第37話 家族なんだよ、オヤジ

 なぜか千斗星の声が遠くに聞こえた。何度も「天衣、天衣」と私の名前を呼んでいる。

 手を繋いで隣を歩いているのにどうしてそんなに呼ぶの?



 ◆



 母親の墓前に手を合わせ帰ろうとしたとき、天衣が突然脱力した。声を掛けても瞳はうつろで、膝から崩れ落ちた。顔色はさっきまでが嘘のように青白く変わっていた。そのとき俺はあらためて思い知る。天衣の体は健康体のそれとは違うのだという事に。

 松島で倒れて以来、天衣はまったくそれを感じさせなかった。だから俺は油断していたんだ。要撃管制官の試験を受けるのにどれほど神経を使ったことか。そして、今回の件だってストレスだったから違いない。

 俺は救急車を呼んで、その後すぐオヤジに電話をした。天衣の病気を説明する前にオヤジは「防衛医大の病院を手配する」と言った。たぶん知っていたんだろう。

 救急車が到着すると救急隊員への事情説明はオヤジがした。その間も天衣は目を瞑ったままだ。

 もう一人の隊員が血圧や脈を確認している。


(俺は......何の役にも立っていない!)


「すみません。あなたはこの方の……?」

「自分は彼女の婚約者で、暁の息子です」

「なるほど。では、お乗りください。県を越えますのでそのつもりで」

「防衛医大ですか」

「はい」


 本来、緊急搬送では近くの病院へ迅速に運ぶ事が彼らの仕事だ。しかし今回オヤジは航空幕僚長という権力を行使した。俺にはとうていできない事だった。



 ◆



 埼玉県所沢市防衛医科大学校病院



 救急搬送された天衣は、簡単な検査を受けてから病室に移された。今は点滴を受けている。

 遅れてオヤジがやって来た。天衣の状況を上司という立場で医師から聞いているようだ。俺は婚約者とは言えまだ他人だ。天衣のご両親に連絡をして、入室許可が下りるまで待合室でじっと待った。


「千斗星。天衣さんのご両親と連絡は取れたのか」

「ああ。地方だから早くても明日になると思う」

「そうか」


 父の行動は早かった。

 副官に連絡をし、受け入れ態勢を整え救急隊員に病院から連絡させた。もちろん管轄の消防署へも手続きを済ませてからだ。その間、俺は何をしていたのか。ただ震えながら天衣の手を握りしめていただけだ。護ってやるって言っておきながら、実際は何もできなかった。


「天衣さんは、しばらく入院する。詳しく検査をしなければならないそうだ」

「うん」

「お前、休暇はいつまでだ。何だったら」

「明日の夜には戻る」

「そうか……」


 俺の休暇までも延ばそうと考えていたのだろう。けど、俺はまだ素直になれずにいた。父がどれほどの力を持っているかなんて知っている。知っているから頼りたくないという気持ちが勝っていた。

 でも、俺の隣に突っ立たままの父は威厳ある空幕長ではなく、どう接していいか分からないとオロオロする哀れなおじさんだった。このままではイケないと心の中では分かっている。


(なのにっ……!)


「香川天衣様の付添いの方ですよね。どうぞお入りください」


 看護師の声にやっと我に返った。

 俺の気持ちより今は天衣の事だ。俺は看護師に頭を下げ病室に入った。天衣は目を閉じたままだけど、さっきより顔色は良くなっていた。

 少しだけほっとして、備え付けの椅子に静かに腰を下した。


「千斗星、天衣さんは大丈夫だ。私もここに足を運ぶ。できる事はなんでもしようと思う」

「俺、あんたには絶対に頼りたくないって思ってた」

「ああ……」

「ほんのさっきまでは。けど、今の俺には何もできないことが分かった。俺は空を飛ぶ事しかできないんだって思い知らされた。天衣のこと頼みます」

「千斗星っ。何もできないなんて言うんじゃない。天衣さんはおまえの存在があるだけで救われているんだ。たまたま、私の方ができる事があっただけだろ。私はもう空を飛べない。その分お前が飛んでいる。人は皆、それぞれに役割がある。その役割の違いだけなんだ!」


 父が珍しく感情的になっている。

 ずっと俺の機嫌を伺いながら進学の事、就職の事は全部お前のしたいようにすればいいと言っていた人だ。姓を変えると言った時も何にも言わなかった。ただ眉を下げ寂しそうに微笑んだだけだった。

 俺はその顔を見ると胸くそが悪くなった。そのたびに俺はどうしようもない息子なんだと、父の重荷なんだと苛立った。


 それが今、病室にも関わらず父は声を上げて俺に訴えている。


「オヤジっ。声をおさえろよ。病室だぞ」

「千斗星。い、いま何て言った」

「はぁ? だから声がデカいって」

「違う。私のことを」

「オヤジ」


 子どもの頃は父ちゃんと呼んでいた気がする。あんた以外の呼び方をしたのはいつ以来だろうか。

 父はそれが嬉しかったんだろう。突然、俺に抱きついて来やがった。


「千斗星っ、千斗星っ」

「おいっ! んだっよ」


 ここが個室で本当に良かったと思う。すやすや眠る天衣の隣でむさ苦しい抱擁をかましてるなんて恥ずかしくて死ねるだろ。

 でも、不思議と嫌ではなかった。俺と変わらない背丈で今でも現役を思わせる体躯は、父の若かった頃を思い出させた。

 自慢の父だった。

「俺の父ちゃんは航空自衛隊の戦闘機パイロットなんだぜって。俺も父ちゃんみたいなパイロットになるんだ」と豪語していた。

 父は俺の誇りだった。それは今でも変わってない。


「もう、いいだろっ。男同士で気持ち悪いって」

「ああ、すまん。天衣さんが見たら驚くな」

「お、おう」


 天衣が見ていなくて本当に良かったと思う。


(オヤジは相変わらず唐突なんだよ。母さんもそんなオヤジに振り回されてたよな)


「俺、明日基地に戻る。任務を放り出したら、天衣が怒るから」

「分かった。あとの事は私に任せなさい」

「佐原副官には頭が上がらないよな」

「あははっ、全くだ」


 父が恥ずかしそうに笑って頭を掻く姿は、母さんに叱られたあの時と同じだった。


 その後、気を利かせた父は病室を出た。俺は天衣の手を握りその寝顔を見つめた。この先何が起きるか分からない。けれど、この手だけは離さない。


(絶対に離さないからな!)


 天衣のか細い手の甲に額を当て、心の中で叫んでいた。まるで悲鳴だ。


「千斗星?」

「あっ! 天衣っ、気がついたか!」

「ん、あれっ! わたしまた倒れたの⁉︎」


 天衣のころころ変わる声や表情もいつものヤツだった。俺はホッとして思わずベッドに額をつけた。

 脱力するってこういう事かって思った。


「よかった……」

「ごめんなさい。私また千斗星に」

「大丈夫だ! 天衣は迷惑なんてかけてない。むしろ、お礼を言いたいくらいだっ」

「えっ、お礼?」


 驚く天衣の顔を見ながら彼女の手に唇を押し当てた。本当はガッツリ抱き締めたいんだ。けど、点滴に繋がれてるし流石に自重した。その代わり手の甲、手首とキスを落とす。戸惑う天衣の表情がそうさせたんだ。


「しばらく天衣はここで休憩だ。勤務地振り分けられる前にしっかり治しておけよ。な?」

「入院!」

「そう。防衛医大だから心配いらない。ここに居るみんな、俺たちの仲間だ」

「う、ん?」

「くくっ。ご両親も明日か明後日には来てくれるらしい。俺は、明日基地に戻るけど。その、ごめんな」

「ううん。千斗星、ありがとう」

「だから、ありがとうは俺の方。困った事があったらオヤジに言って。あの人あれでも一番顔が利くから」

「え? いま、オヤジって。千斗星? もしかしてお父様と仲直りしたの」


 天衣は察したのか何も言わない俺の顔を見て、お日様みたいに微笑んだ。その笑顔を見ると嬉しくなるし力が湧いてくる。だから俺は戦える。

 俺たちは航空自衛隊で最強コンビになるんだよ。なんだか俺の頭の中は臭さいセリフで溢れている。そんなことを考えると、勝手に頬が緩んで止められない。


「頑張って治そう。要撃管制官不在じゃ、俺は飛べない」

「もう。まだ、わたしなってないし」

「俺のバティになるんだろ?」

「ああっ! 覚えてたっ。やだ、恥ずかしいじゃん!」


 真っ赤になってキーキー言う天衣の唇に軽くキスをすると、途端に大人しくなった。


 俺、分かった気がする。

 二人で肩を並べて歩いて行けば、分かり合えるし支え合える。護るだけでなく、護られることの有り難さをやっと理解できた気がする。

 オヤジは母さんの事を思って帰らなかったし、母さんもオヤジの事を思って旅に出た。ただそれだけだった。それが愛と言われれば、そうなんだと今は思える。

 でも、俺と天衣は違う方法で愛し合うんだ。

 俺たちにしかできないやり方で。



 ◇



 控えめにノック音がしたと思ったらオヤジが入ってきた。「今、大丈夫かな」って顔を赤らめている。


(なに想像してたんだよいいトシして)


「あ! 暁空幕長、わたしっ」

「ああっ! 天衣さん。その呼び方は止めてくれ。その、なんだ。プライベートでは……その」


(まさかお義父さんて呼ばせようなんて思ってないだろうな!)


「オヤジ。暁さんでいいんじゃないかな。籍を入れるまでは他人・・なんだしさ」

「えぇ、それ恐れ多いよ」

「遠慮せずに暁さんと、呼んでくれ。天衣さんには、命令と言ったら言えるかな?」

「命令? では……暁、さん」


 それでもオヤジは照れていた。

 なんか今までが何だったんだろうって、無性に腹が立ってきた。いや、おかしくて仕方がないの方が正解か?


(オヤジ、ごめんな)

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