下があり、その先は十二畳程のリビングルームになっているようだ。どの窓もカーテンは閉め切られていて、外からの陽光がその隙間から薄闇の中に零れている。

 そのわずかな光を頼りに、周囲を見回す。

 何かがおかしい……。

 不意に頭上から不気味な気配を感じ、僕は視線を上げた。

 壁や天井が灰色のつたのような物でびっしりと覆われている。いや、つたというよりは毛細血管だ。無数に枝分かれしたそれらが、一定のリズムで波打つように脈動している。

 あまりにも不気味で、異様な光景だった。まるで、建物が生きているような感じだ。

「やはり……『歪み』か」


 カオスフィールドには、こういった光景が付き物だ。虚構を侵食するこれらの異形は、実に様々な様相を呈する。

 今回は毛細血管だけど、大量の眼球や内臓だったりすることもある。それらは『歪み』と呼ばれ、その内部にカオスを大量に蓄積している。

 シールドがあっても、直接歪みに触れればカオスの侵襲は避けられない。


「アメツチ、一度から進もう」

「ああ、毎度の事ながらひでえ光景だな……。カオスフィールドを創ってる奴がもしいるんなら、趣味を疑うぜ」

「これを生み出してるのはこの世界そのものだよ」

「悪趣味な世界だな。花がぽんぽん咲いていくとかじゃダメなのかよ……」

「もしそうだとしたら、誰もカオスフィールドを止めなくなるだろうね」

 歪みを睨みつけるアメツチを一瞥し、僕は腕をまっすぐ前方に差し出した。

「攻器使用許可申請。目録番号ARM028――」

〝――申請が受理されました。『攻器』使用を許可します〟

「――スティンガーベル」

 声を上げると、手のひらを中心に左右へ伸びるようにして、黒く細長い棒状の物体が具現化していく。


 一方は槍のように鋭く尖っており、もう一方には六角形を長く伸ばしたような形の大きな刃が付いている。刀身にはその輪郭と同じ形状の一回り小さな空洞があり、それが先端部分を二股に分ける切れ込みと繋がっていて、まるで糸切ばさみに長い棒を取り付けたようなようなシルエットだ。

 ただし、こちらの刃は糸切ばさみと真逆で、外側を向いているけど。


 僕は空中で掴んだそれを、勢いよく床に突き立てた。

「エフェクト解放! ――『共鳴レゾナンス』!」

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