#2

 僕達ユーザーは、仮想世界についてあまりにも無知だ。

 誰も、サーバーがどこにあるかなんて知らないし、その中枢を企業が担っているのか、それとも国家なのか、あるいは国際的な組織なのか、それについてすら、誰も明確な答えを持ち合わせてはいない。

 でもその無知こそが、この世界の安全性を担保しているという説もある。要するに、正体がわからないから誰も攻撃のしようがないという事だ。


 ***


 エハウィから受け取った鍵でアトリエにある目的地可変型のドアを開けると、その先には誰かが創った虚構が広がっていた。

 足元は緑の芝生、頭上はアトリエと同じ青い空。足を踏み出した瞬間、暖かな陽射しと潮の香りに包まれた。束の間、解放的な雰囲気に浸る。仕事の前はどうしても気分が憂鬱になりがちだ。

 芝生は視界の前方で途切れ、その遥か先には、水平線が緩やかな曲線を描いていた。どうやら僕達は今、海を臨む切り立った崖の上に居るようだ。

 僕の好きなタイプの景色。シンプルで、無駄がない。僕はいつも余計な部分まで作り込み過ぎてしまう。

 前方を見ると、その崖の一部が水平線に向かい船首のように突き出していて、そこに二階建ての白い家が墓標のように物寂しげに佇んでいた。

「アレが今回のお相手ってわけだな」

 アメツチが腕組みする。彼女はさも玄人のような空気を醸し出しているが、実の所僕達はまだこの仕事を始めて間もない。

 突っ込みたくなったけど、僕の深層意識が云々という答えが返ってきそうで、やめた。

 よく見ると、その建物の周囲を覆うようにして、青みがかった光のベールが下りていた。カオスフィールドを抑え込む結界、『コンプフィールド』だ。

「無知ゆえの安全……か。知らずに近づけば命を落とす場所もあるのに……」

 説とは全く正反対の事象を目の前に、僕は傍らに立つアメツチにも聞こえないくらいの小さな声で、独り言ちた。


 カオスフィールド――仮想世界にそれが現れ始めたのは、この世界が産声を上げたのとほとんど同じタイミングだという。

 虚構が人の望んだ世界、即ち『陽』の側面を持つものであるとすれば、カオスフィールドは『陰』そのものだ。

 虚構の中で人が『絶望』に陥る時、その場所は『カオスフィールド』と化す。一説では、仮想世界の深層に存在する領域が、人の絶望を媒介として、僕達の普段目にしている表層の部分に漏出しているのではないかという見方もある。

 人に美しい部分と醜い部分があるように、この世界もまた陰と陽を内包することで全体の均衡を保とうとしているのかもしれない。いや……あるいは、深層に存在すると言われるその領域こそが、この世界の真の姿であるのかも……。

 いずれにしても、カオスフィールドと化してしまった虚構は直さなければならない。放っておけば、際限なく拡がってしまうからだ。カオスフィールドと化した虚構を、あるべき姿に戻す。その行為を僕達は『調律』と呼んでいる。

 今、目の前にあるこの白い家も、エハウィの話によればカオスフィールドと化しているという。それを調律するのが、『調律師』である僕の役目だ。


 僕達が白い家の方へ近づいていくと、建物の陰から小さな男の子が姿を現した。縦じまのオーバーオールのポケットに両手を突っ込み、頭には目深にキャップを被っている。エハウィのタルパ、『ココ』だ。

「早かったね、クモキリ。それと、変な髪形のおばさん」

「てんめっ! ぶっ殺すぞクソガキ!」

 アメツチが肩を怒らせながらココに掴み掛ろうとするのを、腕を掴んで制止する。この二人は初対面の時以来、犬猿の仲だ。


 ココはアメツチと異なり、サーバーを依代にして仮想世界に顕現する、一般的なタイプのタルパだ。でもタルパとしての完成度は、レジットであるアメツチと比べて遜色ない。エハウィの細かい作り込みと、タルパといえど一人の人間として接する彼女の人柄の賜物だろう。あまりにも現実に居る子供らしく振舞うので、本当は僕と同じように肉体を持つ人間なのではと疑ったことすらある。

 ココはそのリアルさゆえに、見た目の年齢相応に憎まれ口を叩く。いや、もしかするとその見た目を免罪符にして言いたい放題なだけかもしれない。

 いずれにしても、液体窒素並に沸点の低いアメツチとは相性が良くないんだ。


「放せご主人様ァ! あたしはこのクソガキ一発殴らねえと気が済まねえ」

「やあ、ココ。君が来るなんて珍しいね」

「まぁね。ボクが居るってことは、ボクが必要だって事さ。エハウィがそう判断したんだから、間違いないよ」

 ココが片目を瞑り、得意げな顔をして見せた。アメツチはというと、肩を震わせながらキリキリと歯噛みしている。まだ怒りが収まらない様子だ。

「アメツチ、落ち着いて。ケンカは仕事を済ませてからゆっくりやればいい」

「ケンカじゃねえ! 矯正だ! このクソガキのひん曲がった性根、あたしが叩き直してやる」

「彼はエハウィのタルパだ。人格矯正は僕達の仕事じゃない」

「ちぃ……わかったよご主人様」

 足元の芝生を蹴りながら渋々と矛を収めた彼女を連れて、建物を覆う光のベールの前に移動した。

 ごめんよアメツチ。でも大丈夫。僕もアイツはクソガキだと思ってる。


 光のベールに包まれた領域『コンプフィールド』は、建物を囲むように地面に描かれた光の円から半球状に展開されており、建物で発生したカオスフィールドの拡大を抑え込んでいる。魔法陣みたいでかっこいい。

 今回は発見が早かったから、虚構の一部分だけで抑え込むことが出来たけど、カオスフィールドは基本的に放っておけば際限なしに拡がっていく。虚構全体に汚染が拡がったり、別の虚構にまで浸食が及んでしまうこともあるんだ。


「ボクのコンプフィールドは強力だからね。『レシオ』1:10でも耐えられるよ」

 ココが自慢げに言うと、アメツチがすかさず鋭い目つきで彼を睨みつけた。咄嗟に二人の間に割って入る。

「ありがとう、ココ。後は僕達で片づけるよ。君は外で待機して、『レシオ』に異常が見られたらすぐに教えてくれ」

「へん、ボクが行けば秒で終わるのに。わざわざ仕事残してあげるなんて、エハウィはホントに世話好きだなぁ」

 ココが頭の後ろで手を組む。背後にいるアメツチはそろそろ爆発寸前だろう。再び二人が揉め出す前に、先に進んだ方が良さそうだ。

「アメツチ、『シールド』を」

「……りょ~かいっ、ご主人様」

 噛んで吐き出すように返事をすると、アメツチは僕の傍に歩み寄り、足元に向かって手をかざした。

「エフェクト使用許可申請。目録番号EFT008――」

〝――申請が受理されました。『エフェクト』使用を許可します〟

「――シールド!」

 彼女の腕に装着された腕時計型のデバイスから仮想世界のシステムアナウンスが流れ、その直後、僕達二人の足元に文様の描かれた半径五十センチ程の光の円が現れた。それから間を置かずして、二人の身体を淡い光が包み込む。


 『エフェクト』は、仮想世界で使用できる特殊能力だ。様々な効果を発揮するエフェクトが存在し、僕やエハウィはもちろん、タルパであるアメツチやココもそれを使うことが出来る。基本的には虚構の創作時に用いられるんだけど、今回のようにカオスフィールドの対処で活用されることも多いんだ。

 建物を囲んでいるココの『コンプフィールド』や、アメツチが今しがた使って見せた『シールド』もその一つだ。

 シールドは言わば防護服のようなもので、カオスフィールドの人格に対する侵襲を最小限に抑える効果がある。

 カオスフィールドは虚構に対してのみならず、そこに足を踏み入れた者にも影響を及ぼす。もしシールド無しでカオスフィールドに侵入した場合、数秒とたたない間に発狂し、現実世界の脳が深刻なダメージを受けてしまう。


「僕が先行するよ」

「おいちょっと待て。ご主人様レディーファーストって言葉知らねえのか?」

「……それは行き先が安全な時だけだよ」

「よく考えろ。あんたの脳みそにあたしは住んでんだ。あんたが死ねばあたしは死ぬ。だからリスクがある時ゃ、あたしが前だ!」

 アメツチはそのまま仏頂面でベールの向こうへと進んで行く。僕は彼女の勢いに気圧され、しばらくその場で固まってしまった。


 僕達調律師が、危険を冒してまでカオスフィールドを調律しなければならないのは、この世界に自浄作用が存在しないからだ。

 仮想世界は、虚構やそこに存在する人格に直接干渉出来ないように創られているという。世界は、虚構がたとえカオスフィールドと化していても、その存在を許容する。自動的に調律されたり、消去されたりすることは無い。

 この世界を創造する時に、それを運用する者が恣意的にそこに居る人や物を取捨選択できないようにしたのかもしれない。

 だから危険を冒してでも、人の手によって直す必要があるんだ。

 ただ、一つだけ不可解な点がある。

 もし、この世界が人格や虚構に直接干渉しないように創られたのなら、人の絶望を媒介として漏出するカオスフィールドの存在はどう説明すればいい?

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