第56話 航空幕僚長の企み
あの某国戦闘機の防空識別圏航行事件から、那覇基地内は異様な空気が漂っていた。何度も上官たちは報告会議に出席し、その度に関わったパイロット達が交代で呼び出されていた。
「例の事件の事は分かっていると思うが、絶対に口外は許されない。基地周辺を記者たちがうろついているらしい。気をつけるように!」
「はい!」
那覇基地から半日という短い時間で、多数の戦闘機がスクランブル発進したのだから、世間が騒がない筈がない。既に憶測でネットや新聞に【ロ国連邦に空自スクランブル10機!】と大きく出ている。
訓練やアラート待機の合間にパイロット達は会議室に連れ込まれ、当時の状況を何度も聞かれているようだった。その中でも、最初に出動した八神さん、松田さん、そして侵犯措置に当たった高木さんと千斗星はなかなか解放してもらえなかった。
同じ基地に所属して任務に関わったとは言え、私も千斗星もその事については互いに会話をしていない。
いや、できないのだ。
同じ自衛官でそれが夫婦だとしても、絶対に口を開いてはならない。
家族でありながら互いに機密を抱えている。
国家公務員ならば当然の事だった。
◇
「お疲れ様。先にご飯する?」
「おー、
千斗星は疲れを見せないように、家ではいたって明るく過ごしてくれた。目の下には隠し切れない影が薄っすらとあるのを、私も気づかない振りをする。
「いただきます」
でも、それは仕事だからと割り切れる。
基地から離れればただの夫婦に戻れるし、同じ食卓でご飯が食べられる。そんな当たり前な日常が、今はとても幸せだと思うことができる。
「天衣のスマホ、鳴ってるぞ」
「え?」
リビングのローテーブルに置きっぱなしにしていたスマートフォンが振動していた。バイブレーションでの通知はメールだ。
「お母さんかな。また何か送ったとか?」
「お礼しないといけないな」
スマートフォンをタップして、勝手に母からだと思い込んでいた私は、送信者の名前を見て驚いた。
「お義父さんが来てる!」
「は? お義父さん来るって言ってたか?」
「知らない! 明日休みだろうからご飯でも食べようって」
「よく俺たちが休みって知ってたな。別に良いけど、お義父さん何が好きだっけ?」
「知らないよ! 千斗星なら分かるでしょう? あ、でもお秘書さんも一緒だって」
「お秘書さん? 誰だそれ」
千斗星のポカンとした顔を見て、話が噛み合っていない事にようやく気づいた。
千斗星は私の父が来ると思っていたのだと。
「違うの、あのね! お義父さんってね、私の父じゃなくて、千斗星のお父さんだよ。お秘書さんって、佐原副官のこと」
「え……はぁぁぁ!」
私は千斗星がお腹から出す声を、この日初めて聞いた。
◇
翌日。
朝からご機嫌斜めの千斗星と、指定されたホテルに向かうためタクシーに乗った。
昨晩、千斗星の父である
(じゃあなんでその千斗星が不機嫌なのかと言うと……)
「何でオヤジとメールのやり取りしてるんだよ」
「してないよ。千斗星が無視するから私に連絡が来るんでしょ?」
「だったら大した内容じゃないし、見て完結してるんだから返事しなくてもいいだろ」
「そうはいかないよ。千斗星さ、一言でもいいから返事くらいしてあげなよ」
「気持ち悪いだろ。電話のほうがマシだ」
「じゃあ電話してあげたら?」
「……」
このやり取りを何度も繰り返している私たち。旦那様、もう少し大人になってくださいと心の中でため息をついたのは内緒だ。
「お義父さん、何か話があるのかな。わざわざ来たわけじゃないよね」
「例の件以外、考えられないだろ」
「あぁ……」
大ニュースになったスクランブル発進。横田基地を巻き込んだのだから、航空自衛隊のトップである暁さんにも報告は上がる。今回は政府も、国民や世界に向けて何かしらの見解を発表するはずだ。
タクシーから降りると、ホテルのドアマンが何もかも知っていると言わんばかりに私達をエレベーターまで案内をする。
「沖田ご夫妻ですね? お話は伺っております。ご案内しますのでどうぞ」
ドアマンから別のホテルスタッフに代わり一緒にエレベーターに乗り込んだ。胸には接客係チーフと書かれたネームタグが付いている。千斗星の顔を見ると、肩を上げて「徹底してるよな」と呆れた顔をした。暁さんの立場上、市内の何処かのレストランと言うわけには行かないのだろう。
そして指定された部屋のベルを鳴らすと、副官の佐原さんが顔を出した。
「佐原さん! お久しぶりです」
私が復帰に向けてリハビリをしていた時に、大変お世話になった方だ。
「天衣さん。相変わらずお元気そうで。ご子息もご機嫌よろしいでしょうか」
「ご子息なんて、止めてくださいよ。バカ息子と呼んでください」
「ははっ。さ、どうぞ。お待ちですよ」
千斗星は佐原さんには頭が上がらない。何だかんだ確執があったとは言え、父親を傍で支えてくれた方だ。それに妻までも世話になってしまったのだから仕方がない。
部屋はスイートルームの一室を借りており、内装はとても立派なものばかりだ。ダイニングテーブルには既にお料理が並んでいた。
「こんにちは」
「おお! 天衣ちゃん、元気そうだね」
「はい。お陰様で」
「天衣ちゃんって、馴れ馴れしいな」
ランチにしては豪華すぎるコース料理に、こんなラフな格好で良かったのかと後悔をした。
暁さんが食べながら話そうと言うので、私達はテーブルについた。
「先の件では二人ともよく頑張ったね。感謝するよ」
「いえ、私は何も」
「連日取り調べは止めて欲しいんだけど。あのやり方、何とかなりませんか。まるで犯罪者だ」
「千斗星っ」
「悪かったね。こちらとしては隊員を護りたいがゆえに、措置の方法に落ち度がなかったか確証を取らねばならんのだ。政府は政治に支障をきたしたくないと、ギリギリしている。まあ何とか収まりそうだがね」
暁さんが言うには、今回の複数の戦闘機による航行はロ国連邦とC国との共同フライト訓練だった。新型の戦闘機を売却したロ国側が、C国のパイロット技術向上の為に組まれた訓練をしていたのが理由だそうだ。
「連絡は入ってなかったよな。天衣」
千斗星が険しい表情で私に問いかけた。私はどこまで話して良いのか分からず困っていた。すると、
「私が責任者だ。話して構わない」
暁さんが助け舟を出してくれた。佐原さんも首を縦に振ったので私は口を開いた。
「私達は、何も聞かされていませんでした」
「俺たちパイロットも聞いていない」
「政府も一応、外交ルートを通じてこの件について抗議をした。結果、先方の連絡ミスで、こちらまで訓練の連絡が来ていなかったそうだ。連絡を怠った部隊の責任者は既に更迭された。よって、今回は我が空自への挑発行為では無かったとする。国家の安全も脅かされてはいない。以上だ」
「なんだって⁉︎」
あんなこと、連絡ミスで済まされることではない。そのせいで危うく仲間を失いかけたのだから。なぜもっと国は強く抗議してくれないのかと、怒りが込み上げてきた。
「松田は死にかけたんだぞ! 相手は分かっていてインターセプトして来た。俺だっていきなりドッグファイトに持ち込まれたんだ。それでもあれは、本当に訓練の一貫だったと言うのか!」
千斗星がそう言うのはもっともだと思う。しかし、暁さんは違った。
「ファイターパイロットと言う奴は、往々にしてそんな奴ばかりだよ。自分の力を試してみたい。しかも敵対している国が相手なら尚更ね」
暁さんは非常に冷めた口調でそう言った。
「舐められてるよな。日本の自衛隊はどうせ手を出せない、平和ボケ集団だって思われてるんだろ!」
「千斗星っ、落ち着いてよ」
「現場は命懸けなんだよ!」
こんなに声を荒げて、感情を剥き出しにする千斗星を私は見た事がない。ただ、おろおろと二人の顔色を交互に伺うことしかできなかった。
「分かっている!」
ドン、とテーブルに振動が走った。
暁さんが、テーブルを叩きながら荒々しく叫んからだ。
しんと静まり返った広い部屋は、大人四人が無言で向かい合うという異様な空気をかもし出した。耐え難い時間が流れる。千斗星と暁さんは睨み合ったまま微動だにせず、佐原さんは目を閉じ、私は息苦しさを感じた。
「くっ、くくくっ。はははははっ!」
沈黙を破ったのは暁さんだった。突然、大きな声で笑い始めた。千斗星はため息をついて、止めた手を再び動かし始めた。
(え? そこで食べるのる? なんなの、どういう事⁉︎ 教えて、ねえ、佐原さんっ)
私は思わず佐原さんに縋るような視線を向けた。佐原さんは眉をピクんと上げて
「単なる睨めっこです。空幕長が負けただけですから、お気にせずに」
(誰がこれを気にせずにいられますかっ!)
「はぁぁ、負けたな。ふははっ。あ、天衣ちゃん驚かせたね」
「オヤジ、その呼び方やめろよ」
「いいじゃないか。じゃあ、天衣と呼ぶか」
「おいっ!、だから名前を呼ぶな」
「ケチな男だな。天衣ちゃん、また家に遊びにおいで」
暁さんの打って変わった穏やかな笑顔に、不覚にも心臓が跳ねた。怒った顔も、笑った顔も千斗星ととても似ているから。
「ぁ……はい」
「天衣! はい、じゃないだろ。よく考えてから返事しろよ」
「え? あ、ごめんっ」
(で、なんのお話でしたっけ?)
暁さんは一頻り笑ったあと、再び表情が幕僚長のものになる。静かにテーブルに両肘を突いてこう言った。
「そこでだ。我々も合同訓練をする。しかも、実弾射撃訓練をな」
「何言ってんだオヤジ」
「フランカーだかなんだか知らんが、空自の能力はこんなもんじゃない。二度とふざけた真似ができないように捻り潰してやろう」
「オヤジ、それって」
「招待枠にロ国連邦軍を入れてやった」
「なっ!」
「羨ましいなぁ。私も若かったらなぁ」
暁さんは声を弾ませながら、そんなことを言った。
(どういう事⁉︎ そんな事、私たちに話してよかったの!)
驚く私達をよそに、暁空幕長は笑っていた。
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