第8話


 時々、今日は早く帰れと命令されて、その意図を知りつつも尋ねることも出来ずに頷くしかない。命令されるその日はだいたい吸血鬼が暴れている。 街の中の噂も真実味を帯びてきて、吸血鬼の存在は疑われることもないほどには浸透してきた。


 被害も少なくない。


 怖がる声や、怒る言葉。 目の前にいるアレンさんの疑わしさは度も過ぎていて、このまま放置すれば被害は増えてしまうのかもしれないという考えが頭を過ぎる。


 二人きりで過ごす時間も慣れた。 恐怖心にも同様である。 この言葉を発するのに、何週間かかったのか。


「……なんで、吸血鬼の出る日が分かるんですか?」


 答えは返ってこない。 聞こえていないわけではなく、本を捲る音はなくなって、息遣いだけが聞こえる。


「吸血鬼に詳しい理由は、いつもお腹を空かせているのは……今、押し黙らないといけない訳は……」


 聞きたくない。 だから口は言わせないようにと、似合わないのにペラペラと動く。 絶えず言葉を吐き続けて、アレンさんが言葉を発せないように、ただ一人で話続ける。

 当然……息は切れる。


「人になりたい」


 彼はそう言ってから、本を閉じた。 紅い目が火のように揺れて僕を見る。

 泣きそうと言うには力強く、怒るとするには自信がない。


「まるで……人じゃないみたいなことを……」

「父から聞いた言い伝えがある。

『永遠を望んだ人は……永く昏き生を得て、人を想う心を失い、血を啜る鬼ヴァンパイアとなった。』

今日はもう帰った方がいい。 ……吸血鬼が出たからな」


 悪い笑みを浮かべて、見たこともない牙を剥く。 どうにも現実味が薄く、本のページをめくって目を落とす。


「……何を言うべきなのか……。 血を飲むんですか?」

「……図太いな」

「……吸血鬼だと思いながら、ずっと過ごしていましたから」


 今更といった感想だった。 違っていてほしかったけれど、それなら仕方ない。


「血は吸う。 人の敵だ」

「僕、通報した方がいいんでしょうか」

「……した方がいい。 長いこと一緒にいたのだから、何もしなければ協力者と疑われるだろう」


 アレンさんはそう言ってから、僕の本を取り上げる。


「……自分で返しますよ。 本の場所分からないでしょ」

「もう覚えた。 今日は通報してから帰ったらいい。 俺も適当に跡を残してから消える」

「通報、しませんよ」


 アレンさんは僕の身体を見据えて、無理くりに抱き寄せる。 突然の行動に目を白黒させながらも抵抗はせずになされるまま受け入れる。


「少し、痛むぞ」


 吐息が頰を撫で、ゆっくりと首筋に落ちてくる。 鋭利なものが首に刺さる感触。 痛い、それ以上に湿気た唇の感触が恥ずかしい。

 何をされているのか理解したのは……舌で出来たばかりの傷口を舐められてからだった。


 見なくても分かる、真っ赤になってしまった顔。 恥ずかしい、穴に入りたい。 恨みがましくアレンさんを睨むと辛そうな表情をしていた。


「それがあれば、襲われたと言って信じられるだろう。 怖くて黙っていたというのも言い訳になる」

「言い訳をするつもりなんて……」


 彼は目を逸らしながら本を手にとって、小さく頭を下げる。


「……助かった。 文字を教えてくれて。 一緒に過ごしてくれたことも、俺の言葉を信じてくれたことも。 ……ありがとう」

「お礼、なんて……これで終わりみたいな」


 図書館だ。 近くに人気はなくとも、騒げばバレる。 縋り付くことは出来ない。 けれど、僕を追い出すつもりの彼は大声を出すことも出来る。


 自分の身を人質にした脅しみたいな……卑怯だ。 けれどやはり、離れられない。


「なんで君は、ミアは……俺に拘る。 ただの知り合い、それも吸血鬼だ」


 アレンさんの言葉は何もおかしくない。 ただ、一緒に本を読んでいただけの中で、会話も多くなかった。 友達というほど親しくないし、その通りでしかない。 でも、否定したい。 アレンさんが僕にとってどうでもいい人だと、認めたくなかった。


「……僕は、友達が、少ないから」


 言い訳のような言葉はアレンさんに届くことはない。 離れていく背中、追いかけられるはずもなく、噛まれた首筋が酷く痛む。

 上着を首筋を隠すように着て、僕は外に出た。


 いつものようにお店によって、買い物をして家に帰る。 ……いつも通りだ、当たり前みたいに、いつもと何も変わらない。


 味も匂いも食感も、何か薄い布を噛ませたみたいに薄く感じて……首筋の痛みだけが、苦しいほどに生々しい。

 掻き毟るみたいに傷跡を触って、指についた血を見る。 紅く、アレンさんの眼を思い出し、指を舐める。


 鉄の錆びた不味い味がする。 窓際に座って、いつの間にか暗くなった空を見て、それでも明るく見える月を眺める。


 やっと、気がつく。


 僕は失恋をしたのだ。 恋を知る前に、失恋を知るなど……おかしなことだけれど、ポカリと痛みもなく空いた胸の感触がそれを物語っていた。

 いつの間にか、いつのことだか……人ですらない彼のことを好きになってしまっていた、恋をしていた。 終わってから気がつくなんて、マヌケも過ぎる。


 自嘲する気すら起きない。 首を触って想う……あのまま吸い殺してくれた方が、幾分かマシだ。

 僕は、頭がおかしい。 そう思わなくてはならないほど、彼に会いたいと思った。

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