#1

 仮想世界――ネット上に存在するもう一つの現実を、人がそう呼び始めたのは随分遠い昔の事だと聞いた。

 その世界は原始的な機械言語であるバイナリーではなく、僕達人間の脳神経と同じ有機的アルゴリズムで構築されている。つまり仮想世界では、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、五感の全てが完全に再現されるということだ。感覚的には、現実世界に居るのと全く違いはない。痛みも、同じように感じる。

 人はまるで散歩にでも出かけるかのような感じで、暇さえあれば仮想世界へと足を運ぶ。現実とは違い、ここではそれぞれの望む世界に身を置くことが出来るからだ。

 接続は、至って簡単。ヘッドギア型のインターフェースを被ってベッドに横になるだけ。装置が起動すると、次の瞬間にはもう、仮想世界の中で佇んでいる自分に気付く。

 人々は仮想世界の中で、それぞれの願望を具現化した空間を作る。それが、『虚構』だ。

 虚構は、仮想世界上に存在する箱庭――ワンルームマンションの一室のような大きさの空間から、太陽系が丸々収まるほどの大きなものまで、様々な規模や趣の物が数え切れないほど存在している。

 心を癒す風景と神秘的な音楽の世界。胸を焦がす熱き戦いと冒険の世界。欲望の赴くままに振舞える淫靡で官能的な世界。それぞれの望むがままに。

 まさに、何でもありだ。

 一説によると、虚構の数は現実世界の地球上の人口を上回るとも言われている。でも実際の所、正確な数字は誰も知らないんだ。


 ***


 良い事は稀にしか起きないくせに、厄介な出来事は徒党を組んで向こうからやってくる。

 仕事にしても同じだ。後者のような仕事が、ここ数日立て続けに舞い込んできている。でも贅沢は言えない。そのお陰でお金を貰えるし、お金があれば虚構創りに必要なサーバーを借りることが出来るんだ。

 エハウィはいつだって唐突で、気楽だ。彼女はこっちの都合なんてお構いなし。まるで世話好きの老婆のように、次から次に厄介な仕事を、涼し気な顔して運んでくる。

 ここは仮想世界上にある僕のアトリエ――四方を無数のドアが並ぶ壁に囲まれた、ほとんど何もない部屋だ。物だけじゃなく、天井も無い。頭上には雲がまばらに浮かんだ青空が見える。

 僕は部屋の真ん中にポツンと向かい合わせで置いてある革張りの一人掛けソファの一つに座り、彼女が来るのを待っていた。やがて――

「ハァイ、クモキリ。調子はどぉ?」

 正面の壁のドアが勢いよく開き、待ち人が姿を現した。長身で褐色の肌、青い瞳。胸元の開いた赤のカシュクールワンピースには、すらりと伸びた脚を見せつけるかのように、鼠径部が見えるギリギリまでスリットが入っている。

「やあエハウィ。まずまずだよ。また仕事かい?」

 美しすぎるものは時として精神の毒になる。目を逸らしながら僕は、彼女の煽情的な肌の映像をコーヒーで胃袋に流し込んだ。

「ご名答~。今回もちょっとだけめんどくさいヤマだけど……。それにしても相変わらず何もない部屋ね」

「何もない方がかえって落ち着くんだ」

「寂しくないの?」

「寂しさは想像力を助けてくれるから」

「そう……」

 微笑みながらソファの前まで歩み寄ってくると、彼女は『鍵』を摘まんだ手を僕の目の前に伸ばし、クレーンゲームのアームのようにゆらゆらと振って見せた。僕は思わず目を閉じてしまう。せっかく目を逸らしていたのに、鍵に視線を移した瞬間、腰を曲げた彼女の胸の谷間が僕の視界を埋め尽くしたからだ。


 彼女と知り合ったのは二年前。僕が二十二歳の時だった。当時開催されていたコンテストに出品した僕の虚構に、彼女が一般審査員として訪れたのがきっかけだ。

 当時の僕は創り手としてはまだ駆け出しで、他の参加者のように世界をまるごと構築する大掛かりな虚構ではなく、小さな箱庭のようなそれを遠慮がちに出品していたんだけど、どういうわけか星の数ほどある参加作品の中から、彼女は僕の虚構に目をつけて足を運んでくれたんだ。

 実を言うと、彼女は僕の作品の初めてのお客さんだった。

 腰までまっすぐに伸びた黒髪を揺らしながら、空に浮かぶ庭園を散策する彼女が、僕にはまるでインディオの神話に登場する神の使いのように思えた。

「あなたの世界、素敵ね。決めた。わたしはこれに票を入れるわ」

 睫毛の長い瞳を細めながら、彼女は微笑んだ。

 結局、僕が獲得したのは、彼女の入れたその一票だけだった。

 もちろん、コンテストは落選。でもそれ以来、生活の不安定な僕の事を気にかけ、彼女が仕事を斡旋してくれるようになった。

「あなたは天才じゃないわ。でも、才能はある」

 それが彼女の口癖だ。ことあるごとに、まるでまじないのように僕にそれを言い聞かせて来る。多分褒め言葉だと思っているんだろう。

 ともかく、彼女は僕の創作者としてのスキルを買ってくれ、その技術が活かせる仕事をこうして今も持ってきてくれている。

 天才でもなければ凡人でもない、中途半端な僕の居場所を、彼女は僕に与えてくれたんだ。


「……じゃ、クモキリ。わたしのタルパが先に行って待ってるから。今回もよろしく頼んだわよ」

 仕事の説明を終えるや否や、彼女は片手を振りながら踵を返し、先程出てきたドアの向こうへと消えた。僕がぶつぶつと不満を並べる前に退散したんだ。

 彼女は美人だし、気前がいい。僕がこうして生活できているのもほとんど彼女のお陰だ。だけど理不尽すぎる仕事の回し方にだけは、つい眉根が寄ってしまう。

「断る選択肢はない……か」

 彼女に手渡された鍵に視線を落としながら、僕は鼻でため息を吐いた。

「アメツチ、居るかい?」

 虚空に向かって呼びかけると、目の前に光の粒が集まってきて、人の輪郭を形成し始め――それから間を置かずして、そこに気の強そうな顔の女が現れた。

 エハウィと同じ黒髪だけど、こっちは少し特徴的だ。おでこの八割が見える短い前髪、もみあげと襟足だけを長く伸ばして真っ赤に染めている。病的なほどに、白い肌。ネイティブアメリカンの血を引くエハウィとは対照的だ。毛先と同じ真紅の瞳は、ほんの少し吊り上がっていて、角度のついた短い眉毛と相まってやたら好戦的に見える。

「居るよ。居るに決まってんだろご主人様。あたしはあんたの居る所ならどこにだっているんだ。居るのわかってて聞いたんなら、それは愚問って言うんだぜ?」

 仏頂面で言い放つと、彼女は口元をへの字にしながら腕組みした。

「……そのご主人様っての、いい加減やめてくれないか?」

「けっ、またそれかよ。あたしはあんたの願望が生み出した人格だぜご主人様。この姿も話し方も、あんたに対する呼び方も、あんたが深層意識で望んでるから仕方なくやってんだ。自分が頼んでおいてそれをやめろってんなら、それは理不尽って言うんだぜ?」

「でも僕は名前で呼んで欲しいと思っている。君と主従みたいな関係で居るのは望ましくない」

 食い下がると、彼女は眉間にしわを寄せながら身を乗り出した。

「いいか? ご主人様よく見やがれ。このなまっちろい肌も、中途半端なサイズのこの胸も、訳わかんねえこの髪型も、全部あんたの願望が生み出してんだよ。だからあたしがあんたをご主人様って呼ぶのは、あたしのアイデンティティーそのものなんだ。それにとやかくいわれる筋合いはねえよ。気の強そうな女を服従させたい欲求でもあんじゃねえのか? それに気付いてねえってんなら、それは無自覚って言うんだぜ?」

 胸を張り、谷間が見えるまで開いた白いシャツの胸元を更に強調しながら、彼女がまくし立てる。


 彼女――アメツチは僕の仮想空間上でのパートナーだ。タルパと呼ばれる疑似人格で、『僕の脳が仮想世界上に作り出している僕以外の意思を持った人間』だ。つまり、僕の脳は今こうしてここに立っている自分自身と彼女、その二人分の処理を、リアルタイムで行っていることになる。

 そんな事が可能なのかと、彼女の事を知った人物からよく尋ねられる。通常、タルパは虚構と同様に専用のサーバーを依り代にして顕現させるのものだからだ。アメツチのようにサーバーを介さず、個人の脳から直接具現化する疑似人格は『レジット』と呼ばれ、かなり珍しがられる。

 また、彼女の言う通り、彼女の見た目や性格、話し方の全ては、僕の深層意識がタルパにそうあって欲しいと望んだ結果だ。僕に対する呼び方には疑問の余地が残るが、見た目がものすごく僕好みである事は否めない。無自覚であると言われれば、そうなんだろう。


「悪かったよ。じゃあ、好きに呼んでくれたらいい」

「言われなくてもそうするっての」

 半目になってこちらを睨みながら、アメツチが口を尖らせる。こうして動いたり話したりしている彼女が、僕の脳をリソースにしながらも、僕の意識とはまるで無関係にそれらを行っているというのは、なんとも不思議な感覚だ。


 タルパ――とりわけ彼女のような『レジット』を、自分の意識と無関係に動いたり話したりさせる事が出来るようになるまでには、通常、かなりの期間を要する。数年から十数年。場合によっては数十年かけてようやく完成したという人も珍しくない。だから、僕のような若者がアメツチのような『レジット』を連れているのは稀なんだ。

 でも僕は他の人がするように、瞑想や壁に語りかけるような狂気じみた行為をひたすら繰り返して彼女を創り出したわけではない。彼女は物心ついたころには既に僕の近くにいた。彼女は遠い昔から、まるで兄妹のように、僕の中で共に成長してきたんだ。

 エハウィに言わせると、それは極めて珍しいケースなんだという。


「アメツチ、わかってると思うけど、また仕事だ」

 切り出すと、彼女はがっくりとこうべを垂れた。最近仕事以外で彼女を呼び出す事があまりないので、またかと思われたんだろう。

「また『カオスフィールド』かよ……。だが後に回してもいい事無いだろうし、さっさと片付けて遊びに行こうぜ」

 ちなみに、記憶に関しては全て共有されるので、仕事の内容について話す手間が省けるのはありがたい。また、彼女の言う通り、面倒事を先延ばしにしていい結果を招いた事は経験上一度も無い。彼女の言動は、過去の経験がしっかり共有されているという証だろう。

「ああ、そのつもりだよ。エハウィのタルパが先に行って『コンプフィールド』で抑えてくれている。僕らは中に入って、いつものように調律するだけだ」

「簡単なオシゴトってわけだな。じゃあさっさと取り掛かろうぜ」

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